彼女にとっての世界
――リザにとって世界は、ひどく汚れ腐敗しているものだとずっと思っていた。
転生する前、確かにリザはそうした腐敗した場所の中でもそれなりに生き抜いていたように思う。遊女としての人生は基本辛いことの方が多かったけれど、その中でも多少ながら恵まれていたように――とはいえそれは、ドブ川で暮らす犬の中でどれが一番育ちがいいかを見比べるようなもので、他者から見たらやはり腐りきっていたのかもしれない。
決して、悪いことはしていなかったと思う。それでも最後、客と共に業火に身を焼かれたのは何かしらの天罰か。それとも客の運の悪さに引きずられただけなのか。
だから、リザは違う道筋を立てたくて拳を学んだ。戦う術を得て男にも引けを取らない力を得れば、前の人生と比べ少しは良い人生となるだろうと思っていた。
それが正解だったのかはわからない――だが、ユティスと出会う前までは前世よりはマシだったが、やはりドブ川で暮らしていたのは間違いなかった。
半端な異能を掴まされ何もできないと思っていた。だから異能者であることを隠し、自分は単なる闘士だということにした。
結局のところ、役に立たない異能は邪魔でしかなかった。異能と聞くだけで特別扱いされても、リザの能力はネイレスファルトでまったく役に立たなかった。だったらむしろ隠していた方がいい。そういう結論だった。
けれど――リザは思う。最初四本腕の魔物を見た時、その魔力に触れた時、感じた。
自分の異能は、このためにあったのだと。
魔物が、動く。疑似転移とでも言うべき技法は、魔力を収束させる必要があるという問題はあれど、その能力は間違いなく脅威となる。
しかし、リザはどうにか出現地点を知覚できていた。次に出現するのは、背後ではなく、左側。
さすがにマリードもこれまでの攻防で理解しているのだろう。リザはここまで基本右の拳で攻撃していた。さらに背後という読みもできている。ならば左側に回れば拳による攻撃も大したことなく、さらに相手の意表をつける。
その行動は、概ね間違ってはいなかった。左右のどちらかから来るという可能性は予想していたが、左側は右と比べてやや拳の威力も弱い。もっとも闘士として訓練を重ねてきたリザにとってみればそれほどの違いはないのだが――魔物の力量を考えれば、それは致命的な差になるかもしれなかった。
けれど、リザは慌てなかった。左側に出現した魔物に対し、裏拳を放つ。
だが次の瞬間、消えた。連続の移動。次に出現したのは背後。すかさず剣を振り下ろされる前に右足で蹴りを放つ。
不慣れな体勢であるため、魔物に傷をつけるのも難しいかもしれない。次はどうするのかという考えをリザが行った矢先、またも消えた。
三度目の移動。リザとしてはまだ想定内ではあったが、左側に出現したことで、完全な隙が生じる。
蹴りを放った足を戻す。さらに攻撃を避けるべく体を動かそうとするが――魔物はそこへ斬撃を放った。
リザの直感が、避けられないと悟る。ならば――リザは一転して体を左へ向け対峙しつつ左腕をかざす。
素手による防御。もちろん、無事で済むとは思っていない。
「リザ――!」
フレイラの声がした。けれどそれには応じず、リザはほんの少し俯き、前髪で目元を隠す。
同時に魔物の刃を、左腕が止めた。肌に刃が食い込み、鮮血が生じる。
「腕を犠牲にして、といったところかしら。けれどそれでもう、あなたも行動不能とまではいかないまでも十分痛手を負わせられたわね」
冷静に語るマリード。そして魔物は魔力を収束させる。
おそらくマリードの所に戻るのだろう。だがほんの僅かな隙が生じる。その間にリザは拳を振るう。
幾度も攻撃して普通なら通用しないことはわかった。他の幻獣よりも防御面が強化されているためか、リザの拳では相当な力を入れないと通用しない。
だが、そんな収束を果たせる時間は与えてくれないだろう――しかし、
今のリザならば、少しの時間で十分だった。
目の前から消え去る前に、右拳が到達する。仲間達、そしてマリードからしてみれば傷を負ったせめてもの抵抗だと見えたことだろう。だがリザは確信があった。
魔物の顔面に拳が触れる。そして、
――その頭部を、リザは平然と撃ち抜き、砕いた。
「――っ!?」
誰かが呻く声が聞こえた。無謀にも見えた反撃は功を奏し、とうとう魔物を捉えた。
魔物の魔力収束が中断する。どこで命令をしているのかわからないが、少なくとも頭部のその役割の一端を担っていたのだと、リザは理解する。
続けざまに、駄目押しのつもりで右足で前蹴りを放つ。魔物は避けることができず、それを腹部にまともに受ける。
それからは一瞬だった、つま先が当たった魔物の腹部があっさりと瓦解し、その体が吹き飛び壁にまで到達し、激突。動かなくなった。
一時、沈黙が生じる。マリードも突然の変化に驚いているのだろう。だから、
「……感謝するわ」
リザが言う。内容に反し、ひどく冷たい声音だとマリードは思ったことだろう。
俯いたままでリザはゆっくりと首をマリードへ向ける。そして相手と目を合わせた瞬間、
「なっ……」
呻き、凝視する。リザの瞳を。
「皮肉なものね」
そうした中で、リザは言う。
「こうした場には、本来訪れるべきではなかった……けれど、そのおかげで私は――」
リザは体をマリードへ向け、告げる。
「あなたのおかげで、強くなれた」
刹那、マリードは腕を振った。何をしたのかと思った矢先、彼女の足元に魔法陣が出現する。
おそらく、屋敷内を自由に動ける転移魔法陣。逃げる気だと思った矢先、その姿が消えた。
「引き際はわきまえているのね。けれど、もしかするともう出て来れないかもしれないけど」
「リザさん、怪我――」
フレイラが言葉を掛けようとしたが、止まった。気付いたのだろう。
「色々と制約もあるけれど、使えるみたいね」
左腕を動かす。魔物の剣によって出血していた左腕は、元に戻っていた。
傷跡すら存在しない左腕。それが異常なことだと理解したらしく、ティアナが口を開いた。
「どういう、ことですか?」
「……つまり」
リザは振り向く。顔を上げフレイラ達を見据え、
「……え?」
フレイラは言葉を発し、ティアナは絶句した。
「……彩、眼?」
「ええ、私もまた……異能者だったというわけ」
その力の発動をやめ、元の色へと瞳を戻す。
「私はこの力、何の役にも立たないと思っていた。けれど、今こうしてマリードと相対し……いえ、魔物達と戦い、ようやく日の目をみることになったというわけ」
リザは語りつつ、フレイラに近づく。
「驚くのはわかるけれど……今は、脱出を優先しましょう」
「う、うん。そうね」
「その間に、どういった能力なのか解説するわ」
リザが言う。フレイラは小さく頷き、ティアナへ引き上げるべく声を出す。
アリスは負傷しているためか動きが鈍い。するとティアナは騎士服の袖を破り、傷口部分の止血を始める。
「……リザ」
そうした中、歩き出したリザへフレイラは言う。
「異能者だから、ユティスに協力を?」
「違うわ。彼には色々と恩もあるし……言ってみれば、忠義といったところかしら」
その言葉に偽りはなかった。理解したフレイラは「そう」と呟き、リザが語り出すのを待つことにしたのか沈黙する。
(……ようやく、といったところかしら)
そうした中リザは思う。異能の真価がとうとう発揮され、自分もまたアシラやジシスと同じ場所に立てることになるのだろうか。
(自惚れ過ぎかしら……けれど)
両の拳を握りしめる。確かな手応え――それを胸に抱きつつ、リザはフレイラ達と共に部屋を出た。