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海の彼方へ/坂本龍馬の伴侶「お龍」の半生

作者: カオリ

楢崎龍(ならさきりょう)/通称・お龍


天保12年6月6日(1841年7月23日)


医師の父を持つ長女として、京都で誕生。



坂本龍馬(さかもとりょうま)


天保6年11月15日(1836年1月3日)


商家出身の下士土佐藩の次男として、土佐国(高知県)で誕生。




二人の出逢いは、元治元年(1864年)5月。


同年8月に祝言を挙げる。






『船中八策』


慶応3年(1867年)6月9日



一、大政奉還

二、議会開設

三、管制改革

四、条約改正

五、憲法制定

六、海軍の創設

七、陸軍の創設

八、通貨政策


坂本龍馬




《第一章 寺田屋龍馬襲撃事件》



慶応2年1月23日(1866年3月9日)


龍馬はお龍が世話になっている京都の寺田屋で、護衛の三吉慎蔵(みよししんぞう)と会談をしていた。


深夜2時。


風呂に浸かっていたお龍が騒ぎに気づき、窓を少し開け外の様子をうかがうと捕使(刺客)が宿を包囲していた。


危険を感じたお龍は全裸で階段を駆け上がり、龍馬が宿泊する部屋の(ふすま)を勢いよく開けた。


三吉は思わず顔を背ける。


龍馬はお龍を直視しながら、手の(さかずき)を落とした。


「お、お、お龍…、三吉さんまだ起きちゅうぞ」


「ちゃう! 捕り方が…、龍馬、逃げて!」


大勢が階段を駆け上がる騒音。


お龍はその場から離れ、龍馬は拳銃を、三吉は長槍を構えた。


その時お龍は別室で、騒動の音だけを聞いていた。


両手で耳をふさぎ、ただ、龍馬の無事を願った。




寺田屋に静寂が戻る。


羽織(はおり)一枚を身にまとい、お龍は先ほど龍馬たちが居た部屋を覗いた。


そこはもぬけの殻だった。


部屋中に飛び散る血痕。割れた茶碗。倒れた火鉢。


お龍は失いそうな精神を、やっと保っていた。


宿の女将 お登勢(おとせ)が現れた。


「龍馬はんは?」


「わかりまへん」


「無事でっしゃろか?」


「…わかりまへん」

お龍には、そうとしか言えなかった。



薩摩藩邸(さつまはんてい)による龍馬の捜索が行われた。


彼は材木置場に隠れていた所を救出される。


両手に重傷を負うも命に別状はなかった。


その後、彼は伏見(京都市内)の藩邸にかくまわれ、西郷隆盛(さいごうたかもり)に薩摩(鹿児島)でしばらく温泉治療をしてはどうかと勧められた。




「お龍、お龍!」


龍馬が別室のお龍を呼びつける。


その声を聞いたお龍は乱暴に襖を開けた。


「なに?」


「じき仕度をしろ。ホネー・ムーンじゃ」


「は?」


夫婦(めおと)の初めての旅行のことちや」


「また、けったいな言葉を覚えてきて…」


お龍は呆れていたが、龍馬は楽しそうに声を弾ませていた。


「ほき初夜を迎えるぜよ!」


お龍が軽く龍馬の手の甲を叩いた。


「い〜た〜い〜お〜!!」


「お箸も使えへん人がなんをしゃべるか。そっ、そんな下心しかいないなら、アタシは同行しまへん」


お龍は照れ隠しにフンッと顔を背けた。


龍馬はそんなお龍を横目でチラッと見る。


「ひやいねぇ。箸も使えない夫に尽くす気はないがか」


「西郷殿に“あーん”して貰え!」


「せごどん(西郷殿)に“あーん”したちらう(してもらう)のは嫌だ!」


暫く沈黙が続いた。


その沈黙を破ったのはお龍の囁きだった。


「アタシがいーへんかったら…あんた生きていけへんな」


「おう。おまえが居のうなったらオレは生きていけん」




2人が護衛と共に船場へ向かい歩いていると途中、新撰組の一行と鉢合わせた。


お揃いの(はかま)にハチマキ、彼らの堂々と歩く様にお龍も一目を置いていた。


「な、龍馬、声 かしぶちゃえ(かけちゃえ)!」


冗談っぽく言い龍馬の居た方を振り返るが、誰もいない。


反対側を見ても居ない。


後方を見ると物陰に龍馬の着物の裾らしき布が見えた。


お龍は大げさに息を吐き頭を抱えた。


新撰組一行が過ぎ去る。


その様子をしっかり目で追い、もう十分という所で声を張り上げた。


「龍馬、よう行ってしもたよ」


しかし彼は出て来ない。


再び大声を出した。


「龍馬ぁ!!」


すると龍馬がひょっこりと顔を出した。


「まるっきし、アンタは…情けへん。じゃまくさいなら斬ってしまえ!」


そんなお龍の言葉に、龍馬は自分の包帯だらけの両手を眺めた。


「斬られたち痛いちや」


そして、その両手を胸に当てた。


「斬った方はもっと痛い。オレは斬るんも斬られるんも好きじゃーないが」



《第二章 新婚旅行》



同年3月4日、お龍と龍馬は仲間数名と共に薩摩藩船「三国丸」に乗り込み、大阪を出航した。


風に当たろうと龍馬に誘われ甲板へ出る。


揺れる船、全身を包む潮風、一面に広がる浅葱色(あさぎいろ/水色)。


お龍は海の向こうを見つめる龍馬の横顔を見ていた。


「ねえ龍馬、アタシのどこに惚れたん?」


龍馬がゆっくりとお龍を振り向いた。


「だって、だって、気ぃ強いし、じゃまくさいやろ」


龍馬は暫く考え込み、お龍の目を真っ直ぐ見つめ真剣な表情できっぱりと言った。


「顔」


「は?」


「おまえのような美人は他にゃいない。こがな美人を(そば)に置けるなら多少のめんどぉくさいのは目をつむるぜ」


冗談だか本気だかわからない。


お龍の不安は(つの)るばかりだった。


「あと、あのっ…、初夜がどないのとかしゃべる話し、そのっ…、龍馬は子たちが欲しいん?」


「いらん」


即答され、さすがのお龍も少ししょんぼりした。


空気を読んだ龍馬はすぐに付け加えた。


「今は、いらん。世を立て直してからじゃ。天下が鎮まったら家を造ろう。そして一緒に各地を巡ろうか」


「家やらなんやら、いりまへん」


今度はお龍がきっぱりと言う番だった。


「船があれば十分。それに異国まで廻ってみたい」


「突飛な女じゃ」


そう、龍馬は笑い出した。




同月10日、2人を乗せた船は薩摩に到着した。


龍馬の護衛として当てられた薩摩藩士の吉井友実(よしいともざね)が、港で2人を出迎えた。


彼は自邸を宿舎として提供するために2人を案内する。


歩いている最中、お龍はずっと龍馬の腕にしがみついていた。


吉井も「歩き難そうだな…」と思ったものの、よけいな口出しはしなかった。


夫婦といえど男女が並んで歩くなどはばかれるご時世である。


道行く人々は、そんな2人をジロジロと見る。


コソコソと悪口を言う者もいた。


しかし2人は気にも止めていなかった。


いつでも人目を気にしたことなどなかった。



吉井邸に着く。彼は客室を案内した。



「部屋はひとつで良かな?」


「当たり前ありゃしゃりますぅ」


お龍がとびっきりの猫なで声を上げ、さすがの龍馬も少し引いた。



それからの数日間を、各地の温泉を廻り、滝や山を見物したりで楽しく過ごした。


そして、吉井に「霧島山の頂の“天の逆鉾”を見物してはどうか」と持ちかけられ、お龍は龍馬と一緒に、案内人の田中吉兵衛の同行で向かうことにした。




「天の逆鉾(あまのさかほこ)」とは、鹿児島と宮崎の県境の高千穂峰の山頂に突き立てられた矛(ほこ/槍)のことである。



山頂に着いた一行。


「天の逆鉾」は、天狗の顔を2つ付けたような鉄製の神器だった。


その奇妙な形に、まずは大笑い。


龍馬が矛の近くに駆け寄った。


田中はヒヤリとした。


「坂本さん! あまい近づいては…」


「見る ばあ(だけ)、見るばあ」


軽く言って龍馬は矛を蹴飛ばした。


「坂本さーん!!」


「つつくばあ(触るだけ)、つつくばあ」


「あぁ、もう…神宝を…」


田中が呟いた時、お龍が吐き捨てた。


「ごちゃごちゃうっさい! ただの案内人のクセして」


田中がお龍を(にら)んだ。


「アタシは坂本龍馬の妻だよ! 手を上げられるもんなら上げてみな」


「生意気な奴だ…」


「情けへん人やね! 自分より弱いもんにしか威張れへんの?」


騒ぎに気づいた龍馬が戻って来た。


「どうしたが?」


「この人がアタシをぶとうとしたんよ」


お龍は甘えた声で龍馬に抱きついた。


龍馬は訳がわからないという顔で2人を見やった。


「アタシ、なんも悪くへんのに」


「ああ、おまえは悪くないが。ほら、もっと ねき(近く)へ寄って見ておいで」


龍馬は優しくお龍をうながした。


田中は怒り心頭である。


そんな田中に向かって龍馬は「ごめん」というように手を合わせた。


龍馬も知っていたのだ。


お龍がワガママを言っていることに。



矛を前にしたお龍と龍馬は顔を見合わせて、ニヤリとした。


そして2人で矛に抱きつく形で、力を込めた。


田中の血の気が引いた。


「ま、まさか…! 神宝なですよ!」


「抜くばあ、抜くばあ」


もはや意味を持たないことを言う龍馬は、悪魔のような笑みを浮かべていた。


田中の心配も虚しく、矛が引き抜かれた。


お龍と龍馬は腹をかかえて大笑いした。




3ヶ月が経ち龍馬の刀傷も良くなり、彼は「第二次長州征討」による長州(山口県西部)行きが決まった。



長州へ向かう龍馬に同行し、お龍は途中の長崎で下船した。


そこで彼女を待っていたのは小曽根英四郎(こぞねえいしろう)という豪商(金持ちの商人)だった。


自分と同じくらいの年令の男の風貌(ふうぼう)を確かめて、お龍は龍馬へ不信感を抱いた。



小曽根の邸宅ではなく別宅に案内された。


お龍は荷物の中から拳銃を取り出し、角度を変えてはジロジロと見つめた。


その拳銃は別れ際の港で龍馬から護身用だと渡された物だった。



その時の会話を思い出す。


『お龍、炊事は こたうかえ(できるか)?』


『いーや嫌いだね』


『稼ぐこともしやーせんし家もいらんと言うき、おまえは金持ちの男にくっついちゅうのが えいがちや(いいんだよ)』



拳銃を荷物の中に雑に突っ込んだ。


「使い方わからへんよ」


身を守る物はある。住む場所も。


何不自由ない生活の中で、龍馬だけがいなかった。


夕食が終わりそろそろ(とこ)に着こうかと考えていた時だった、小曽根がお龍を訪ねて来た。


お龍は(ふところ)の短刀を引き抜いた。


「アタシは坂本龍馬の妻だよ! そのアタシを手籠め(てごめ)にする気かい?」


小曽根は苦笑いし首をゆっくりと振った。


「そがん物騒な物はしまいなさい。そいよりも拳銃の扱い方ば教えようか。坂本さんから預かっとっやろう」


短刀をかざし小曽根を凝視しながら、お龍は手だけを荷物の中に入れて拳銃を出した。


「これ?」


小曽根はにっこりと笑い、お龍を手招きした。


そして射撃訓練場に案内され、拳銃の取り扱いを覚えることになる。



《第三章 亀山社中》



慶応3年(1867年)2月10日


龍馬がそれまでに結成した貿易結社「亀山社中(後の海援隊)」の拠点を下関(山口県)に置いた。



長崎から呼ばれたお龍は、龍馬の作った会社に移住することになる。


時間の空いた2人は昼間から酒を交わしていた。


お龍が龍馬に寄り添って言う。


「アタシ、気ややこしいんかいな」


「またその話しかぇ…」


龍馬は気まずそうに視線を天井に外した。


お龍が龍馬からパッと離れる。


「やっぱりじゃまくさいんやろ。だから毎度どこぞに行っちゃおんやろ」


「ちがう!」


龍馬はイライラしていた。


お龍の言葉に対してではなく、そんなことを言わせてしまう自分自身に対してだった。


すると突然、お龍が龍馬の肩を突き飛ばした。


不意をつかれた龍馬が後ろに倒れ込む。


そんな龍馬にのしかかった。


「子、作ろう…」


龍馬が目を見開いた。


「子たちがいれば寂しくへん。アンタがいーへんても寂しくへん。薩摩やて長州やて、どこへやて行け!」


その時、襖が勢い良く開いた。


龍馬の盟友である中岡慎太郎(なかおかしんたろう)だった。


「御免、龍馬さん、…あ」


2人の姿を見た中岡は、すぐに襖を閉めた。


起き上がった龍馬は襖を少し開け上半身だけ出した。


「慎太、なんの用ちや?」


「近くに来たき寄ったけんど、邪魔したな。まさか昼間っから女を襲っちゅうとか思わんかったきなぁ」


その中岡の口調は皮肉めいていた。龍馬は廊下に飛び出して叫んだ。


「襲われたがはオレだ!」


中岡は顔を伏せて吹き出した。




お龍は食料の調達に走らされた。


戻って来て龍馬と中岡のいる部屋へ向かうと、龍馬の声が聞こえた。


「お龍は気むずかしうて訳がわからん」


襖を開けようとした手が止まる。


続けて中岡の声がする。


「むずかしい? あーんなに真っ直ぐな女ながに」


「オレが居のうても寂しくないらぁ、どこへでも行けらぁ言われたちや」


「女は さかしー(逆)のことをゆう。寂しくないは、寂しい。どこへでも行けは、どこにも行くな。お龍さんは龍馬さんと一緒に居たいだけちや。ほれとも祝言を挙げたがを後悔しゆうかえ?」


龍馬は答えなかった。


変わりに、彼の穏やかな声が聞こえた。


「戦からいき来て美人が出迎えてくれるのは悪くない。あいつが待っちゅうと思えるき、オレは頑張ることができるんだ」


お龍は、そーっと廊下を戻り、わざと足音を立て走り襖を開けた。


「こしらえたよ。アタシも一緒させて」


龍馬が無言で自分の隣をポンポンと叩く。


お龍は静かにそこに座り、龍馬に寄り添った。


中岡は気を悪くする様子も見せずに、にこにこしていた。




「坂本先生にお客様でございます」


外から声をかけられ襖が開けられた。


そこに、背の高そうな、どことなく雰囲気がお龍に似ている女性が丁寧に頭を下げていた。


「千葉 さな(ちば さなこ)と申します」


彼女が頭を上げた。


龍馬がビクッと震えた。


お龍はそんな龍馬の様子を見逃さなかった。


「千葉道場主の父である 定吉(さだきち)の遣いで江戸より参りました。父より亀山社中御社創建の御祝いとして、これを…」


さな子は包を差し出した。


お龍が険しい視線を龍馬に向ける。


「やれ(誰)?」


「オレが江戸で剣術を習っちょったが時に世話になった道場の娘で…」


「そら、さいぜん(さっき)本人が言わはった。まさか龍馬にこないな愛らしいお妾さんがおいやしたなんてなぁ」


「ちがう!」


すると中岡がスッと立ち上がった。


「ほんならオレはこれで」


龍馬が中岡の裾をしっかりと握った。


「どこ行くが?」


「いや、オレがおらん方が面白くなると思って」


中岡は口を手でおおい、笑いをこらえていた。


龍馬はそんな中岡の背中を叩き部屋から追い出すようにして廊下に出た。


そしてら何やら2人でひそひそ話しをする。


「コソコソすんな!」


お龍がキレた。




中岡の退座に続き、さな子もソワソワした様子で立ち上がった。


「では、私もこれで…」


「また遊びにおいで」


龍馬が社交辞令でそう言うと、お龍が厳しい声を上げた。


「ぶぶ漬こしらえしてお待ちしてまっせっ!」


龍馬は精一杯の作り笑いを浮かべた。



それから龍馬がさな子を門外まで見送りに行く。


お龍は2人の後をこっそり尾行した。


「今日は しゃっちみち(わざわざ)ありがとう」


龍馬がそう言うと、さな子は先ほどのしおらしい印象とは真逆にサバサバした口調で言った。


「奥様、お綺麗な方ね。いつの間に結婚してたの?」


「…3年前」


「いつの間に別れたっけ?」


「おまえ、待ってなかったろう」


物陰に隠れているお龍は、今にも飛び出して殴りかかりたい衝動を堪えていた。


龍馬は静かに、だがはっきりと言った。


「オレが帰国した時に、おまえにゃ他の男がおったろう」


「そうだったかな」


「さなとお龍の違いはそこちや。お龍は行けらぁ行くならぁ大騒ぎするけんど、ちゃんと待っちゅうき」


「勝手だねぇ!」


「そうちや。男は身勝手な生き物やき」



その日の夜、

お龍は龍馬に誘われて巌流島(がんりゅうじま/関門海峡の無人島)へ行く。


そこで龍馬が昼間に中岡に用意させた花火を打ち上げていた。


夜空に舞う花を眺めながら、龍馬はずっとお龍の手を握っていた。


「愛してる」とは一度も聞いたことがない。


さな子との関係も説明しない。


しかし、この手の温もりが龍馬の本心だった。



《第四章 龍馬からの手紙》



慶応3年(1867年)5月、お龍の元に一通の手紙が届いた。


差出人は「才谷梅太郎(さいだにうめたろう)」龍馬の偽名である。


お龍は心を弾ませ、その手紙を開封した。


すると中にもう一通入っていた。


不思議な手紙の出し方をするなと思いながらも、とりあえず一通目に目を通した。


その内容は、龍馬が乗った船が沈没する騒ぎがあったというものだった。


お龍の表情が険しくなる。



内容は、このとおり。


慶応3年4月23日(1867年5月23日)の晩に、大坂へ向かっていた海援隊の蒸気船「いろは丸」が、瀬戸内海中部沖で紀州藩船「明光丸」と衝突し沈没した。


その様子が図入りで面白おかしく解説されていた。


お龍は、面白くともおかしくともなかった。


龍馬の命を狙う相手は、人間だけとは限らない。


心配事がひとつ増えただけだった。


そして、長く渡り書きつづられるその手紙は、こう締めくくられていた。




『オレはこの通り 事件の後始末で余計な仕事が増えたが


不幸中の幸いか 怪我もなく無事じゅう


まだ ひやい夜もある 体を冷やすな よお食べろ


ほれと 妙な男にゃ引っかかるがないぞ



オレは今回の件で考えた


もし このままオレが居のうなったら おまえはどうなるがかと


人の命は簡単に失われる


けんど 人を救うのもまた人だ


寺田屋事件ではお龍の機転で オレの命は救われた


今回の件でも土佐藩士の支援の結果 こちらの主張が通った


おまえは生きるのが下手やき


オレは ぎっちり心配しゆうちや


最後には人脈が物を言う


今の内に縁を結きおけ』



全て読み終わると、お龍はもう一通を開封した。




『船中八策』


○○○自ら盟主と為り


一、大政奉還

二、議会開設

三、管制改革

四、条約改正

五、憲法制定

六、海軍の創設

七、陸軍の創設

八、通貨政策


坂本龍馬

慶応三年 五月




同年9月


長崎で英国公使パークスとの談判に当たっていた龍馬が、下関のお龍の元に戻って来た。


しかし、それは束の間の再会だった。



「決めた!」


そう言ってお龍は突然襖を開けた。


龍馬が着替えている最中だった。


下関を発つ準備をしていたのだ。


「お龍…、開ける がけに(前に)声をかけろと…」


「夫婦なんやさかい、ええやろ。それよりも…」


畳の上にちょこんと座り、龍馬を見上げた。


「どこへ行くのかは知らんけれどアタシも連れてって」


「え」


「アンタは、行かへんでと言うても行く。行けと言うたらホンマに行ってしまう。さかいに決めたん。アタシも一緒についてく」


龍馬はお龍の正面に、かしこまって正座した。


「それは、こたわん(できない)」


「なんで?」


「はやちっくと(もう少し)やき…あとちっくとで大政奉還が…」


「聞きたくへん!」


お龍はピシャリと言って、龍馬の言葉をさえぎった。


「男は勝手やね。言い訳ばっかしで! 女がどないな気持ちでいてるかなんて…」


気の強いお龍が涙ぐんでいた。


龍馬は、お龍を悲しませる自分を恨んでいた。


これでは本末転倒だと知っていた。


「わかった。はや、どこにも行かえい」


龍馬はあっさりと答えた。


お龍は、聞き違いか?というような顔を龍馬に向けた。


龍馬は、優しく微笑んだ。


「ずっと、ここでお龍と一緒におるよ」


「ホンマ?」


龍馬はゆっくりと(うなず)いた。



龍馬には信念がある。


その信念の為なら平気で仲間を騙し、簡単に敵に寝返ったりもした。


龍馬のそんな心の闇を、お龍は知らなかった。



龍馬が優しくお龍を抱きしめ、囁いた。


「お龍が欲しい…」


お龍は静かにうなずいた。


夏の終わりに、最後の夜を迎えた。


夜明けを待たずに龍馬は消えた。


乱れる寝巻きと髪をそのままに、お龍は静かに涙を流していた。しかし、その口元には笑みが浮かんでいた。



行くなと言っても行ってしまう。行けと言ったら本当に行ってしまう。


もう龍馬を止める手段はなかった。



《第五章 お龍の決断》



慶応3年11月15日(1867年12月10日)の午後8時頃、お龍は目を覚ました。



この日、彼女は体調が優れず早めに床に着いていたのだ。


土佐出身で寒さに弱い龍馬は風邪をひきやすく、その為かいつも自分の体調を気遣っていたと思い出す。


胸が苦しい。全身がこわばる。


理由もわからず涙が流れた。



ふと気配を感じ首を動かすと、枕元に血まみれの龍馬が立っていた。


額に二ヶ所の刀傷が見えた。


驚いたお龍が飛び起きる。


「斬られたん!? 誰にやられたか!」


すると龍馬は右腕を伸ばし、お龍を制した。


「ほたえなぁ(騒ぐな)」


お龍は息を飲んだ。


生気の感じられない顔色。生きていられるはずのない出血の量。


それでも龍馬は安堵(あんど)の表情を浮かべた。


「おまえが無事で良かったが」


涙が止まらないお龍に向かって、龍馬が再び声を漏らした。


「ごめん…」


何に対しての“ごめん”なのか問う前に、スッと音もなく姿が消えた。


お龍は長い時間、龍馬の立っていた場所をぼんやりと眺めていた。

夢でも見たのだろう。


そう自分に言い聞かせていたが、生々すぎた光景が頭から離れなかった。



同年12月2日、龍馬の訃報がお龍の耳に入った。


覚悟と確信をしていたお龍は、その話しを静かに受け入れた。


溢れるのは、涙ばかり。



聞いた話しを断片的に思い出す。


一緒に斬られ2日間生き延びた中岡の証言によると、刺客は音もなく投宿していた部屋へ現れ、龍馬の額に刀を降ろした。


床の短刀を取ろうと背を向けた時に、背中を。短刀を手にするも(さや)から引き抜く間もなく、再び額を横に払われた。


その場に居た中岡も屏風(びょうぶ)の後ろに隠した刀を手にするも、抜く(すき)なく鞘ごと応戦した。


そして彼は両手足を刻まれ意識を手放す。


騒ぎに気づいた宿の主人が土佐藩邸へ通報し戻ると、血の海の中で龍馬が絶えていた。



実行犯が知りたかった。


なぜ龍馬が暗殺されなければならなかったのか知りたかった。


お龍は首を振った。憶測は何の役にも立たない。実行犯を八つ裂きにしても龍馬は還らない。



『天下が鎮まったら家を造ろう。そして一緒に各地を巡ろうか』




慶応4年(1868年)3月、お龍は龍馬の未亡人として坂本家に引き取られた。


しかし義兄の権平(ごんぺい)夫婦と折りが合わず、わずか3ヶ月で家を出ることになった。



夕刻前、ひっそりと身仕度を整えていた。


数枚の着物と滅多に使わない化粧道具と護身用の拳銃。

そして、十数枚に渡る、龍馬からの手紙。


その手紙の束の中から一通を引き抜き、しっかりと胸に当てた。


「いろは丸沈没事件」の書。



『最後には人脈が物を言う

今の内に縁を結きおけ』



「ホンマに…」


独り言が漏れた時、義姉の乙女(おとめ)が部屋に入って来た。


「お龍、まっこと出て行くが?」


「はい。アタシのような厄介者はいーひん方がええのです」


「そんな…。せめて あいた(明日)にいたらいい。じき陽も暮れるき」


お龍は畳の上に指を()え、丁寧に頭を下げた。


「乙女さんには親切にしてもらい感謝していますわ」


「行くあてはあるが?」


お龍は顔を上げ、にっこりと笑った。


「アタシは坂本龍馬の妻です。夫の遺どした人脈がおます」




坂本家を後にしたお龍は、妹の起美の嫁ぎ先である千屋家に身を置いた。


起美は生前の龍馬の意思によって海援隊士の菅野覚兵衛(すがのかくべい)と結婚していた。


しかし約一年後の明治2年(1869年)の中頃に覚兵衛の都合により千屋家にも居られなくなった。


その時お龍は、いっそ土佐を出てしまおうと考えていたのだ。



お龍は台所仕事をしている起美に声をかけた。


「ねえ、これ くべてしもて(燃やして)」


そう言い差し出したのは、龍馬からの手紙の束だった。


「こ、これ…、なんで?」


「勘違いせいでな」


お龍はケラケラと明るく笑った。


「手紙は、アタシと龍馬の大切な想い出なんやよ。誰の手かて目かて触れさせたくへん」


「でも…」


起美は戸惑うばかりでどうすることもできなかった。


お龍が、そんな起美の手を取りしっかりと手紙を握らせた。


「アタシにとって物は物でしかいないな。そないの、どやってええんよ。龍馬の優しさも愛もみな受け取った。不器用でわかりにくい男さかいに、気づくのが今になってしもたけれど」




海へ出た。


よく龍馬と舟に乗り、2人で海を眺めた。



龍馬は暗殺される一ヶ月前に「新官制擬定書」を作った。


その主要人物に龍馬本人の名前がないことを西郷に聞かれた時に、彼は『他にやりたいことがある。例えば舟で異国を廻るとか』と答えた。



龍馬はよく海を眺めていた。


しかし彼が見ていたのは海ではなく、その向こうの異国だった。


彼が命懸けで成し遂げたかったのは「大政奉還」そのものではなく


その先の、夢。


その本当の夢を叶えることなく、彼はこの世を去った。



「龍馬は自分を斬った人を恨んでへんの?」


潮風が優しくお龍を包んだ。


ふわりと声が落ちた。



『そがな暇なかったが』



お龍はクスリと笑った。


「アンタらしいよ…」





『船中八策』


○○○自ら盟主と為り


一、大政奉還

二、議会開設

三、管制改革

四、条約改正

五、憲法制定

六、海軍の創設

七、陸軍の創設

八、通貨政策


坂本龍馬

慶応三年 五月






最終的にお龍は寺田屋の女将であるお登勢の(つて)で、京都にある龍馬の墓碑近くに住まいを置いた。



懐に手を入れハッとした。


肌身離さず持っていた手紙一通を、そこに残していたのだ。


龍馬からの「いろは丸沈没事件」の書。


「忘れとった…」


手紙を開く。


自分を気遣う内容のその手紙を、今さら手放す気にはなれなかった。


「ま、忘れとったんも縁やな」


そう自分に言い訳をして、同封されている「船中八策」と題した書のみを、細かく破いて、風に飛ばした。


もしかしたら、これは凄く大事な物かも知れない。


時代と国を動かす証明となる物かも知れない。


しかし龍馬が居ない今、お龍にとっては意味のない物だった。


舞い散る破片を眺め、内容をぼんやりと思い出していた。


「ねえ龍馬、あの“○○○”の空欄の所、アンタは誰の名前を書きたかったん?」


答えが返ってくるはずもない。



《END》




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― 新着の感想 ―
[良い点] 細かくたくさん書いてあり、分かりやすく読みやすい なんかいもよんでます [気になる点] 特にありません [一言] 坂本龍馬が好きなのでこういうサイトがあると嬉しいです
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