桜の木の下のダンゴムシ
——温かな陽射しはあまり好きじゃない。
小さな公園の片隅で、木の陰と枯れた落ち葉に隠れながらダンゴムシはそう思った。
湿った土に蹲る。ひんやりとした感触と土と草の匂いがして、心が落ち着く。こういうのを日陰者というらしい。
落ち葉の裏を、土の匂いを確かめながら辿っていく。小さな石を越えると、土の浅いところからミミズくんが顔を出した。
「今日は雨が降るかもね」
どうしてわかるの、と聞くとミミズくんは得意そうな顔をして、土が教えてくれるからさ、と返した。
ミミズくんは物知りだった。空のこと、土のこと、季節の巡り方。ダンゴムシの知らないことを、ミミズくんはたくさん知っていた。
「今は春って言うんだぜ」
「はる……?」
ダンゴムシが癖で足をうねうねと動かす。考えごとをすると、つい足が動いてしまう。
「止めろよ、気持ち悪いなあ」
ミミズくんが体をうねうねと遠ざける。ミミズくんも一緒じゃないの、とは口が裂けても言えない。
「温かくなって、花が咲く季節さ。この木にも、もうすぐピンクの花が咲く」
「桜、だよね。この前もとても綺麗だったなあ」
ダンゴムシのいる公園には、砂場と滑り台と塗装の剥げたベンチがひとつ。それから、お気に入りの桜の木が一本だけ立っている。
ダンゴムシは木を見上げた。枝の先に、小さな蕾がいくつかついていた。あれがまた花になるのかな、と期待で胸が一杯になる。
「ミミズくんは、何でも知ってるんだね」
「当たり前だろ」
ミミズくんは少し胸を張った。胸がどこなのかは正直わからない。
「でも、オレにもわからないこともある」
ミミズくんの言葉にダンゴムシはびっくりした。ミミズくんにもわからないことがあるなんて。
「たとえば?」
「人間とかさ」
ミミズくんは呟くように言った。二本の足で立って歩く、途方もなく大きな生き物のこと。時々この公園にもやってくる。
「あれが何を考えているのか、オレにもわからない。やることに、いちいち意味があるのかもわからない」
「いみ?」
「とにかく、よくわからないやつらなんだ」
ミミズくんはそう言って、土の奥へ潜っていってしまった。
ダンゴムシは桜の蕾を見上げたまま、少しの間その言葉を転がす。
——いみって何だろう。
考えてもわからない。また今度ミミズくんに聞いてみよう。ダンゴムシは切り替えて、日課の土耕しをすることにした。
*
日課に励んでいると、不意にダンゴムシの上に影が差した。雲かと思った。けれど、雲はこんなふうに地面を踏み鳴らしてはこない。
「こんにちは、ダンゴムシさん」
影の正体は、しゃがみ込んだ人間だった。
どうしよう、と考えているうちに体が自然と丸くなった。ダンゴムシは固い殻になって、落ち葉の間でじっとする。
指が伸びてきた。土ごと、そっとすくい上げられる。
ダンゴムシは丸まったまま、されるがままに、柔らかいものの上にゆっくりと置かれた。
『人間には手があって、手のひらというやつはとても柔らかいらしい』
ミミズくんの言葉を思い出す。恐る恐る殻を解いて、ダンゴムシは顔を上げた。
すぐ近くに人間の顔があった。丸い二つの目が、こちらを覗き込んでいる。口の端が優しく持ち上がっていた。
大きな指が、ダンゴムシの背をほんの少しだけ撫でた。痛くなかった。何故だか嬉しい気持ちになった。
ミミズくんの言う通り、手のひらは土とは違う温もりで、少しだけくすぐったい。ダンゴムシは、もう丸まる必要は無いのかもしれない、とぼんやり思った。
しばらくして、人間はダンゴムシを元の場所へそっと戻した。立ち上がり、また地面を踏み鳴らしてどこかへ行ってしまった。
その夜、ダンゴムシは石の隙間で中々眠れなかった。あの温もりが、まだ背中に残っている気がした。
——あの人間は、どうして自分を撫でたのだろう。
考えてもわからない。けれど、嫌な気持ちはしなかった。これにもいみはあるのだろうか。
ミミズくんの予想は外れて、その日はずっと晴れだった。
*
翌朝、ダンゴムシは土の上を急いで這ってミミズくんを探した。小さな石の傍で、ちょうど顔を出したところのミミズくんに声をかける。
「ミミズくん、聞いてよ。昨日、人間に触られたんだ」
「……人間に?」
ミミズくんの動きが止まった。
「うん。手のひらに乗せられて、背中を撫でてくれたんだ。すごく、温かかった」
ダンゴムシは嬉しそうに足をせわしなく動かす。話しているだけで、胸がぽかぽかする気がした。
ミミズくんは黙り込んでしまった。無表情で、しばらくダンゴムシのことを見つめる。やがて、ゆっくりと口を開いた。
「そうか。よかったじゃないか」
「人間は、とても優しいんだね」
「オレにはわからない」
ミミズくんの声はいつもより低かった。
「あいつらが何を考えてるのか、オレにはわからない。撫でたのだって、意味なんか無いのかもしれない。気まぐれさ」
ミミズくんは淡々としていた。
「今日優しくても、明日どうなるかなんて、誰にもわからないんだ」
「でも」
「人間に、良いも悪いも無い。期待するだけ無駄さ」
ミミズくんはそう言って、また土の奥へ潜っていってしまった。
ダンゴムシはぽつりとその場に残された。今日は雲が厚い。一日遅れで雨が降るのかもしれない。
*
ダンゴムシが土を耕しながら人間のことを考えていると、こつりと頭をぶつけた。
「ごめんなさい」
「こちらこそ、ごめんなさい」
アリさんだ。いつも礼儀正しくて、働き者なアリさんがダンゴムシは好きだった。
「今日はこの辺りで働いているの?」
ダンゴムシが尋ねると、アリさんはこくこくと頷いた。
「ええ、そうなんです。向こうで捕れる物では女王様が満足なさらず、今日はこちらに足を運びました」
「そうなんだ。大変だね」
「ダンゴムシさんは、相変わらず土の手入れですか?」
「うん。それと昨日ね、人間に撫でてもらったんだ」
言ってしまってから、ミミズくんの言葉を思い出して少しだけ口ごもる。けれどアリさんは、へえ、と素直に感心したようだった。
「人間に。それは珍しいことですね。我々も人間が落とす食べ物には助けられています」
「アリさんは、人間が何を考えてるか知ってる?」
アリさんは触角をぴくぴくと動かした。うーんと考えている。
「わかりませんね。働いてばかりで、物事を深く考えるのが苦手になってしまいまして」
アリさんがそう言ってすぐ、地面が揺れた。どすん、どすん、と踏み鳴らす音がする。
影が差す。帽子を被った人間だった。昨日とは顔が違う。
指が伸びてきて、アリさんを摘み上げた。アリさんは何か言おうとしたけれど、声は届かなかった。
小さな体が指の間に挟まれて、宙へ持ち上げられていく。
「ど、どこに行くの——」
ダンゴムシが声をかけた時には、アリさんはもう帽子の人間と一緒にどこかへ行ってしまった。
土の上に、アリさんの落としていった荷物の欠片がぽつんと残された。
帽子の人間は遠くへは行かなかった。砂場の傍にしゃがみ込んで、何かをしている。何をしているのかは、ダンゴムシからは見えなかった。
やがて人間は立ち上がり、こちらに戻ってくるとまた地面を見回し始めた。何かを探しているようだった。
ダンゴムシは丸まることも忘れて、その場で固まっていた。帽子の人間がこちらを見下ろしている。丸い目が、ダンゴムシを見つけて僅かに開いた。
「お、ダンゴムシじゃん」
指が伸びてくる。ダンゴムシは無意識に体を丸くした。昨日の人間とは違い、そのまま体を摘み上げられた。
節の隙間が、ぎゅっと押される。手のひらには乗せてもらえなかった。
ダンゴムシを摘んだまま、帽子の人間は歩き出した。ダンゴムシの頭の中が、ぐらぐらと揺れる。
やがて、帽子の人間は滑り台の前で足を止めた。かん、かんと階段を登り、一番高いところまで来るとダンゴムシを置いた。
——高い。
ダンゴムシは、こんなに高いところに来たことが無かった。銀色の坂が、真っ直ぐ下に向かって伸びている。地面がずっと遠くにあった。
「それっ」
声と一緒に、木の枝の端で背中を突かれる。丸くなったままではその力に抗えず、ダンゴムシの体は坂を滑り出した。
風が、凄い勢いで通り抜けていく。景色が、とてつもない速さで流れていく。
——怖い。
ダンゴムシは滑り台の下まで一気に滑り落ちて、地面の砂の上にころりと投げ出された。節々がじんと痺れている。少しの間、動けそうにない。
帽子の人間は滑り台の上で楽しそうに笑っている。自らも滑り降りてくると、ダンゴムシをまた摘み上げて坂のてっぺんに戻した。
「もう一回」
何度繰り返されたか、ダンゴムシにはわからなくなっていた。ただ、何度滑っても恐怖に慣れることは無かった。
——これにもいみがあるのだろうか。
考えても、わからなかった。
やがて飽きたのか、帽子の人間はダンゴムシを砂の上に置いたままにした。枝の先で、ただダンゴムシを突き続ける。
横から、上から、何度も何度も。丸まっているとはいえ、少し痛い。容赦なく小突かれ、ころころと転がされ、ひっくり返され、また転がされた。
帽子の人間の手が不意に止まった。枝を放り出して立ち上がる。ダンゴムシをまた指で摘み上げると、どこかへと歩き出した。
——次は何をするの。
ダンゴムシにはもう、丸まる力も残っていなかった。
帽子の人間が向かった先は、公園の水飲み場だった。
冷たい石の縁にダンゴムシは置かれた。湿った土よりもひんやりとしていたが、冷たいだけで温かさは無かった。
頭のすぐ上に、銀色の何かと黒い穴があった。きゅるきゅる、と音がすると、急に水が流れ出した。ダンゴムシのいる石の上を、勢い良く流れていく。
節の隙間に冷たい水が入り込んでくる。体が押されるが、掴まるところはどこにも無い。
ダンゴムシは水に浮いて、石の縁から水と一緒に流され始めた。くるくると、どこへ向かっているのかもわからない。
帽子の人間はいつの間にかいなくなっていた。水の勢いが少しずつ弱まっていく。
ダンゴムシの体は排水溝の隅の、湿った落ち葉の間に引っかかって、ようやく止まった。
体が冷たい。節々の感覚がだんだん遠くなっていく。空がぼんやりと滲んで見える。
ぽつり、とダンゴムシの背中に冷たい水が落ちた。ぽつり、ぽつりと小気味良く続いて、それが雨なのだと悟った。
ミミズくんの予想は少し外れたけど、やっぱり当たった。
ダンゴムシは、昨日の手のひらの感触を思い出す。ミミズくんはああ言ったけれど、それでも、あの時感じた温もりは優しさに溢れていた。
それにいみが無かったのだとしても、ダンゴムシにとってはいみがあった。それだけで充分なのではないかと、ダンゴムシは思った。
雨は静かに降り続けた。誰のためでもなく、何の意味も無いように、ただ、土を、葉っぱを、小さな身体を、等しく濡らしていった。




