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色を取り戻す日

作者: トミヤマ
掲載日:2026/02/23

一.死んだ毎日


 冬の朝は、いつも同じにおいがした。


 加湿器から漂う白い蒸気と、安いドリップバッグで淹れたコーヒーの苦み。目覚まし時計が六時半に鳴る前に目が覚め、しばらく天井の染みを眺めてから、重い体を起こす。着替えて、コーヒーを飲み、鏡を見ないようにしながら玄関を出る。


 佐和舞子の毎朝は、ずっとそうだった。


 その日も、そのはずだった。


「佐和さん、ちょっといいですか」


 午前十時を少し過ぎた頃、内線が鳴った。人事部の渡部課長からだった。低く、感情の起伏のない声。舞子は受話器を握りながら、胸の底に小石が落ちるような感覚を覚えた。


 応接室は会社の中でも異様に静かな場所だった。外の雑踏も、フロアのキーボードの音も、ここには届かない。窓のない小部屋で渡部課長と向かい合って座ると、テーブルの上に一枚の書類が滑らされた。


「業績悪化のため、契約の更新ができなくなりました」


 それだけだった。


 渡部は表情を変えず、まるで天気予報でも読み上げるように淡々と告げた。十年間、舞子がここで過ごした日々は、その一言で終わった。


 今期、つまり次の三月いっぱいで、舞子は会社を去らなければならない。


 フロアに戻り、自分のデスクに座りながら、舞子はその事実を反芻した。泣けなかった。怒りも悲しみも湧いてこなかった。ただ、どこかひんやりとした空白が胸の中に広がっていく感覚だけがあった。


 困ったな、と思った。


 理由が「業績悪化」であることは、頭のどこかでわかっていた。社内の空気の変化も感じていた。会議室での声が低くなり、上の人たちの顔が険しくなり、コピー用紙の発注量まで厳しくチェックされるようになっていた。


 いつ首を切られてもおかしくない状況であることは、薄々わかっていた。


 だが、将来の展望など何ひとつないまま、放り出されてしまった。


 ──これからどうしよう。


 不思議なことに、舞子は悲観的にならなかった。


 なるようにしかならない、と自分に言い聞かせながら、その夜もスーパーの特売で手に入れたお惣菜を箸でつついた。鶏の唐揚げ三個と、ほうれん草のお浸し。値引きシールが貼られた百五十八円の夕飯を、テレビもつけないまま、一人で食べた。


 風呂に湯を張り、浸かりながら舞子は天井を見上げた。


 世の中は、理不尽だ。


 自分なりに、誠実に仕事をしてきたつもりだった。ミスをすれば頭を下げ、締め切りを守り、頼まれたことは断らないようにしてきた。派遣だからといって手を抜いたことはほとんどなかった。


 こんなに簡単に捨てられてしまうものなのか、と舞子は思った。


 お湯が少し冷めた頃、舞子は考えた。


 四月から無職。でも自己都合退職ではないから、失業手当はすぐに出るはず。貯金も少しある。この機会に、やりたかったことをやって、行きたかった場所に行こう。


 舞子は風呂から上がると、久しぶりにノートを取り出した。


 ペンを走らせようとして、止まった。


 ──何も思いつかなかった。


 誰だって、やりたいことの一つや二つはあるはずだ。行ってみたい場所、食べてみたいもの、会いたい人。


 でも舞子は、白いページを見つめるだけだった。


 自分でも気づかないうちに、自分の中が空っぽになっていた。


 平日は会社と家の往復、休日はベッドでだらだら。気が向いたらSNSを眺め、また寝る。料理もしない。音楽も映画も最近は楽しんでいない。


 好きだったことを思い出そうとしたが──何も思い出せなかった。


 舞子は愕然とした。


 私はこの十年間、何をしていたのだろう。会社と家の往復だけ。好きなことも、友人も恋人もいない。仕事の話しかしたことがない同僚との交流だけ。


 今まで私は、「生きている」と言えたのだろうか。


 ノートを閉じ、舞子は電気を消した。暗い部屋で目を開けたまま、天井を見上げる。


 私は、今まで「死んで」いた。


 その言葉が、するりと心に落ちた。否定できなかった。



二.好きなこと


 翌日も、その翌日も舞子は会社に行った。


 退職日までの残り数週間、粛々と業務の引き継ぎをこなし、頼まれた資料を片付け、笑顔で「お世話になりました」と頭を下げ続けた。


 同僚は多少気まずそうにしていたが、特に何か言ってくれる人はいなかった。それで構わなかった。慰めを求めたい気持ちだったかは、よくわからなかったから。


 家に帰ると、また白いノートを開いてみた。


 今日こそ何か書けるかもしれない──淡い期待を持って。


 でも、ペンは動かなかった。


 テレビをつける。バラエティ番組に出る芸能人たちは、楽しそうに話していた。アイドルグループの若い女の子が、「最近プラモデルにハマってて」と照れながら話す。ほかのメンバーが笑う。その目は本当に輝いていた。


 羨ましい、と舞子は思った。


 世間では「良い歳こいて」と言われる趣味でも、それを楽しみ、生きている実感を得ている人たちがいる。


 舞子も、そういうものが欲しかった。


 「生きている実感」が欲しかった。


 「好きなもの」が欲しかった。



 ある日の昼下がり、いつも通りスーパーからの帰り道、舞子はふと足を止めた。


 大型スーパーの端に百円ショップがあった。目的はない。だが、自然と中に入った。


 文具コーナーに、ボールペン、マスキングテープ、メモ帳が並ぶ。キッチン用品は色とりどりの小物。舞子はゆっくり歩き、棚を眺めた。


 ホビーコーナーで足が止まる。


 ハンドメイド用品の棚だった。レジン液、シリコン型、封入パーツ。小さなビーズやアクセサリーのパーツ。毛糸と、かぎ針。


 ああ、と舞子の胸の中で何かが動いた。


 私は何かを作るのが好きだったな。


 レジンでアクセサリーを作ったことを思い出す。二十代前半だったか。透明な型に花びらを閉じ込めて固め、チェーンを通してピアスにした。友人にあげると喜んでくれた。


 編み物もした。途中で飽きて正方形の鍋敷きだけ完成したことも、今となっては笑える思い出だ。


 またやってみようか──でもまだ迷いがあった。


 文具コーナーに戻ると、一冊の本が目に入った。


 『大人の塗り絵』。


 表紙には細かな模様の花々が描かれていた。真っ白な線画が、静かにそこにあった。


 塗り絵も、好きだったな、と舞子は思った。


 子どもの頃、塗り絵を何冊も使い潰した。はみ出さないように丁寧に塗るのが好きで、でも時々わざとはみ出してみて、解放された気持ちになったこともあった。


 これを買ってもいいかもしれない──百円だし。


 隣には色鉛筆のセットもあった。十二色の、シンプルなもの。舞子は手に取った。


 ふと目に入ったのはレターセット。水彩画風の小花柄。薄いブルーの便箋に、同じ柄の封筒が三枚。舞子は手に取り、しばらく眺めた。


 そういえば、文通も好きだった。高校の頃から続けていた、都ちゃんのことを思い出す。互いに忙しくなり、気づけば何年も連絡を取っていない。元気にしているだろうか。


 舞子はレターセットもカゴに入れた。


 合計三百三十円。小さいけれど、胸の中で何かが変わろうとしていた。窓が指一本分だけ開いたような、そんな感覚だった。



三.自由


 三月三十一日。


 その日があっけなくやってきた。


 終業のチャイムが鳴り、舞子はデスクの私物を段ボール一箱にまとめた。観葉植物も写真も、マグカップも持ち込んでいない。段ボールには、リップクリーム、読みかけの文庫本、予備のエコバッグだけが入っていた。


 フロア中央で同僚たちに頭を下げる。


「今まで大変お世話になりました。皆さんのご活躍をお祈りしています」


 パラパラと拍手が起き、誰かが「お疲れさまでした」と言う。渡部課長が「健康に気をつけて」と言った。


 それだけだった。


 舞子は段ボールを抱え、エレベーターに乗り、一階のロビーを抜けて外に出た。


 冷たい春の夜風が頬に当たる。


 意外にも、何の感慨もなかった。泣けなかった。胸が締め付けられる感覚もなかった。長い間張り詰めていた何かが、するりと解けてしまったような静けさ。


 駅へ続く道を、段ボールを抱えてゆっくり歩きながら、舞子は空を見上げた。


 街灯に照らされた夜空は明るく、星は見えなかった。それでも広さだけは確かに感じられた。


 明日からは、ここに来ることもない。


 明日からは、自由だ。


 その言葉を胸の中で静かに転がす。


 怖いような、解放されたような、よくわからない感触。でも悪い気持ちはしなかった。



四.生きる実感


 翌朝、舞子は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。


 慌てて起き上がろうとして、そうか、今日は行かなくていいのだ、と気づく。


 そのままもう一度布団に潜ろうとしたが、眠くはなかった。


 ゆっくり起き上がり、コーヒーを淹れる。カーテンを開けると、四月の朝の光が部屋に差し込んだ。窓ガラスの曇りが、少しだけ取り払われたように見える。


 舞子は押し入れから、先日買った塗り絵と色鉛筆を取り出した。


 赤、橙、黄、黄緑、緑、水色、青、紫、桃色、茶色、灰色、黒。たった十二色でも、並べると少し賑やかに見えた。


 塗り絵を開く。最初のページは、細かな花々が絡まる複雑な模様だった。真っ白な線画が静かにそこにあった。


 手始めに何かをやってみよう──そう思えた。


 最初はぎこちなかった。色を乗せることを恐れているような手つき。はみ出したらどうしようという不安もよぎる。


 でもそのうち、そんなことはどうでもよくなった。


 花びらの一枚を淡い赤で塗り、隣には少し濃い赤を重ねる。色鉛筆の芯が紙に触れる、かすかな音。舞子はただ色を乗せ続けた。


 花が咲いたように、紙面は彩られていく。


 胸の中で、何かがほんのりと温かくなった。


 ああ、これが「生きている実感」というものか。


 大げさかもしれない。たかが塗り絵、百円ショップの道具。でも、確かにそこに感じるものがあった。自分の手が動き、色が生まれ、紙の上に小さな世界が作られる。その過程の中に、舞子はいた。


 お昼になると、舞子は塗り絵を閉じ、便箋を取り出した。


 水彩画風の小花柄、薄いブルーの便箋。


 久しぶりにペンを持ち、一行目を書いた。


「都ちゃん、元気にしていますか。急に連絡しなくなってしまって、ごめんなさい」


 書き出すと、不思議と言葉が続いた。会社のこと、派遣切りのこと、百円ショップで塗り絵を買ったこと、朝の光のきれいだったこと。


 うまい文章ではなかった。でも、書きたいことがあった。


 舞子はふと気づく。


 今日の自分は、昨日より少しだけ、生きていた。


 これから何が待っているかはわからない。仕事のこと、お金のこと、人生のこと。不安はある。


 でも今日塗り絵を塗っていた時間は、確かに舞子のものだった。誰にも奪えない、小さくて温かい時間。


 窓の外で桜が咲いていた。舞子は思わず窓を開ける。春の風がふわりと部屋に入り、桜の花びらが一枚、塗り絵の上にそっと落ちた。


 舞子はそれを見つめ、小さく笑った。


 久しぶりの、誰にも見せない、自分だけの笑顔だった。


 ──窓の外には、まだ春が続いていた。



──完──

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