活力水
翌朝。隔離区画の空気は、前日とほとんど変わっていないようでいて、少しだけ違っていた。人の配置も、積まれた水桶の数も、簡易柵の並びも昨日と同じだ。だが、慣れというのは不思議なもので、一度目にはただ「忙しい場所」にしか見えなかったものが、二度目には細かな乱れまで見えてくる。食料の置き場、病人の寝かせ方、見張りの交代の間隔。レンはそんなことを眺めながら、昨日より少しだけ自分がこの場に馴染んでいることに気づいた。
「おはようございます。今日もお願いしますね」
朝一番にミナがやってきて、三人に声をかける。いつもの笑顔ではあるが、隔離区画の前だからか少し声が低い。
「おはよう。今日は何か変わったことはあったか?」
レンが聞くと、ミナは一度周囲を見てから答えた。
「大きな変化はありません。ただ、皆さんももう気づいていると思いますが……ここにいる方々の扱いは、まだ全部決まっていません」
「扱い?」
テオが首を傾げる。
「はい。流れ着いただけなので、帰ること自体は可能なんです。本人たちがそう望んで、向こうとの話もつけば、ですね」
「じゃあ帰りたいって言ったら帰れるの?」
ソフィアが聞く。
「理屈の上では、です。でも現状は返せません。向こうとの交渉がまだですし、こちらとしても、どういう経緯で流れ着いたのか全部は掴めていませんから。残りたいと言われても、今すぐどうこう決められるわけでもないです」
ミナは困ったように肩をすくめた。
「今は保護対象で、同時に処遇保留、というのが一番正確ですね」
レンは小さく頷いた。弱っている人間を助ければ終わり、という単純な話ではない。帰る、残る、その判断にすら国同士の都合が絡んでくる。昨日よりも、この仕事の面倒さがよく分かった。
「まあ、いつも通りです。水と食料、人数、体調、見張り。変化があったらすぐ知らせてください」
そう言ってミナは別の職員の方へ向かっていった。
作業が始まる。テオは水樽と食料の運搬、レンは全体を見ながら必要なところを埋め、ソフィアは病人の様子を見て回る。昨日と変わらないはずの仕事だが、気を配る場所が増えたせいか、妙に長く感じた。
午前の半ばを過ぎた頃、ソフィアが少し強い声で二人を呼んだ。
「ちょっと来て。ひとり様子がおかしい」
向かった先では、若い男が壁際に座り込んでいた。昨日までは、自分の足で水場まで歩いていたはずの難民だ。今は顔色が悪く、両膝を抱えるようにして肩を震わせている。
「どうした?」
テオがしゃがみ込む。
「……急に、力が入らなくなって……」
男の声は掠れていた。汗はかいているが、熱で真っ赤という感じではない。
ソフィアが額と首筋に触れる。
「熱はそこまで高くない。咳もひどくないし、喉も腫れてない。怪我もないわ」
「疲れが一気に出たとか?」
「それにしては急すぎるのよ」
ソフィアは眉を寄せた。
「昨日まではここまでじゃなかった。少なくとも、自分で歩けていたもの」
レンも男の様子を見る。確かに、病気というより、何かが急に抜け落ちたような感じだった。眠い、苦しい、痛い、そういうわかりやすいものではなく、ただ急に身体が動かなくなったような妙な弱り方である。
「病院に連れて行こう」
レンが言うと、テオもすぐに頷いた。
三人で男を支え、ザヴィルの病院へ運ぶ。隔離区画からそう遠くはないが、歩けない人間を連れていくとやはり時間はかかる。道中、男は何度か「すみません」と繰り返した。謝る余裕があるならまだましなのか、それとも本人にも何が起きているのかわからないからなのか、レンには判断がつかなかった。
病院の医者は年配の男で、ソフィアの説明を聞いた後、しばらく難民の診察をしていた。脈をとり、喉を見て、目を覗き込み、胸の音を聞く。だが、最後まで顔は晴れなかった。
「うーん……」
嫌な呻きだな、とレンは思った。
「どうなんでしょう」
ソフィアが聞くと、医者は首をひねる。
「感染症と断言できる感じではないな。熱もそこまでじゃないし、咳も弱い。外傷もない。栄養状態は良くないが、それだけでここまで急に崩れるかというと……」
「原因不明?」
「そう言いたくはないが、今のところはな。安静にして、水分と食事をしっかり取らせるしかない」
医者は気まずそうに視線を逸らした。
「急な環境変化による疲れだと思うが。何か変化があったら教えてくれ」
病院を出た後、三人の足取りは少し重かった。
「嫌な感じね」
ソフィアがぽつりと言う。
「病気なら病気でもっと病気らしくなるもの。あれは……なんというか、急に切れたみたい」
「切れた?」
「うまく言えないけど、体の中の何かが急になくなったみたいな感じ」
隔離区画へ戻ると、昼前のざわめきが広がっていた。水を運ぶ者、寝床を整える者、小声で話す者。大騒ぎではないが、人が多い分だけ絶えず何かが動いている。
しばらくして作業の切れ目ができ、レンとソフィアは柵の外れの木箱に腰を下ろした。テオはまだ食料の受け取りに行っている。
「疲れたわ……」
ソフィアが額を押さえる。
「まだ半日も経ってないぞ」
「疲れたものは疲れたの」
そこで、背後から明るい声がした。
「やあ、昨日も会ったね」
二人が振り向くと、難民の男がひとり立っていた。三十前後だろうか。日に焼けた顔に人懐っこい笑みを浮かべている。比較的元気な方の男で、昨日も誰彼構わず話しかけていた記憶がある。
「俺、マルコ。昨日もいたけど、ちゃんと話してなかったよね」
「ああ、レンだ」
「ソフィアよ」
マルコは気軽に頷いた。
「街に入ってから、ようやくちょっと安心できたんだよなあ。向こうにいた時は、寝ても寝ても疲れが抜けなくてさ」
「そうなの?」
「そうそう。だから、こっち来て安心して元気になった感じ」
彼の陽気さは少し場違いにも見えたが、不思議と嫌味はない。むしろ、こういう人間がひとりいるだけで空気が軽くなるのだろう。
「今は休憩中かい?俺達のためにすまないね」
「ええ、疲れたから休憩。気にしないで。報酬ももらっているし」
「ありがたいねえ。感謝しかないよ。金があれば「活性水」を買ってあげたんだけどな」
「連邦の飲み物?」
ソフィアが聞くと、マルコは嬉しそうに頷いた。
「うん。いいんだよ。粉を水に溶かして飲むやつ。疲れてる時に飲むと、体が軽くなるんだ」
「薬みたいなもの?」
「いやあ、そこまで大げさじゃないよ。ちょっと元気になるくらい。連邦で今すごい流行ってるんだ。旅人も飲むし、力仕事の人も飲むし、冒険者も好きだって聞いたことある」
「今持ってるの?」
ソフィアの問いに、マルコは首を振った。
「もうない。粉だから持ち込むと疑われるかなという話になってみんなで埋めたんだ。危ないものではないんだけどねえ」
「まあ粉はな・・・」
「だよね。もし持っている人がいたらあげるよ。おすすめだから。じゃあまたね!」
軽く手を振って去っていく背を見送りながら、ソフィアは少しだけ考え込んでいた。
「……活力水を飲めば病人も回復するのかな?」
「さっきの感じだとそこまですごい効果はなさそうだが・・・」
「コーヒーみたいなものかしらね。今あったら助かるわ」
「街で売られてたら飲んでみたいな」




