鍔迫り合い
翌朝。ヴァルディアでも一番高い宿の一番高い部屋は、値段のわりに最悪の空気だった。「気持ち悪い……」
ベッドの上でリリィが毛布にくるまりながら呻く。ガドルは椅子に深く座って額を押さえ、フィエルは窓際に立って外を見ていたが、いつもより明らかに顔色が悪い。三人とも、昨夜の酒がしっかり残っていた。
「お前ら飲みすぎなんだよ……」
ガドルが低く唸るように言う。だが、その声にも覇気がない。
「ガドルも同じだけ飲んでたでしょ」
「俺はまだ動ける」「私は動きたくない」
リリィが即答する。フィエルはため息をついた。
「動きたくなくても動くのよ。今日は向こうが来る日でしょう」
その時、扉が叩かれた。入ってきたのは《猫の門番》のラウルだった。きちんと身なりを整え、顔色も問題ない。昨夜のうちに酒を控えたのか、それとも元から付き合いが浅かったのか。少なくとも、この部屋の三人よりはよほど交渉向きの顔をしている。
「失礼します。……お三方とも、かなりきつそうですね」
「見ればわかるでしょ」
フィエルが不機嫌そうに返す。
「連邦から連絡があり、指定の場所に来て欲しいとのことです。魔術工房はフルメンバー、さらにヴァルディアの領主と副領主も同席するとのことです」
その言葉に、ガドルが露骨に顔をしかめた。
「最悪だな。真面目な交渉とか」
「ただの嫌がらせ合戦じゃない?」
毛布の中からリリィが言う。
「どっちでもいいから静かにして」
フィエルはこめかみを押さえた。
「とにかく出るわよ。こんな日に限って全員で来るなんて、本当に面倒ね」
最低限の身支度だけ整え、一行は宿を出た。工作員たちは宿の別室に転がしてあったので、そのまま縄を引いて連れていく。歩かせるというより、半分は荷物扱いだった。
交渉の場は、ヴァルディアの役所に近い広い応接室だった。部屋の中央に長机が置かれ、左右に席が分けられている。だが先に入ったフィエルたちは、工作員たちを椅子に座らせなかった。縄をつけたまま、床へ適当に転がす。
「……こっちでいいわね」
フィエルがそう言って席に座る。ガドルは隣の椅子に腰を下ろし、リリィはだらしなく背もたれに体を預けた。猫の門番だけが、背筋を伸ばして立っている。
少しして、連邦側が入ってきた。先頭はシエラ姫。
その後ろに《魔術工房》のフルメンバー。さらに、その脇にヴァルディアの領主と副領主が並ぶ。どちらも立派な衣服を着ていたが、この場で最も目を引くのはやはり姫と《魔術工房》だった。
重い空気の中、最初に口を開いたのは当然のようにシエラ姫だった。
「おはようございます。急なお越しにもかかわらず、こうしてお時間をいただけたこと、感謝いたします」
柔らかい口調。だが、その背後の者たちは一言も発しない。領主も副領主も、魔術工房の面々も、ただそこに立っているだけだ。にもかかわらず、部屋の中の圧迫感は異様だった。
「こっちとしては、朝からこんなに大人数で来られてもありがたくはないんだけど」
フィエルが淡々と返す。
「それでも、こういう話は早い方がよろしいでしょう?皆様もお忙しいでしょうし」
「いや、別に来週でも良いよ」
リリィが真顔で言う。さすがにラウルが咳払いをして場をつなごうとしたが、姫はわずかに微笑んだだけだった。
「……本題に入りましょう」
そう言って姫の視線が床に転がる工作員たちへ向く。
「まず確認したいのは、その者たちの扱いです。こちらの民であり、兵でもある者たちを返還していただきたい」
その一言で、部屋の温度が下がったように感じられた。だがフィエルはまったく動じない。
「返還、ね。随分都合のいい言い方だわ。王国内で工作を行い、魔物を呼び込み、混乱を広げた者たちを“返還”と言うの?」
姫は表情を崩さない。
「返還していただけるから連れてきたのでしょう?」
「気が変わるかも?」
「そうですか」
しん、と静まり返る。姫以外は誰も喋らない。領主も副領主も、《魔術工房》の面々も、ただ黙って立っている。その沈黙が、かえってこの場の異様さを際立たせていた。ガドルは肘をついて、露骨に面倒そうな顔をしている。リリィは机に頬杖をつき、半分寝そうな目で姫を見ていた。フィエルだけがまともに交渉する気配を保っているが、機嫌は明らかに悪い。
「返してほしいなら、まず事情を説明するのが先じゃない?」
フィエルが言う。
「街に人を流し込み魔物を呼び込む真似までしておいて、“こちらの民だから返せ”は連邦流のコミュニケーション?」
姫はそこで少しだけ目を細めた。だが返答は変わらない。
「それは出来ません。対価は支払いますので引き渡していただきたいのです」
「対価ねえ」
ガドルがぼそりと呟く。
「どんな対価か楽しみだな」
姫はそちらを見ない。返す言葉もない。だが後ろに立つ《魔術工房》の空気がわずかに強くなる。ラウルは心臓に悪いな、と思いながら沈黙した。そこで、リリィが「あ」と声を上げた。
「そういえば」
部屋の全員の視線が集まる。
「セリーナに言われてたんだった」
「何を?」
フィエルが横目で見る。リリィは、さも今思い出したという顔で言った。
「“薬”が欲しいって言ってみて、って」
一瞬、空気が止まった。それまで一言も発していなかったヴァルディアの領主と副領主の表情が、はっきりと変わる。《魔術工房》の面々の視線も鋭くなった。シエラ姫だけは表情を崩さなかったが、さっきまでの柔らかさは消えている。
「……何のことかしら」
静かな声で姫が言う。
「えー、セリーナがそう言ってたんだよね。それで伝わるって」
リリィはまったく悪びれない。
ガドルが「ああ、そんな話あったな」と低く言った。フィエルも少し考えてから、ようやく納得したように頷く。
「そういえば、確かに言っていたわね」
そこまで聞いて、姫ははっきりと答えた。
「風邪薬であれば用意します」
短く、だが明確な拒絶だった。
フィエルの目が細くなる。
「馬鹿にしているの?」
その言葉と同時に、後ろに立つ魔術工房の圧が増した。だが連邦側のルールは崩れない。誰も姫以外は喋らない。ただ視線と気配だけが、部屋を満たしていく。
こちらも黙ってはいない。ガドルがゆっくりと立ち上がる。
リリィは少しだけ楽しそうに笑った。フィエルは椅子に座ったままだが、その表情から温度が消える。
ラウルは胃が痛くなった。ここで始まれば終わる。
領主も副領主も、この部屋ごと吹き飛ぶかもしれない。何より、二日酔いのまま一触即発に持ち込めるこの三人の方がよほど怖かった。
「ここで争うのは、双方に利益がありません」
姫が静かに言う。最後の理性のような声だった。
だがリリィは首を傾げる。
「私のコレクションが増えるよ?」
その無邪気な一言で、空気が完全に凍りついた。
フィエルがゆっくりと口を開く。
「利益がないかは貴方が決めることではないわ」
ガドルが肩を鳴らす。
「で、どうする?」
誰も動いていない。なのに、次の瞬間に何が起きてもおかしくない。
ラウルは息を潜めながら、ただ一つだけはっきり理解していた。
――この交渉は、もう言葉だけでは終わらない。




