第32話「印刷戦・二日目――一点責と四手責」
朝の手前、空気が紙の刃みたいに細くなる。
夜はまだこちらの時間だが、紙の風はすでに角を曲がって待っている。
鍋の縁に指をかざし、喉の雪を一口。指が温まるまでが第一拍だ。
「——段取り、いくよ」
版台は歌版・陶版が二列、跳ね芯は二燃一黙。
刷り上がった夜刷りは予定どおり百枚。空き縁は広く、湯気印は薄い水紋で座る。
左下に輪唱印、左上に四手責の小印。
太鼓は黙拍穴を三種(子ども路/老いた足/港風)。
配りは五路、見比べ台は今朝から十ヶ所。
ジルベルトが太鼓の縁をこんと叩き、短く言った。
「鳴らしすぎるな。黙拍で運べ」
そこへ、白い扇。
カルドは冬の顔で、今日は封蝋つきの巻紙を二本持っていた。
《版籍令・臨時告示》
・版主責任の一点化。公示物には版主名と押印を単独で明記。
・四手責・四口責による責任分散は無効。
・空き縁上書きは改竄と見なし、版籍抹消の対象。
・一枚ごとに押判税(銅貨一枚)を課す。
《没収執行状》
・夜刷りは朝刻の再承認印なきもの没収。
・湯気印等の非接触印は承認外。
——一点責。
倒れやすい形に集めるやり口。押判税まで乗ってきた。
「分けて持つから倒れない」
俺は荷車から新しい箱を出し、布をめくった。
響き輪印——四つの薄い陶輪が一枚の座に組まれた印で、四拍で四人が同時に押すと、輪がちりと鳴き、紙に細かな花割の微裂紋を刻む。
ひとりでは鳴かない。三人でも濁る。四でしか清音が出ない。
印影は薄く、湯気印の水紋と交わって座る。
「分責印を公示印にする。——四手責×四拍。
版主は鍋。版籍は輪唱帳に分けて載せる」
吟遊詩人が四拍二黙で軽く節を落とす。
♪ いち・に・さん・よ(押)
——黙(座る)
紙は花割 黒は息
——黙(冷ます)
響き輪印がちりと鳴き、印面に花割が咲いた。
一点責の丸印よりも、薄くて強い。剥がせないのではなく、剥がしても“鳴き癖”が残る。
ジルベルトが黒密鏡で覗いて頷く。
「薄いほうが座る。甘い火と同じだ」
エリク(書記官長)は眠そうに、しかしはっきり言った。
「分責印、試運用を許可。押判税は**“四手一押=一回”の数え。四手責は無効にあらず**」
監察筆ががん。
「空き縁は続き。改竄にあらず。版籍は輪唱帳に併記」
カルドは扇を閉じ、口角だけで笑った。
「剥がせない印はない。一点は複製しやすい。四は揉めやすい。
……揉める場を朝に置く」
——戦場の移動。予告どおり、朝に寄せてくる。
一幕:中路——一点押印の網
中路(広場—王城)。
紙梁の下に新しい網台。一点押印のみ通す穴が開き、分責印ははじかれる仕掛け。
没収隊が棒印で判読し、**“単独の押印なし”**と叫ぶ。
「黙拍穴太鼓・子ども路」
ジルベルトの太鼓が短黙で刻み、配り手は三進一止で左右に散る。
俺は網台の前に見比べ台・小を置き、一点押印と分責印の**“剥がし癖”の違いを公開で示した。
一点は反響板で押圧を真似できる。
四は四指の微妙な遅れ(呼吸の位相)が印影に残る。
黒密鏡で見ると、花割の片弁が四つの位相で薄濃に揺れる。
観衆がすうと息を揃え、網台の棒印**は役目を失う。
監察筆が札をがん。
「一点押印網:印影の再現性で否定。分責印の位相差を採用」
没収隊は退きぎわに酸の小瓶を空き縁へ振りかけた。
——今度は上書きを狙うか。
「塩雪」
リーナが小壺を傾け、塩と薄灰で作った雪粉を空き縁にひと振り。
湯気印の水紋がすっと立ち上がり、酸の黒がほどける。
「返し縁、よく働くね」
老女の陶工が胸を張った。
二幕:港路——封の束と“一点責票”
東路(港)。
朝刷りの束に、新しい票が貼られていた。
一点責票——版主名と大きな朱。封蝋の上にも朱が二重に押してある。
俺は封音輪を浮かせ、四拍。
ちん・……・ちん・……——清音、しかし立ち上がり遅れ・大。
「油多めで艶を出して、朱の押し直し。堀で換封したな」
封景板に**“堀:黙(沈黙)”の記号を入れ、空き縁へ追記。
分責印で束の表紙を花割にして、封音の遅れを見比べ台**へ持ち帰る。
港の人足が背秤を背負って近づいた。
「遠路二町、鳴数八十六。背、重め」
——距離税は鍋寄進。遠には薄く。
歌柱の白が二本灯り、配りが軽くなる。
三幕:窯筋——“塗り直し墨”と指の凍え
南路(窯筋)は煙が低い。
鑑定所の配下が**“塗り直し墨”を刷り上に薄く塗り**、湯気印の水紋だけを消す細工をしていた。
さらに、冷水噴きで配り手の指を凍えさせ、四手責を崩す。
「指を温める粥」
ジルベルトが鍋の蓋を少し開け、配り手に小椀を回す。
喉の雪を落として、指も温める。四指の位相が戻る。
俺は黒密鏡の側鏡で“塗り直し墨”の艶を拾い、小楔で空き縁の端に髪の毛ほどの欠けを作る。
——湯気印はそこで集まる。水紋が一点で濃くなるから、塗り直しでは消し切れない。
老女の陶工が目を細める。
「薄の勝ちだね」
監察筆の札ががん。
「“塗り直し墨”対策:側鏡・小楔を追加。指温粥を標準」
四幕:井戸街——囁き封鎖と“耳飴”
西路(井戸街)では、囁き札の配布そのものが禁止され、代わりに**“耳飴”が無料で配られていた。
甘いのに耳が詰まる飴。拍が奥へ届かない**。
「足拍に回せ」
俺は囁き札を足首に移し、逆輪唱で三進一止を足で渡す。
耳が塞がれても、足は塞げない。隊列が静かに回る。
リーナが薄茶で耳飴を溶かし、子どもたちの耳を温で開ける。
声幕を高めに張って反響を殺し、歌柱の白を二本灯す。
監察筆ががん。
「囁き封鎖:足拍で回避。耳飴、押収」
五幕:王城前——一点責の審問台
正午、王城前に審問台。
カルドは一点押印の金印を掲げ、“責任の所在が明確だ”と宣言した。
俺は見比べ台・大を横に置き、一点と四手を同時に剥がす実演をした。
一点は熱で浮く。
四手は浮いても鳴き癖が残る。
黒密鏡に位相のズレが現れ、陶輪の鳴きが観衆の耳で再生される。
「一点は命を奪えば押せる。
四は暮らしが支える。誰かが倒れても、残り三で押せる。
——倒れない責は、一点では立たない」
王弟が小さく頷き、侍医長が補う。
「医の署名も二手以上で回す。一点は事故を増やす」
エリクが結語を落とした。
「一点押印の独占は不採用。
分責印(四手責)は公示印として有効。
押判税は四手一押=一回の扱い。空き縁は続きと定義」
札ががん。
群衆の息がほどけ、太鼓は黙拍穴で静に戻る。
カルドは扇を一度だけ回した。
「二日目、きみの勝ちでいい。
——三日目は**“版籍簿”で来る。
版主を戸籍につなぎ、夜の四手を“無主の刷り”と呼ぶ。紙は人を束ねる**」
版籍簿——帳簿の戦。個人を紙で釘打ちするつもりか。
「じゃあ、総章を出す」
俺は黒板に白で大きく書いた。
【総章・草案】
水/橋/封/艀/席/値/灯/版/告
——四手責×四口責=倒れない責
——黒に白=続きの権
——距離/拍/間で税を鍋寄進に読み替え
——夜=座/朝=配の二段運用
そして、分責印の座に小さな穴をあけた。
空き縁の**“総章へ続く”用の縁穴**。
誰でも白で差し込める入口だ。
夕景:見比べ台・十ヶ所
日が傾く。
見比べ台は十ヶ所で黒密鏡と紙息を見せ、湯気印と花割を触らせる。
井戸街の婆さまは空き縁に井戸の水位を、港の人足は背鳴数を、子どもは喉の雪の絵を描く。
告は演じゃない。続きだ。
版は手で、声は距離で、灯は黙で座る。
——三日目に束ねる。
リーナが薄椀を差し出す。
「喉の雪、まだ落ちる?」
「多すぎるくらい落として、ちょうどいい」
老女の陶工は響き輪印の輪を撫で、誇らしげに言う。
「四つで鳴るものは、一つでは黙るのさ」
夜の仕込み:総章の骨格を火のそばで
《旅する大釜隊》は広場の端で薄い粥を一鍋。
跳ね芯は二燃一黙、太鼓は長黙に切り替わり、声幕は低く垂れる。
黒板の総章に、細骨を足していく。
「段取り、締め」
一、総章の図
四手責×四口責の位相図を花割で刻み、分責印の鳴き癖を章印に昇格。
二、版籍簿への返し
個人名の一点化を避けるため、“四筆名+鍋名”の連記を標準。輪唱帳を簿に写経。
三、帳薄対策
空き縁の縁穴に**“続き札”を差し込めば、項目を夜のうち**に増やせる——月一ではない、一刻一。
四、朝の受け口
見比べ台を十二に増設。黒密鏡・紙息・湯気印を触れる教室に。
王弟が短く頷き、エリクが眠そうに結語を落とす。
「明朝、三日戦の最終。版籍簿を公開審問。
総章・仮案を板に掲げ、“倒れない責”を章として試す」
監察筆は欠伸をひとつ。
「掲示、最後。
“一点で急ぐな。四で座れ。
黒は息し、白は続け。
夜で座り、朝で配れ。
責は分けて、倒れない。”
……寝る」
札はがんと打たれ、二日目の最後の音になった。
空は濃く、灯は低く、花割は静か。
白い扇の影は、明日の帳簿に向けて薄く笑う。
だが、鍋は知っている。
声は温度になり、版は手になり、責は——分ければ倒れない。
湯気は細く、まっすぐ、黒と白のあいだへ。
次の舞台は、印刷戦・三日目――版籍簿と総章。
紙は速い。
でも拍は座る。
そして鍋はいつでも、食べられる形に直してから、世界に出す。




