第31話「朝と夜の印刷戦――夜刷りと朝配り」
夜は黙で刷る。朝は距離で配る。
それが今朝の勝ち筋——と、鍋の縁に手をかざしながら自分に言い聞かせた。指が温まるまでが、戦の第一拍だ。
「——段取り、最終確認」
版台には歌版と陶版が二列。跳ね芯は二燃一黙の呼吸で灯り、黒密鏡は黒の波を薄く映す。
刷り上がった夜刷りは百枚。右上の空き縁には“朝の拾い”座を広めに残し、左下に輪唱印、左上に四手責の小印。
脇の鍋では薄い粥が小さくちりと鳴り、喉の雪はよく落ちる温度で待機。
「配り五路、確認」
リーナが配り歌の板を掲げる。
【朝配り五路】
北路(門前)/東路(港)/南路(窯筋)/西路(井戸街)/中路(広場—王城)
——距離税は鍋寄進。囁き札で静謐運用。太鼓は黙拍穴。
ジルベルトは太鼓の縁に黙拍穴を三種空ける。
「子ども路は短黙。老いた足は長黙。港風は交互黙。——鳴らしすぎないが肝心」
王弟が頷き、監察筆が札袋をがんと揺らした。
「没収に来たら、四口責で口上を打て。告は演じゃない」
一幕:夜刷り・湯気印
配りの前に、夜刷りへ最後の座を与える。
薄椀の返し縁に刻んだ微細な段で、紙の空き縁に湯気印を落とす。
返し縁の輪郭が白の上に薄い水紋を作り、偽刷りと区別がつく。触れずに残せる非接触印。
「封音と同じ。鳴らさずに読むの反対、触れずに刻む」
リーナが湯気印をひとつ眺めて笑う。
「かわいい……ううん、速いね」
輪唱帳には短い文句を一つ。
『灯は黙拍、影は席』
——四口責の印も完了。
二幕:朝配り・距離で座る
夜が明け、鐘が二つ。朝。
歌柱の黙拍窓が白を灯し、声尺の近輪が小さくちり。
配り手は五路に散る。胸に息札、腰に囁き札、背に声幕。荷車は薄椀と湯気印を積んで中路を行く。
「——中路、行くよ」
広場から城へ向かう中路は、紙の風がもっとも強い。
案の定、角を曲がった瞬間、白い束が雨のように降った。鑑定所の朝刷りだ。
太鼓が乱拍で鳴り、没収隊の網棒がひゅっと空を切る。
「黙拍穴、子ども路!」
ジルベルトが太鼓に短黙を入れ、配り手が三進一止で脇へ散開。網棒は黙を掴めない。
俺は荷車を止め、声幕を上げる。反響を殺し、囁き札で拍を渡す。
湯気印は、味方の夜刷りにしか座らない。没収隊の手元にある朝刷りには水紋が出ない。
空き縁の白には、その場で拾いを入れる。
「今朝の港:封音=清・遅れ小。堀の赤=薄」
——追記は白の仕事。黒は抱くだけでいい。
距離税は鍋寄進。配り距離を歌柱が数え、鍋の板に白で刻む。
監察筆の札ががん。
「“没収隊、反響太鼓の乱打”:記録。黙拍穴太鼓で回避」
三幕:港路・封の束
東路(港)から封の束が運ばれてきた。
朝刷りは紙袋に入れられ、封蝋が三重。“鑑定所承認の印刷”と誇らしげだ。
俺は封音輪を浮かせ、非接触で四拍。
ちん・……・ちん・……——清音、だが遅れ大。
「油が重い。輸送中に剥がし直し」
封音輪の遅れを白に刻み、空き縁に追記。
——封の勝手な差し替えは、夜に濁る。
王弟の隊が封景板を持ち込み、堀での乗り換えを公開で示す。
朝刷りの束は静かになり、配り手は輪唱写で夜刷りの要点を追い書きした。
速度は失わない。座を増やしていく。
四幕:紙の梁と、影の穴
西路(井戸街)では、道の上に紙の梁が渡されていた。
通行のたびに梁役が通行許可を掲げ、夜刷りだけを上から抜き取る仕掛け。
梁の上には反射鏡。跳ね芯の黙を埋め、道を白に灼く。
——影を罰に変える、昨日の延長戦。
「影窓を梁の下に」
俺は黒い枠を置いて**“ここは暗でいい”を下から立てる。
飛び分目盛りつきの影札で、反射の遅れを記録。
梁役が上から白を押し込むたび、影は穴に逃げる。
配り手は穴を踏み石**にして進む。黙拍が守られる。
監察筆の札ががん。
「紙梁による上方没収:影窓・飛び分で回避。梁の反射鏡、押収」
五幕:見比べ台と、喉の雪
広場へ戻ると、見比べ台の前に人垣。
左に夜刷り、右に朝刷り。
黒密鏡で覗き、紙息で触り、空き縁の拾いを読む。
夜刷りの黒は黙で休むから、白の文字が呼吸できる。
朝刷りの黒は密で詰むから、小字が窒息する。
子どもが指で空き縁の湯気印をなぞり、婆さまが拾いに井戸の水位を書き足す。
見比べは演目じゃない。台所だ。喉がそれを決める。
リーナが薄椀を差し出す。
「喉の雪、落ちる?」
見比べ台の前で粥を一口。喉がすうと通り、目が黒白を見分け始める。
告と版は鍋の隣にある。いつもそうだ。
六幕:白い扇、朝の宣戦布告
日がのぼりきる前に、白い扇が正面に立った。
カルドは冬の顔のまま、紙を二枚掲げる。
《朝刷り特例》
・夜刷りは朝刻に再承認を要す。承認なきものは没収。
・空き縁の拾いは上書きと見なす。版主以外の筆は違反。
《紙商規格・草案》
・紙貨の流通を開始。値章は紙貨基準へ。
・“黒に白”は紙貨額面で固定。即時改定は無効。
——昼で洗う。夜を朝に通させる。
そして紙貨。値を紙に閉じ込める狙いだ。
黒に白の息を額面で止める気か。
「二段で返す」
俺は版景板に朝の輪唱を追加すると同時に、値章の板を引き寄せた。
「一、夜刷りの承認は**“四手責+四口責”で代替。版主=鍋。
二、紙貨には“距離札”を貼り付け**、額面ではなく届いた距離で薄くする。『一町=一薄』の交換歌を走らせる」
吟遊詩人が短く節を置く。
♪ 紙の値 距離で薄め
黒の息 朝で拾え
エリクが眠そうに——けれど、はっきりと結語を落とす。
「本日の結語。
一、夜刷りは**“四手責+四口責”をもって朝承認に代える**。
二、空き縁の拾いは上書きにあらず、続きと定義。
三、紙貨の流通は否。距離札連結を検討。
四、朝と夜の印刷検見を三日継続。見比べ台は常設」
札ががん。
群衆の息が戻る。小さな勝ちだ。
カルドは扇を一度だけ回して言う。
「三日。紙貨は引っ込めよう。——代わりに、“版主責任の厳格化”で戻る。夜は責が散る。責を一点に寄せる」
一点化。
四手責と四口責の逆。
倒れない仕組みを、倒しやすい形へ。
「総章の準備を始めよう」
俺は喉の奥に雪を落とし、熱を最低まで落とす。
「水・橋・封・艀・席・値・灯・版・告——全部を一本に束ねる。“倒れない責”を章にする」
ジルベルトが薄椀をちんと鳴らした。
「甘い火を一つに。多すぎるくらいを、ひと鍋に」
夜の仕込み:三日の合戦へ
夕刻、見比べ台は森になり、版景板は黒に白で厚みを増す。
跳ね芯は二燃一黙、太鼓は黙拍穴で静かに道を刻む。
《旅する大釜隊》は薄い粥を一鍋。喉の雪を一口ずつ落とす。
「段取り、締め」
一、夜刷り百枚×三夜。
湯気印と四手責を標準。空き縁広め。
二、朝配り五路×三朝。
距離税は鍋寄進、声幕と囁き札で静謐運用。
三、見比べ台の黒密鏡・紙息を市内十ヶ所に増設。
四、総章の骨組み(倒れない責)を板に起こす。四手責×四口責の連結図。
リーナが笑って頷く。
「多いけど——いつも通り」
「多すぎるくらいが、ちょうどいい」
監察筆は大きな欠伸を一つ。
「掲示、最後。
“夜は黙で刷れ。朝は距離で配れ。
黒は息し、白は拾え。
責は分け、倒れない。”
……寝る」
札はがんと打たれ、今日の最後の音になった。
湯気は細く、まっすぐ、黒と白のあいだへ。
次の舞台は、朝と夜の印刷戦・二日目。
紙は速い。
でも、拍は座る。
そして鍋はいつでも、食べられる形に直してから、世界に出す。




