第29話「版章――黒を刷り、白を残す」
朝の薄寒さが指に刺さる。紙は冷えると鳴きが悪い。だからまず、鍋の縁に手をかざして指先を温める。
広場の端には新しい版台が三台、歌版の箱が二つ、版の秤が一式。夜のうちに作った空き縁つきの刷り板は、角だけ白を残して乾かしてある。角の白は“上書き権の座席”だ。黒は主張、白は入口。
「——段取り、いくよ」
俺は荷車の覆いを外し、道具を声で並べる。
版の秤:
- 墨量秤……刷り一枚あたりの煤の重さを読む。
- 黒密鏡……黒の密を灯の黙拍で透かす鏡。
- 紙秤……紙の息を測る。折って広げたときの黙の戻り方を見る。
歌版:
- 輪唱印の刻まれた浅い陶板。四拍で擦ると微細な波が出る。ひとりでは出ない波だ。
空き縁:
- 版の四隅に一指幅の白。ここだけは誰でも黒に白で上書きできる。版章の心臓。
吟遊詩人が指を鳴らし、四拍二黙のテンポを落とす。
「刷りは急ぐと嘘になる。黙で座らせろ」
ジルベルトは鍋の火を弱め、刷り台の脇に置いた薄い粥の小鍋を指で叩く。
「手を温める粥。一口飲んで、喉の雪を落としてから刷れ。声が揃う」
板題を書く。
【版章・試運用】
版の秤:墨量・黒密・紙息
歌版:輪唱印/逆輪唱印
空き縁:黒に白の上書き権
王弟の隊が背を預け、エリク(書記官長)は眠そうに欠伸を噛む。監察筆は札袋をぶら下げ、老女の陶工は歌版を膝で抱いた。
そして、石段の影から白い扇。カルドだ。冬の角度。今日の紙束は、やけに厚い。
一幕:版の秤、黒の座り
最初の刷りは水章・朝版。外堀三点の色を一枚に。
歌読み職が四人で輪を作り、輪唱印の節で版面を刷毛で撫でる。
♪ ドン・ン・ドン・ン(擦)
——黙(置く)
ドン・ン・ドン・ン(持ち上げる)
——黙(乾く)
出てきた黒は、うねが美しい。ひとりでは出ない深み。
俺は墨量秤で重さを読み、黒密鏡で黙拍ごとの濃淡をのぞく。
密は均しすぎない。波がある。波があるから、白の文字が呼吸できる。
紙を一度折ってから広げ、紙息を聴く。すう、と戻る。固すぎない。
「——良し。黒に白が息をしてる」
刷り上がりの右上、空き縁に今日の上書きを短く落とす。
「外海=青/内湾=青/堀=黄。灰=小。喉の雪、鳴る」
小字が白に座り、黒が抱く。
そこへカルドの紙。
《版権規格・第一告示》
・公的掲示の刷りは鑑定所承認の版のみ有効。
・輪唱印は許可制。四者以外の輪唱を禁ず。
・空き縁による第三者の上書きは改竄とみなす。
・刷りの責は**版主**が負う。
囲い込みの常套。輪を壊し、縁を塞ぐ紙だ。
「版主は鍋だ」
俺は即答した。
「版章の“版主”は、四者ではない。公開鍋。
輪唱印は手の数を証明するもの。許可ではなく人数で決まる。
空き縁は改竄ではなく続き。黒の縁は白の席」
エリクが眠そうに頷く。
「版章・試運用。空き縁は上書き権として承認。輪唱印は“四つの手”の証明と定義。許可はいらん」
監察筆ががん。
「版の秤・歌版・空き縁。公開掲示で運用開始」
人垣の息が戻る。黒が座った。
二幕:差止めの紙、歌で刷り抜け
昼前、カルドがもう一枚。
《差止令》
水章・封景・灯景の刷りを一時停止。鑑定所の審査が終わるまで手写のみ可。
手写は**“責任者名”**の記入を要す。
朝の速度で入口を塞ぐ紙。手写へ戻して責任の一点化。
俺は喉に雪を落とし、鏡を一度伏せた。
「歌写で抜ける。輪唱写だ」
歌読み職を四人ずつ五組に分け、一節ずつ交代で書く。
筆圧が均されないから、筆の波が輪唱印と同じ相を作る。
手写だが、ひとりの責任に落ちない。四の責——四者封の姉妹。
空き縁には責任者名の代わりに「四筆」の輪印を押す。
監察筆ががん。
「輪唱写:手写に準ずる。責任の一点化を回避」
カルドの扇は動かない。いい。動かない時、次は底に来る。
三幕:酸の影、陶版で受ける
版木倉の裏で、酸の匂い。
鉄胆汁だ。版木の黒に染み込ませると木目が死ぬ。
影の手が瓶をひっくり返しかけた瞬間、老女の陶工の杖ががつと男の足を払った。
瓶は割れて、黒土に染みる。
俺は陶版の箱を開けた。歌版の母。焼いた版は酸に強い。
「陶で受ける。木は夜に乾かし、昼は陶で刷る」
ジルベルトがうなずく。
「甘い火で焼いた版は、薄くてもしなる。波を殺さない」
版の秤を陶版へ。墨量は少し増えるが、黒密は崩れない。
カルドの紙が、遠くで一枚めくれた気がした。……でも、版は立った。
四幕:朝と夜の刷り合戦・前哨
昼下がり。
鑑定所の朝刷りが出回り始めた。均一な黒、余白なし。
早い。多い。口当たりが硬い。
こっちは輪唱版の夜刷り。黙が入るから、黒に呼吸がある。
見比べた群衆が目を細め、喉で読み、椀を持つ手を少し緩めた。
速度は向こう。座りは、こっち。
「版景板を立てる」
俺は掲示の脇に新しい板を立て、刷りの履歴を刻む。
《今日の刷り》
・歌版:四唱×六回=三十六枚/陶版:二唱×四回=八枚
・黒密:歌版=中波/陶版=細波
・空き縁上書き:十七件(井戸札/喉役報告/灰の甘さ)
刷りを公開で数える。数え方を歌にする。
吟遊詩人が版の歌を短く置く。
♪ 黒の波 黙で座れ
白の縁 声を載せ
輪の手で 紙を起こせ
五幕:版章・公開審問
夕刻、広場の息が深くなったところで、公開審問。
鍋柱は今日一釜で九十八人の眠りを記し、歌柱は広場→港→堀へと三柱届いた。
版の秤は、歌版の黒が黙拍で濃淡を保ち、鑑定所版の黒が過密で呼吸を詰まらせると示した。
俺は掲示の前でまとめる。
「版章の骨子。
一、版の秤で黒の座りを読む(墨量・黒密・紙息)。
二、歌版は輪唱印で“四つの手”を証明。逆輪唱印で反響写しを弾く。
三、空き縁は上書き権。黒に白で即時更新。責は四筆。」
エリクが眠そうに、しかしはっきり告げる。
「版章・仮採択。
——輪唱印は人数であり許可ではない。
——空き縁の上書きを改竄と見なさず。
——陶版/木版の昼夜併用を許可。
——差止令中でも輪唱写を公示とする」
監察筆が札をがん。
「掲示:黒に白、縁は空け。四筆責、輪唱印。版景板、常設」
拍手。黒が呼吸し、白が話し始める。
そこへ、白い扇。
カルドは珍しく、扇を閉じたまま近づいた。
「きみは“版は手のもの”と言った。
——では次は“口”で来よう。告げの規格。口上を許可制に、物売りの声に税。輪唱は“演目”として興行税に」
口。
歌柱を税で囲むつもりだ。声そのものを紙で束ねる。
俺は喉の奥に雪を落とした。
「告章を作る。
一、距離税——声は届いた距離で値を決める。近い声は無償。遠い声は鍋へ寄進。
二、囁き権——静謐でも拍が伝わる息札の権利を保障。
三、輪唱帳——四つの口で言ったことは個人の過失に落とさない。四口責」
吟遊詩人が笑い、短い節を落とす。
♪ 声は距離で 値が座る
囁きは権 拍で渡す
四つの口で 責は軽く
王弟が言う。
「告章・審問は明朝。版章の刷りを夜のうちに百枚。空き縁は広く」
ジルベルトが鍋の火をひと刻上げ、器をちんと鳴らした。
「甘い火は、口の隣にある。鍋も声も、黙で座る」
夜の仕込み:版から告へ
広場の端で、俺たちは夜刷りに入った。
跳ね芯の二燃一黙が版台の上で息を刻み、輪唱印が黒を揃えすぎない。
空き縁には、子どもが描いた喉の雪のマーク、井戸街の婆さまの水色の点、港の人足の背鳴数。
版景板の列は森になっていく。
リーナが薄椀を配りながら笑った。
「刷りながら飲む粥って、喉にすぐ座るね」
「黒と白の間に、湯気がよく通る」
老女の陶工が歌版を指で撫で、胸を張る。
「手で刷ると、声が紙に残るよ」
監察筆は欠伸をひとつ。
「掲示、最後。
“版は手で、縁は空け。
黒は黙で、白は息で。
四手で刷り、四口で告げよ。”
……寝る」
札はがんと打たれ、夜の最後の音になった。
「段取り、締め」
俺は指を上げた。
「一、告章のひな形。距離税/囁き権/四口責。
二、輪唱帳を作る。四人が交代で同じ文句を言い、距離と回数を歌柱に記す。
三、版章の刷りを百枚。黒に白を太めに残し、明朝の審問に配る。
四、鑑定所版との見比べ台を設ける。黒密鏡と紙息を誰でも触れるように」
リーナが「多い」と笑い、すぐに「いつも通り」と肩をすくめた。
「多すぎるくらいが、ちょうどいい」
ジルベルトは薪を足し、目を細める。
「眠りの入口、刷りの匂いでも開く」
湯気は細く、まっすぐ、黒と白のあいだへ。
次の舞台は、告章——声の距離、囁きの権利。
紙は速い。
でも刷りは手、声は距離。
そして鍋はいつでも、食べられる形に直してから、世界に出す。




