第25話「艀章(はしけしょう)――歩く艀、四拍の渡し」
港の朝は、鍋の蓋みたいに鳴りやすい。
波の下から小さくドンが来て、桟橋の継ぎ目がンで答える。ドン・ン。
その**間**に声を置ければ、港はだいたい味方だ。
「——段取り、最終確認」
俺は荷車の覆いを外し、歩く艀の心臓を並べた。
浮き樽橋の改造版。
踏み板ごとに節釘を打ち、手すりに四拍の目印。
樽枠の二箇所に封台——封音輪を固定できる薄器の座をつけ、運搬中でも非接触で封を鳴らせる。
樽の口には落下蓋。
先頭と最後尾には代理歌札をぶら下げ、四者の一角が不在でも三角で回る歌をすぐ掲げられる。
「今日やることは三つ」
指を立てる。
「一、艀章の公開通行試験。歩く・鳴らす・量るの三点。
二、封景板の常設——桟橋ごとに封の音/遅れ/樽秤/水章を同じ枠に。
三、相互扶助鍋の立ち上げ。保険規格が来る前に“火の基金”を公開で作る」
「拍は四拍、二拍は黙る」
ジルベルトが確認し、手すりの節印を撫でる。
「鳴らすのはこことここ。鳴らさない二拍で、風を受け流す」
リーナがうなずき、喉役の薄茶を両手で抱えた。
「喉の雪、今日はちょっと厚めだよ。海風、骨にくるから」
検見所前に白布。板題を書く。
【港・艀章試運用】
歩く艀:四拍/節釘/落下蓋/封台
封音:非接触/清音・濁音・遅れ
樽秤:肩・二人担ぎ・台車
水章:外海・内湾・堀
王弟の隊が背を預け、監察筆が舟名簿を小脇に眠そうな目で立つ。
石段の上にはリヴァンス侯と侍医長、オルダン総料理長。
そして白い扇——カルド。
冬の顔。港の色に似合わないのに、馴染んで見えるのは速度が同じだからだ。
一幕:歩く艀、鳴る封
「通行一番。“公設施食舟”への直送」
王弟の声が落ち、鈴が三つ跳ねる。
若者が肩で樽を取り、節釘のいち・に・さん・よで踏み出す。
手すりの四拍印が指に触れ、二拍は黙る。
封台に載せた封音輪は浮かせたまま、ドン・ン・ドン・ンでちん・……・ちん・……。
清音。遅れ小。
樽秤の記録は肩優先が正解と示し、水章は内湾青、堀は黄。灰の流入は弱くなった。
桟橋の脇で、子どもが節を口にした。
♪ いち・に・さん・よ 釘で歩け
ちん・……・ちん・…… 輪で読め
艀は舟じゃない。橋の短い一本。
歩くから橋。鳴らすから封。量るから秩序。
——うん、座った。
白い扇が、音もなく角度を変えた。
「雇用規格、告示案」
カルドの声は低く、よく通る。
「港の水上作業は、公認の舟子のみ。歩く艀は水上運搬とみなす。許可と保険が要る。許可料は銀貨三枚。保険は商会印のみ有効」
人垣がざわめく。保険。来た。
“安全”を金で囲い、入口を絞るやつだ。
「——相互扶助鍋を立てる」
俺は即答した。
「事故の記録を公開で集め、秤で原因を分解。節釘/落下蓋/喉役の三点を満たす艀に“共助印”。掛け金は椀一杯。支払いは鍋から。歌も付ける」
吟遊詩人が目を輝かせ、短い節で落とす。
♪ 倒れたら 鍋で起こせ
傷には粥 札には歌
共助印 椀で支える
監察筆が眠そうに札をがん。
「相互扶助鍋:仮運用。事故録(秤・封音・水章)公開を条件に給付」
王弟がうなずき、侍医長が手袋の端を引いて言う。
「喉役を正規職に。眠りの入口は治療の基礎だ」
カルドは扇を閉じ、代わりに紙を二枚掲げた。
《港組合専管の告》
艀は組合の管理下。非組合の橋は撤去。
《損害賠償規約》
封音輪による封の破損は使用者負担。
攻め手が二枚抜きだ。
所有と賠償。港のグレーの心臓を突く。
「——非接触だ」
俺は封台の浮き座を高く掲げた。
「触れずに鳴らす。輪は清音、遅れ小。破損は起きない」
ジルベルトが手すりの**“鳴り止む隙”を指して補う。
「ここで黙る二拍を入れろ。風が嘘を混ぜるのを防げる」
エリク(書記官長)が眠そうな声で、しかしはっきり告げる。
「艀章・仮採択。橋章・封章の連結。組合独占はしない。相互扶助の記録を公開掲示**」
人の息が戻る。拍が港に座り直す。
二幕:艀を折る影、音で拾う
艀が三往復したころ、嫌な音がした。
きぃという細い軋み。節釘の一本が抜かれかけている。
踏み板の影を覗くと、油がほんの一滴落とされ、釘が緩んでいた。
影の中、袖口に黒。書写の匂い。
「鳴らせ」
俺は封音輪を手すりの中骨に軽く当て、四拍で叩く。
ちん・……・ちん・……だった音に、一箇所だけ濁りが混ざった。
濁りの位置=緩みの位置。
若者がすばやく釘を打ち直し、落下蓋を確認。
吟遊詩人が節。
♪ 鳴りの濁りは 釘の嘘
油の滴は 音で拾え
衛兵が影をさらう。
捕まった三人は、鑑定所袖・書写袖・港組合の袖と見事にバラバラ。
カルドは扇を動かさない。
——いいさ。動かない時ほど、次が速い。
三幕:保険(重さ)の網、鍋(段取り)で切る
正午の鐘が鳴った頃、カルドの紙がもう一枚増えた。
《海上損害保険規格》
適用は商会印の舟と組合艀のみ。歩く艀は対象外。
事故時は封の損失基準で支払う。人の疲労は算定外。
人の息が冷える音がした。
“疲労は算定外”。つまり背中の重さは無視、という宣言。
「——秤で戻す」
俺は樽秤の横に、背秤を据えた。
肩当てに鈴を仕込み、一歩ごとの揺れでちりと鳴る。
鳴数と溢れを数字で結び、“背の疲労”を秤の言葉に落とす。
「共助印の給付は、封の損失+背の鳴数。人を入れて秩序にする」
監察筆ががん。
「背秤・鳴数採用。共助鍋、背の給付を含む」
王弟が短く加える。
「公設鍋からも拠出する」
カルドの扇が初めてわずかに開いた。
「“人”は偉大だ。だが一様ではない。背の鳴数はさじ加減だ」
「歌で均す」
吟遊詩人が歩歌のテンポを定数化する。
♪ 肩の鈴 今日は八十
明日は八十 港は同じ
拍を固定し、歩幅を揃えれば、鳴数は比較できる。
人の主観を、歌で測る。これが俺たちのやり方だ。
四幕:潮の段取り
午後、空の底が急に暗くなった。
さっきと同じ風じゃない。潮の風だ。
桟橋の下で逆向きの水が唸り、歩く艀の腹が一度だけ沈む。
港は機嫌がいいときも悪いときも間で喋る。今日は悪戯だ。
「潮章を仮立てする」
俺は透明瓶を八の字で結び、外海→内湾→堀→艀下の順で同時に満たす。水の芯がどう動くか、見えるように。
桟橋の脚に潮目札。
風の窓みたいに穴を刻み、水が上がると濃くなる灰塗り。
吟遊詩人が二拍の潮鐘を打つ。
♪ ドン・ドン 潮は下
ドン・ドン 潮は上
潮の二拍に、艀の四拍を重ねる。
——二×二の畳み。黙る拍が噛み合えば、艀は酔わない。
ジルベルトが両手で息を整え、短く言う。
「鳴らせ。潮の二拍に、わざと外す黙拍を一つ」
手すりの節印がひとつだけ黒。そこは黙る。
艀は歌に座り直し、潮の舌をまたぐ。
石段の上で、オルダンがぽつり。
「台所も同じだ。鍋が騒ぐ拍に、黙拍を置くと、甘い火が戻る」
五幕:艀章・公開審問
夕刻。
板は潮風で黒に塗られ、白で上書きされ、掲示の列は森になった。
王弟が結語を述べる。
「本日の結語。
一、艀章の仮採択。橋章/封章/潮章を連結し、歩く艀を港の公路とみなす。
二、相互扶助鍋を設け、背秤の鳴数を給付に含める。
三、封景板を桟橋ごとに常設し、非接触封音を標準化。
四、雇用規格は独占にならぬよう四者の座を設ける」
拍手。索具がさらりと鳴る。
その拍手を、白い扇が横切った。
カルドが珍しく、正面に立つ。
「過剰は、君の美徳だ。今日も勝った。
——だから明日は、少なさで来る。“器の数”、“席の数”。人は溢れる」
席。
食べる場所、待つ場所、寝る場所。
数を絞れば、秩序は簡単に作れる。声は簡単に詰まる。
「席章、だな」
俺は喉の奥に雪を落とし、短く頷いた。
「椀の半分で席を倍にする。立ち粥と回転の歌。眠りの入口は短い椅子で開く。——場所は、歌で広げられる」
リーナが笑い、器を掲げる。
「薄椀、増やそう。甘い火でね」
老女の陶工が胸を張る。
「甘い灰、寝かせてあるよ」
ジルベルトは苦笑して、薪を足した。
「君の単純、やっぱり複雑。……でも席は台所の戦だ。やる」
監察筆が眠そうに札を打ち込む。
「掲示:
“艀は歩け。封は鳴らせ。
潮は二拍、艀は四拍。
二拍黙れ。
背は鳴らせ。椀は薄く。”」
港の灯が連なり、波の筋は道になった。
歩く艀は、海の上に橋を描く。
封音は、封の上に声を描く。
秤は、重さの上に言葉を描く。
その全部を食べられる形にするために、鍋は黙拍を覚える。
夜の仕込み
《旅する大釜隊》は港の端で薄い粥を一鍋。
喉の雪をひとかけ落としながら、明日の仕込みを声にする。
「段取り、締め」
指を上げる。
「一、席章のひな形——立ち粥の動線・薄椀の回転・眠り椅子。待ちの秤を作る。
二、艀章の補強——黙拍印を手すりに追加、濁り拾いの輪を一本予備。
三、共助鍋の帳面——背秤の鳴数を歌で記録し、偽りを節で弾く。
四、潮章の板を三枚、堀口に。潮の二拍を子どもに渡す」
リーナが指を数え、笑う。
「また多い。でも、いつも通り」
「多すぎるくらいが、ちょうどいい」
ジルベルトが器を傾け、目を閉じて言う。
「眠りの入口、港でも開いた。席でも、開ける」
王弟の遠い影が手を上げ、石段の向こうに消えていく。明日の許しは、もう降りている。
港風が、今度は優しく喋った。
ドン・ン・ドン・ン。
その間に、俺たちは歌を置く。
「鍋は叫ばない。だから、席を増やす。」
湯気は細く、しかし迷わず、港の夜空へ昇っていった。
次の舞台は、席章——薄椀と立ち粥。
声は温度になり、席は拍になる。
過剰を怖れず、黙拍を信じて、まだ歩ける。




