第21話「北門広場・公開百返し――火の跡に歌を」
夜明け前の王都は、まだ眠い。けれど北門広場だけは、すでに鼓動を始めていた。
昨日焼かれた水章の地図板の跡が、黒い歯型みたいに石畳を噛んでいる。煙の匂い、煤の粉。普通なら心が萎えるやつだ。……でも、今日は違う。
「——百返しだ。焼かれた板は一枚。立てる板は百」
俺は荷車の覆いを払った。
薄皿で補強した新しい水章板が、束で眠っている。移動秤は十台。井戸札の束は百二十。橋章の節釘、袋いっぱい。
リーナが頷き、喉役用の薄茶の壺を抱え直した。若者たちは杭と縄を肩に、吟遊詩人は木の琴を背負って跳ねる。
「歌、三つ増やしたよ。重さの歌・橋の歌・火消しの歌」
「よし。——声は軽い。だから先に届く」
北門の空が青む。合図の鈴。
俺たちは黒焦げの跡の周りに白布を張り、透明瓶を並べ、煮沸台に小さな火を入れた。
書記たちが板題を刻む。
【北門水場・水章】
今日の水:青/黄/赤
見る・測る・記す。誰でもどうぞ。
一枚目の板が立つ。拍手。
二枚目。子どもが釘を打つ。
三枚目。老女の陶工が薄皿を手渡す。
十、二十、三十……石畳が、立札の森になっていく。歌がついて回る。
♪ 青は空 喉で消える 影を残さず
黄は石 舌で触れて 喉で薄れる
赤は鉱 鼻に残って 重さを置く
そこへ、白い扇。カルドだ。
相変わらず冬の光みたいな顔をしてる。
「百返し。見事な過剰だ。秩序は最小で保つものだよ」
「鍋はね、少し過剰じゃないと沸かない」
俺は透明瓶を指した。上流、取水門、堀の陰。三本に日付の札。
「今日は青・青・黄。昨日の焼け跡の灰が、まだ水に混じってる。灰試しは泡小、匂い薄。喉の雪は鳴る」
喉役のリーナがうなずく。
「空の音。黄は石。赤はない」
板に青・青・黄の札がかかった。
群衆のざわめきが、胸の奥の冷えを押し出していく。見えると、人は強い。
「……で、火にはどう対抗する?」
カルドの扇が、焦げ跡を示した。
俺はうなずき、荷車の小箱から灰色の壺を出す。
「火消しの糊。粥と灰と塩を煮て作った。薄く塗ると、一度は炎を舐めても黒くなるだけ。燃えないとは言わない。けど時間が稼げる。稼いだ時間で——」
「歌を呼ぶ」
吟遊詩人が続け、弦を鳴らした。
♪ 火が来たら 板は黒く 歌は白く
黒の上に 白で書き足せ 今日の水
人垣の中で、誰かが笑った。
火の跡に白い歌。公開は、燃えやすくて、燃えにくい。
公開百返し・第一幕:秤の隊
午前の最初は移動秤だ。
商会の標準壺と自治の軽樽。同量の水を載せ、距離と回数で比べる。昨日井戸街でやった実走を、そのまま北門バージョンに。
見物の列から、鍛冶屋の兄ちゃんと織工の姉さんが志願した。
鐘。走る。角。段。人の波。
結果はやっぱり同じ。軽樽二往復≒標準壺一往復。
歌読み職が鈴で落とす。
♪ 重い壺 一度で息ぎれ 水こぼす
軽い樽 二度で笑って 歌になる
カルドは扇を横に払った。
「だから標準壺が必要なのだ。落としても割れにくい。すなわち“秩序は続く”」
「続け方は重さだけじゃない」
俺は落下蓋を掲げ、実演した。
膝の高さから落とす。蓋は革紐で樽に繋がっているから、飛ばない。こぼれる量は、訓練すればさらに減る。
——重さの代わりに段取りで守る。これはもう、鍋の基本だ。
そこへ、役人。肩に青い帯。
「舟規格、本日より施行。水庭と堀の出入りは、商会印の舟に限る。浮き樽橋は“舟と見なす”。通行不可」
群衆の空気が固くなる。昨日作ったばかりの浮き樽橋が、封じられる。
カルドの扇が静かに開いた。
「橋を名乗っても、水上を移動しているなら舟だ。規格は形ではなく、機能で決まる」
……なら、機能を書き換える。
「橋章を、今ここで定義する。判定は歩幅・節釘・落下蓋の三点」
俺は節番号を刻んだ橋用の板を掲げた。
「一、歩く:橋上の通行は、三拍子の踏板に限る。押すでも漕ぐでもなく、歩く。
二、節釘:手すりと踏板に節番号釘を打ち、足運びを歌と一致させる。
三、落下蓋:転落時の水こぼれを蓋構造で最小にする。
——この三つを満たすものを、舟ではなく橋と公開で定める」
リーナが手旗を揚げ、吟遊詩人が三拍子を刻む。
♪ いち・に・さん 釘を踏んで 舟じゃない
し・ご・ろく 手すりつかんで 橋を押す
書記官長エリクが、眠そうな目でこちらを見た。
「橋章・暫定承認。本日限りの通行試験を許可。事故ゼロで終えたら、正式採択に付す」
広場に息が戻る。
カルドは扇で白い息を切っただけで、何も言わない。……動きがないときが、いちばん嫌なときだ。
公開百返し・第二幕:焼却の影
昼。板は八十まで増え、井戸札は手押し車で配られ、喉役認定の列が蛇みたいに延びた。
その時、油の匂い。
振り向くと、板の影で小さな壺が割れている。黒い液が石目に走る。
——影の手だ。
火打石のちいさな音が聞こえた瞬間、俺は叫んだ。
「灰! 皿!」
老女の陶工が走る。薄皿の山。リーナが灰の壺をひっくり返す。
火花が落ちる。ぼうっと黒が立つ。
だが火消しの糊で薄く塗った板は、一瞬だけ炎を舐めて、すぐに黒へ。
吟遊詩人の弦が跳ねる。
♪ 黒の上に 白で書け
今日の水 明日の節
火より速い 声で塗れ
火は演目になり、歌に吸収される。
影の手? 歌の舞台は、暗がりに向かない。
衛兵が影を追い、書写の匂いの男を三人押さえた。袖口にインク汚れ。
監察筆が眠そうに来て、札をがん、と打ち込む。
「焼却未遂:三件。公開筆記・歌録音済み。公開百返し継続」
板がまた一本立つ。黒の上に白。今日の日付。青・青・黄。
公開百返し・第三幕:橋の通行
夕刻前。
浮き樽橋の試験が始まる。
橋は節釘で、“いち・に・さん”の手すり。
水運び人は喉役認定済みの若者たち。背筋、まっすぐ。
エリクの槌。
「通れ」
三拍子。橋が歌で歩く。
落ちは、なし。
橋上の樽は落下蓋で水こぼれ最小。
対岸に渡った若者が、両手を上げた。
「橋は橋! 舟じゃない!」
歓声。
カルドの扇が短く震えた。怒りではない。計算の変更だ。
「通行よし。橋章・採択」
エリクの声に、夜の一番星が早めに灯る。
王都の堀に、歩く水路が承認された。
重さで塞がれた道に、拍で開く橋が一本、確かにかかった。
それでもカルドは笑う
「——いい一日だったな」
カルドが近づき、扇を閉じた。
笑っていない顔で、笑っていない言葉を言う。
「声、秤、橋。どれも“公開”で守った。認めよう。
だが、重さにはまだ層がある。陶土は誰のものだ?」
……来た。器章の心臓。器を焼く土。
「王都北東の陶土丘陵に、商会の採掘契約が入る。来週から、“器章”を焼ける土は印付きだけ。印のない窯は供給を絶たれる」
広場の熱が、すっと下がる。
老女の陶工の指が、皿の縁を掴んだ。
「……また、重くするのかい」
「安全のためにね」
カルドは優雅に頭を下げ、白い扇をくるりと回した。
去る背中は冬色だ。早い。いつだって、先に契約を打つ。
俺は胸の中で喉の雪をひとかけ落とした。怒りは熱い。冷やして、段取り。
「——図面を開く。器章の薄器、釉の甘い火、落下蓋の革紐。全部、設計歌にして、辺境の窯に流す」
リーナが目を瞬かせる。
「歌で……図面?」
「そう。“焼成の節”を覚え歌にする。詩人、頼む」
吟遊詩人が身を乗り出す。
♪ 火を甘く 土を薄く 風は下
灰は白く 塩はひと雪 音で止め
割れたなら 蓋で抱け 革で結べ
図面は燃える。歌は燃えない。
器章の設計歌は、明日には井戸街の子どもが口ずさみ、来週には辺境の窯が覚える。
契約に重さを足される前に、歌で広げる。
王弟、ふいに現る
日が落ち、最終の粥を配っていると、思いがけない客が現れた。
王弟だ。護衛も控えめに、外套の裾に煤をつけたまま。
「橋を、見た」
彼は短く言い、椀を受け取って喉で粥を飲む。
呼気が少し長くなって、目の端の痛みがほどける。
「眠れる粥だ。——橋章、よかった。戦は、歩いて運ぶものだ。声も水も」
侍医長が後ろで頷いた。
王弟は続ける。
「明日、北東の陶土丘陵へ護衛の一隊を出す。“歌読み職”を伴わせる。採掘契約の現地閲覧だ。歌の前で印を語らせる」
広場が沸いた。
公開の火は、とうとう王の枢にも届いた。
夜の段取り
人が引き、広場に火の芯だけが残る。
板は百。秤は十。井戸札は八十ぶら下がり、橋章の札が堀端で揺れる。
リーナが薄茶を回しながら笑った。
「カイ、今日の鍋、勝ったよ」
「勝った。でも、土が来る。重さの、もっと底にあるやつ」
ジルベルトが現れた。白の調理服に、門の風。氷の人間が、火の輪に入る。
「窯の火は急かすと甘さが死ぬ。設計歌は悪くない。だが、歌が速すぎる場所もある。——図と秤も一緒に置け」
「分かってる。だから移動秤を窯に一台ずつ。焼成秤。釉の重さ、土の水分、甘い火の重み」
ジルベルトがわずかに笑う。
「君の単純、やっぱり複雑」
「複雑な現実を、単純な段取りに落とす。それが食堂だ」
監察筆が、大きな欠伸を一つ。
「掲示、追加。
——“焼却があれば百返し。
——重さで塞げば秤を増やす。
——舟で囲えば橋を歩く。
——土を囲えば歌で焼く。”
……長いな。まあいいか」
札はがんと打ち込まれた。笑いが零れた。
公開は、冗談が混ざるくらいがちょうどいい。
明日への仕込み
宿に戻る前、俺たちは小釜で**“火消しの糊”**をもう一度炊いた。
粥に灰と塩。火のそばでねちねち練る。
鍋の匂いはやわらかく、冬の鼻を撫でる。
老女の陶工が指を突っ込み、塗りざわりを確かめる。
「甘い。これなら、一度目は耐える」
「一度でいい。時間が稼げれば、歌が追いつく」
喉の奥で雪が鳴る。
今日一日で、火の跡は舞台になった。
重さで塞がれた道は、拍で開いた。
そして明日、土が来る。
土は重い。けど、焼けば器だ。器は椀になる。椀は声を運ぶ。
「段取り、確認」
俺は指を上げた。
「一、器章の設計歌を今夜中に四つ作る。薄器・落下蓋・釉・焼成秤。
二、焼成秤を三台、夜明け前に窯へ。老女、頼める?」
「火の面倒は任せな」
「三、王弟隊の先回りで、丘陵の水章板と秤を設置。採掘の“泥水”をその場で読む。
四、橋章を南門にも一本。歩く水路は二本あれば網になる」
リーナが拳を握る。
「“公開百返し”、第二日目だね」
「そう。公開は続くほど強くなる。鍋も同じ」
夜が落ち、星が低い。
北門の板の森が、風にぱらぱらと鳴る。
歌は小さく、でも消えない。
火は小さく、でも続く。
俺は柄杓を立て、短く呟いた。
「鍋は叫ばない。だから、椀で答える。」
湯気はまっすぐ、星の底へ吸い込まれていった。
明日の舞台は、陶土丘陵。
重さの底で、甘い火を守る戦いが始まる。




