第10話「宮廷の試練、王の匙」
冬の入口を告げる風が王都の屋根を鳴らした。辺境へ戻ったその翌週、リヴァンス侯爵からの第二の書状が届く。王宮より正式に——「療食」を披露せよ、と。場所は宮廷の内台所、臨席は王太后と王弟、侍医団、宮廷楽団の長、そして商会連合の監察役。敵も味方も揃う舞台だった。
村の広場で封を切ると、紙の繊維の奥まで威圧の匂いが染みている気がした。リーナが唇を引き結ぶ。
「……逃げ道を塞いできてる」
「行くさ。逃げるより、鍋を持って歩いた方が温かい」
カイは笑って見せ、村人と抱き合い、旅支度を整えた。携えるのは少量の干し肉、自作の塩、薬草束、陶器の椀、そして《辺境食堂》の煤の匂い。若者二人とリーナが同行する。村長は背を伸ばし、「王の匙でも、お前の柄杓には敵うまい」と冗談めかした。笑いがこぼれ、冬の息が白く揺れた。
王宮の門は、前回よりも重く見えた。だが招待状に侯爵の印がある限り、誰も止められない。通されたのは「内台所」——王の口へ入るものだけを扱う、静謐で冷たい石の部屋だった。壁には磨き上げられた銅鍋が並び、床は水で洗い立て、冷えが足裏から脛まで刺す。
出迎えたのは、総料理長オルダン。白髪の髭を短く整え、目だけが刃物のように細い。
「辺境の鍋の者か。規律は守れ。刃は右、塩は王家の蔵のものを使え。火はこの篝火のみ。持ち込みは原則禁止だ」
言いながら、オルダンは黙ってカイの荷を検めた。干し肉、自作の塩、薬草束——ひとつずつ摘まむ指先が、疑念の癖を持っている。
「——塩は不可。外の塩は王家の味を乱す」
「では、王家の塩で」
カイはあっさり頷く。持ち込むべきは塩そのものではない。塩の「使い方」だ。
案内された調理場の隅では、見覚えのある白服が肩を揺らした。ジルベルトだ。彼は薄笑いをし、ささやくように囁いた。
「ここでは田舎の煙幕は使えない。舞台は香りと規律と伝統だ。お前の鍋では届かない高さがある」
「高さがあるなら、脚立を作ればいい」
「——脚立を燃やすのが王都のやり方だ」
ジルベルトは踵を返し、銀の蓋を小気味よく鳴らして遠ざかった。
試練の条件が侍医から告げられた。王太后は長患いで胃が弱く、王弟は戦傷の痛みで睡眠が浅い。脂と香りの強いものは禁じ、しかも「宮廷の塩」「宮廷の水」「宮廷の薪」を使うこと。与えられた時間は昼鐘から夕刻まで。求めるのは——「癒し」である。
周囲には王都一流の料理人が並び、銀器が鳴り、刃が走る。オルダンは遠目に腕を組み、監察役は書記を従え、筆を走らせる。リーナは台を拭き、若者たちは火加減と水運びに回った。
カイは耳の奥であの「式」が組み上がるのを感じた。骨、水、塩、香草、火加減。点と線と矢印が、石の台の上に白い痕跡を描く。選んだのは宮廷の貯蔵庫に眠っていた老いた雌鳥の骨、乾きかけた根菜、わずかな大麦。それらを黄金の清湯に仕立て、粥と二種の小皿に展開するつもりだった。
——まずは骨。
鶏骨を冷水から静かに起こす。沸点の手前で灰色の泡が寄り、詫びるように弾ける。アクをすくい、音が「ことり」と穏やかに変わるところで火を落とす。水面は鏡のようになり、底から光の筋が立つ。塩はまだ入れない。塩は最後、体に馴染ませる瞬間のために残す。
——香草は刃でなく、息で。
リーナに合図し、宮廷の庭から許された少量のタイムに似た草と、穏やかな苦みの葉をすり鉢で撫で合わせる。叩かない。潰さない。香りの扉だけ開ける。若者は火の「呼吸」を覚えた手つきで薪を寄せ、湯を微睡ませ続ける。
——根菜は角を落とし、四隅に甘みを出す。
小さな鍋で別に煮含め、塩はひとつまみ、指の腹で雪にする。これは王太后の皿に刻む「やさしさ」。
内台所の空気が微かにざわついたのは、隣の台でジルベルトが早くもひと皿仕上げたからだ。白身魚を蒸して乳で伸ばし、柑橘の香りを纏わせたソース。軽やかで、音楽のように流麗だ。貴婦人の嗜好に寄せた見事な手並み——だが、侍医の目は動かない。彼らが見るのは香りではなく、体がどう応えるかだ。
カイは湯の表情を読み続ける。表層の小さな泡が中心に集まって消えるたび、骨の中の「諦め」が出て、湯がそれを受け容れていく。やがて黄金の清湯ができた。目で見える透明さではなく、舌の上で消えて、あとから血に染みる透明さ。ここで初めて、王家の塩をひとかけ、溶かす。舌ではなく、喉で味を決める。
粥の釜を起こし、大麦を洗い、湯で膨らませ、清湯をかけてさらに育てる。皿は三つに決めた。
一、黄金清湯の粥——王太后へ。
二、根菜の薄煮と柔らかい白身の蒸し物——胃の負担を逃がし、眠りへ誘う皿。
三、香草の温かな茶——王弟へ。痛みの峰をやわらげ、夜の入口を見せる一服。
仕上げの直前、カイは塩壺のふたを開けて指を入れ、すぐに眉根を寄せた。——嫌な「遅さ」が舌に残る。王家の塩、ではあるが、蔵の一部にだけ混ざる苦い後味。金属疲労のような鈍いざらつき。誰かが意図的に、あるいはずさんに鉱滓を混ぜたのだ。
「リーナ、壺を替えて」
「え?」
「この塩は遅い。清湯が疲れる」
オルダンが近づく。
「規律を——」
「規律のために舌を壊すわけにはいかない。別の壺でも宮廷の印があるなら同じだ」
カイの声は静かだった。オルダンは刃物のような目で数秒見つめ、別の壺を指した。
「試せ」
新しい塩は、指で潰すと雪の音がした。舌の上で軽く溶け、後ろへ、血へ、穏やかに沈む。「これだ」。
盛り付けの時、ジルベルトが肩越しに囁いた。
「塩の選り好みで王の機嫌を損ねるな。宮廷では『用意された条件』で勝つ。それが美学だ」
「なら、美学を食べて眠れるか?」
カイは返し、椀口を拭った。
献立は王太后から。カイは膝をつき、椀を差し出す。白金の髪は陽に透け、頬には長い眠りの影がある。侍医が匙を取り、わずかを口へ。王太后の喉が静かに動き、肩がひとつ落ちた。彼女は自ら匙を持ち、二口、三口——目尻に小さな皺がほどける。
「温かい川の音がするね」
その一言に、侍医の筆が止まった。脈拍が、呼吸が、わずかに深くなっている。
王弟には白い皿。蒸した白身に根菜のやわらかな甘みをのせ、清湯を薄く注いだ。噛むというより、舌で崩す料理。彼は戦の傷を右脇に抱え、夜ごと痛みで目を開けるという。
「痛みの峰は越えられぬ」
侍医が低く言った。
「峰は越えない。ただ、登り口を緩やかにする」
カイは香草の茶を添えた。苦みは恐れの手を握り、温かさは眼差しを夜に向ける。王弟は一息で飲み、長い呼気を吐いた。掌が膝の上でほどけ、眉間の糸が緩む。
「今夜は——眠れるかもしれぬ」
内台所は静かな熱で満ちた。オルダンの顎がわずかに上がり、監察役は数字のない帳面に、何かを書いた。ジルベルトは唇を噛み、俯いた顔に影が斜めに走った。
休む間もなく、監察役が前に出る。
「なお、第二の課題を加える。商会連合の協賛である。王都の貧民院に即席の施食を行い、三百人を二刻で養え。食材の購買は本日より三日の間、商会の市場でのみ許可する」
ジルベルトが目を光らせる。取り引きの封鎖を、試験と称して合法化したのだ。リヴァンス侯の眉が動くが、監察役は冷たい笑みで続ける。
「王の為政は秩序の上にある。秩序の枠で結果を出す者を、王は愛する」
カイは短く頷いた。秩序という名の囲いの中で、どうやって外へ風を通すか——それが次の鍋だ。
「材料の自由がないなら、工程で自由を作る」
彼はリーナと若者を見た。目の奥の火は、村の焚き火と同じ色だった。
三日間、カイは市場で「最も売れ残る食材」を集めた。筋張った牛のすじ、芽吹きそこねた豆、皮に傷のある芋、香りの抜けた麦。商会の店主たちは嘲った。
「場末の鍋だな。王都でやることか」
「食べられるものは全部役に立つ」
カイは淡々と返す。
貧民院の中庭に大釜を据え、薪を積み、湯を起こす。まず牛すじを叩いて繊維を解き、低い火で長く、長く。水が疲れないよう、薪の呼吸を整え、アクを丁寧にすくう。そこへ洗った麦を入れ、豆を加え、皮の傷を落とした芋を崩し入れる。香草は侍医が許した範囲で——苦くない、眠りを遠ざけないものを、風のように少し。
塩は王家の蔵のもの。しかし、鈍い壺は避ける。仕上げにだけ、雪の音の壺からひとつまみ。味を手前に引っ張らず、奥へ沈めるために。
列ができた。痩せた頬、寒さで青い唇、子どもを抱えた母親。最初の椀を差し出すと、湯気が顔にかかり、表情がほどけた。
「——あったかい」
ひと口で涙をこぼす者がいる。二口目で笑う者がいる。子どもが両手で椀を抱き、鼻の頭を赤くしながら「おいしい」と言った。
ジルベルトは離れた場所で腕を組んで見ていた。彼の台にも大釜が据えられ、磨かれた穀物と香り高いスープが美しく並んでいる。だが列は短い。彼の料理は「見事」だが、「遠い」。貧民院の空腹は、理屈ではなく触れる温度を求めていた。
二刻の鐘が鳴る頃には、三百の椀は空になっていた。鍋底には黄金色の薄い膜だけが揺れ、最後の子にそれを掬って渡すと、彼は舌で大事そうに溶かした。
その場で侍医団が簡易の観察を行い、体温、脈、顔色、呼吸のリズムを確かめる。書記の筆が初めて忙しく動いた。監察役は無言で数字を覗き込み、表情を崩さないままだった。
翌朝、王宮の小広間に呼ばれる。リヴァンス侯、オルダン、侍医長、そして商会連合の監察役が並ぶ。壁のタペストリーに朝の光が斜めに落ち、糸の金が寒い。
侍医長が口火を切った。
「内台所の献立、貧民院の施食——いずれも『過度の香りと油を避け、体におさまる温度と塩の位置を守っている』。結果、睡眠の質と疼痛の自覚は統計的に改善した」
オルダンは鼻を鳴らし、「技は粗野ではない」とだけ言った。最大級の賛辞だった。
監察役が扇を畳み、ゆっくりと口を開いた。
「しかし、秩序の問題は残る。辺境の食堂が王都の供給網に口を出すなら、混乱は避けられまい」
カイは一歩進んだ。
「口を出すつもりはありません。鍋を出します。王都の網に細い糸を足すだけです。『旅する大釜』を作りたい。王都と辺境、村と村を回って、施食と小さな教えを置いていく。商会の店から買えるものは買う。買えない場所は自分たちで作る術を教える」
監察役の眉が動く。「教える?」
「はい。塩の煮詰め方。水の沸かし方。苦みの逃がし方。眠りの入口の作り方」
沈黙。壁の金糸が震えるように見えた。
リヴァンス侯が笑った。
「王は匙を持つ者を愛する——と、祖父は言った。匙で叩く者ではなく、すくう者を。よい、王命として『旅する大釜隊』を認可しよう。護衛は王弟の名で付ける。商会は妨げるべからず」
監察役は扇で口元を隠したまま、目だけで笑った。敗北の笑みではない。狩場を移す獣の笑みだ。
「王命とあれば、従うまで」
退室の際、オルダンが低く言った。
「塩の壺の選別に気づいたのは、見過ごせぬ耳だ。——敵は塩を濁す」
「はい」
「塩は目ではなく、喉で選べ。喉の後ろの方、そこに雪が降る音がする壺を——」
「知っています」
オルダンの目が、初めてほんのわずか柔らかくなった。
王宮を出ると、冬の日差しが鈍い銀の皿のように街を照らしていた。リーナが肩の力を抜き、空を仰ぐ。
「勝った、のかな」
「勝ち負けじゃない。やっと、歩ける道が見えた」
若者のひとりが笑った。
「『旅する大釜隊』って、名前がもううまそうだ」
「うまそうが一番だ」
カイは肩の荷を少し持ち替え、王都の石畳へ足を踏み出した。
その頃、宮廷の奥の別室で、ジルベルトは商会の男と向かい合っていた。男は黒い手袋を外し、机に指を鳴らす。
「王命は重い。だが、塩は我らの海から上がる。彼らが教える『やり方』は、我らの利を削る」
ジルベルトは視線を落とし、指先を組んだ。
「辺境の鍋は素朴で、強い。だが、強さには名をつけ、契約に縛ればいい」
「どうする」
「『規格』を作る。塩の純度、薪の種類、火加減の温度帯、配膳の量、施食の回数。王都で決めた規格を守らぬ鍋は、王命に背く鍋だと、印を押す」
男の唇に線が引かれた。
「よかろう。規格は秩序、秩序は印、印は金だ」
風が窓を鳴らし、遠くで鐘がひとつ鳴った。
《辺境食堂》へ戻る途中、カイはふと振り返った。石の塔の上で、光が小さく点滅した気がした。王宮の窓か、商会の灯か。どちらでもいい。火は火だ。鍋にくべれば、湯はまた沸く。
村に着いた夜、初めての「大釜隊」の集いが開かれた。広場の真ん中に大釜を据え、子どもから老人までが薪を一本ずつ持ち寄る。薪には名前が書かれている。火は皆の名を舐め、煤でひとつの家族を描いた。
カイは柄杓を握り、ゆっくりと湯を回した。
「旅は長い。だけど、椀は軽い。持てるだけ持って、配ろう。——料理一皿が、国を揺らす」
リーナが笑い、若者が頷く。村長は杖で地面をとんとんと叩き、低く歌い出した。吟遊詩人がいつか奏でた、あの簡素な旋律。焚き火が応え、星が寄ってくる。
冬は深まる。だが、湯気は空へ道を作る。
《辺境食堂》の物語は、王都の石畳から土の道へ、そしてまた王都へ戻る、往復の息を覚えた——。




