第8話 山岳奇襲作戦
数か月後――
夜明け前の山の空気は、骨の芯まで刺さるほど冷たかった。
深く息を吸い込めば、肺の奥が軋むように痛む。
ミリア・カヴェルは岩場に立ち、張り詰めた気配を見渡していた。
黒衣の上から白の防寒外套を羽織り、手には折り畳んだ地図と小型の通信器。
足元では、斥候たちが低い声で報告を交わしながら、無駄のない動きで装備を確かめている。
ここは雪嶺の一角。断崖と谷が幾重にも連なり、霜に覆われた岩肌は白く凍りついている。
谷を渡る冷気が上昇気流となって吹き上がり、岩影を擦る風がかすかな音を残して通り過ぎていった。
空はまだ薄闇の中で、尾根の向こうに稜線がわずかな光を受けて浮かび上がっている。
「奇襲部隊、準備完了。Aルートから後方へ回り込みます」
報告したのは《夜禍の牙》の潜入役、ユーグ・カランだった。
ミリアは短く頷き、地図を閉じる。
「時間通りに動く。陽動と合わせて突入開始。遅れは許さない」
その声に応じて、兵たちは一糸乱れぬ敬礼を返す。
その時、背後から雪を踏む足音。
振り返れば、アーク・レネフィアが肩に雪を積もらせたまま歩み寄ってくる。
「こっちも準備は整った。……そっちはどうだ?」
「予定通り、陽動はあなたたちが先行するのね」
「もちろんだ。敵の注意を集めるのは得意だからな」
にやりと笑うアークに、ミリアは視線を一度だけ流し、吐息を混ぜるように返した。
「なら、あとは私たちが無事に背後を突けるかどうか……」
「ああ。無事に戻ってくるのを祈ってる」
一瞬、ミリアは目を伏せる。しかしすぐに顔を上げ、声音を引き締めた。
「祈るより進路確保をお願いね。予定通りなら交戦開始は三十分後よ」
「了解。じゃあ行くとするか」
アークが雪の岩道を踏みしめて去っていく。その背を見送り、ミリアは小さく呟いた。
「――行くわよ。すべて予定通りに」
その言葉に応えるように、《夜禍の牙》の兵たちが無言で頷いた。
◇ ◇ ◇
岩陰に身を潜めたミリアは、目前の崖を見上げる。
氷雪に覆われたその壁は、足場も乏しく、正面突破すれば敵の射線にさらされるのは必至だった。
だが彼女たちが選んだのは裏側――偵察の末に見つけた尾根裏の細道。
一見すればただの岩場だが、雪と岩に紛れて続くその道は敵の目を避け、拠点側面へと繋がっていた。
ミリアは指先で合図を送る。
兵たちは音もなく呼応し、雪を裂くように進み出した。
その先頭は、やはりユーグ・カランだった。雪に吸われた足音は痕跡を残さず、気配さえ風に溶ける。
間もなく、通信に低い声が届いた。
「奇襲部隊、配置完了」
ミリアは通信器に触れた。
「陽動開始まで、あと二分」
――その時、遠く山上で爆音が轟いた。
白陽の旗を掲げた部隊が尾根を越え、雪原に展開する。
「始まった……行動開始!」
号令とともに、《夜禍の牙》が闇を切り裂き、一斉に動き出す。
補給庫を蹴破り、敵兵を瞬時に制圧。
さらにシェラからの報告が届く。
「敵は指揮所前に集中。後方が手薄」
ミリアは即断する。
「補給庫班、南側から回り込んで。主力班と挟撃する。狙いは敵司令官」
ユーグ率いる主力班はすでに指揮所の側面に展開している。
そこに今制圧を終えた補給庫班を加えれば、敵中枢を挟撃できる形が整う。
短い返答とともに兵たちは即座に散開し、雪に紛れて背後から潜り込む。
瞬く間に包囲は完成し、敵陣を締め上げた。
突如として後方を突かれた敵兵は混乱に陥る。
指示は届かず、前線と後方は断絶。補給線からも、慌てて駆け出す兵が次々と現れる。
ミリアはその様子を見届け、指先を静かに下へと振り下ろした。
次の瞬間、夜禍の牙が一斉に飛び出す。
雪を蹴り裂く足音と、鋼が交わる金属音が夜気を震わせた。
精確かつ迅速な一撃が敵陣を貫き、混乱は瞬く間に広がる。
立て直しを図った司令官も、冷徹な一撃に沈んだ。
――拠点、制圧完了
わずかに息を整え、ミリアは通信器に指をかける。
「こちらミリア。拠点内部、制圧完了。被害最小。補給線を断った」
数秒の間を置いて、アークの声が返る。
「白陽、確認。……見事だ」
◇ ◇ ◇
敵の残党は山道へと散り、散発的な抵抗も次第に沈静化していった。
主要な拠点はすべて落ち、戦場を覆っていた混乱もようやく収束を見せる。
《夜禍の牙》と《白陽の騎士団》はその後も連携し、周辺の警戒と掃討を続行。
隠れた敵兵の捜索や補給庫の安全確認も速やかに終えられた。
全作戦の終結を目前に、両部隊の指揮官たちは最後の報告を交わす。
「被害は軽微。目標地点の制圧完了。補給物資も確保済みです」
報告を受け、ミリアは疲労の色を帯びた目元を押さえ、静かにうなずいた。
「よし……全員、集合地点へ戻って。本隊からの指示を待つ」
「了解」
応じたのは、防寒マントを正しながらも血の気の失せた顔色のシェラだった。
しばし沈黙ののち、彼女はぽつりと呟く。
「……うまくいって、本当に良かった」
「あなたの探知と、ユーグの動きが大きかった。見事な連携だったわ」
ミリアが微笑みを返すと、シェラも安堵の色を滲ませて小さく頷いた。
こうして雪嶺の戦いは幕を閉じた。
紫を帯び始めた空には、まだ夜の気配がかすかに残っていた。