第76話 停戦の使者
日が落ち、街は徐々に夜の帳に包まれていった。
隠れ家となった旧集会所の一室で、ミリアはようやく腰を下ろしていた。
厚手の布に覆われた窓は外の光を遮り、室内には柔らかな灯りがひとつ、ゆらゆらと揺れている。
ほどなくして、湯気を立てる木の器を手にしたシェラが入ってきた。
「……うまくいったみたいですね」
そう言ってスープを差し出すと、彼女はミリアの向かいにそっと腰を下ろす。
「ええ。シスターも子どもたちも……最初は戸惑っていたけれど、時間が経つにつれて、少しずつ受け入れてくれたわ」
ミリアは微笑みながら答えた。
その声には安堵の色が混じり、同時に長い一日の疲れも残っていた。
それを聞いたシェラは、ふっと表情をやわらげる。
「……リリィ、がんばったんですね。さすが、私の妹です」
誇らしげにそう言うと、シェラは目元を指で軽くぬぐった。
ミリアはゆっくりとうなずく。
「全部が元通りになるわけじゃない。でも――あの子にとって“帰る場所”は、やっぱりあそこしかないから」
「はい。シスターがいてくれますしね」
「そうね。アビゲイルがいてくれて、本当によかった。あの人のもとなら、きっと大丈夫」
ミリアはそう言って視線を落とした。
器から立ちのぼる湯気が、二人の間で静かに揺れる。
「……本当に“大丈夫かどうか”がわかるのは……明後日、ですね」
シェラの低い声に、ミリアが小さく頷く。
「ええ……」
◇ ◇ ◇
二日後――
王家の権威は大きく揺らぎ、セイクリアの空気は日に日に不穏さを増していた。
真実が広がるにつれ、各地で抗議の声が上がる。
かつて「国家の正義」と信じられていたものは崩壊し、ミリアを縛っていた「国家反逆者」の烙印も、いまや名ばかりのものとなっていた。
その朝、王都中心部の大通りにざわめきが走る。
通りの奥――城門へと続く石畳の先に、異形の一団が姿を現したのだ。
深い外套に身を包み、赤い瞳と尖った耳を持つ魔族たち。
その姿に、人々は息を呑み、思わず足を止める。
一団の中心にいたのはマリス。
魔族の代表として、ためらいもなく前を見据えて進む。
そしてその隣には――ミリアの姿があった。
かつて“反逆者”と呼ばれた彼女が、いま魔族の使節と肩を並べている。
その異様な光景に、通りは騒然となった。
荷車を押していた男が手を止め、子どもを抱いた母親が一歩、後ろへ下がる。
「……魔族だ!」「侵略か!?」
不安と動揺の声が飛び交う。
しかし、魔族たちは武器を携えていない。掲げていたのは白布と封印された文書。
戦の旗ではなく、停戦の意志を示す印だった。
城門前の《白陽の騎士団》がざわめく。
数人が思わず武器に手を伸ばす。兵たちの間に、反射的な緊張が走った。
「……武装していない、だと……?」
互いの顔を見合わせ、判断を迷う兵たち。
そんな中、副団長レオナが馬上から手を挙げ、声を張った。
「落ち着きなさい。まだ何も起きていない。全隊、待機!」
兵たちは戸惑いながらも動きを止める。
そのとき、もう一人が前へ出た。
「武器を下ろせ」
低く、よく通る声。姿を現したのはヴァルド。
鋭い眼差しで一同を見渡し、再度、短く命じる。
「全員、武器を下ろせ。これは命令だ」
その言葉に、兵たちは迷いながらも剣を納めた。
空気は張りつめたまま、誰ひとり動けずにいた。
ヴァルドが馬上のレオナに目を向け、小さく言う。
「……来ましたね」
レオナは短く頷いた。
「はい。万一に備えておいてください」
ヴァルドはわずかに表情を引き締め、前へ向き直る。
緊張の残る視線の中を、ミリアたちはゆっくりと進んだ。
武器を持たぬ異形の一団が、まっすぐ城門へ向かう。
その光景に、通りのざわめきが波のように広がっていった。
「……あれは、一体何のつもりなんだ?」
人々のざわめきを背に、マリスが立ち止まり、前へ出た。
「我々は、魔族領より正式な使者として派遣された者です」
その澄んだ声に、通りが静まり返る。
マリスは続けて言った。
「目的は――人間と魔族の間における、停戦協定の締結。
我々は戦うために来たのではありません。この争いを終わらせるために、言葉を交わしに来たのです」
その声は静かでありながら、よく通った。
誰もがその場に釘付けとなる。
やがて、通りの片隅から小さな拍手が起こった。
それに呼応するように、もう一人、そしてまた一人と、まばらながらも確かな賛意が手のひらに表れていく。
しかし大半の人々はまだ黙っていた。
交渉。停戦。
あまりに唐突すぎる言葉に、心がついていかない。
夢か、罠か――多くの者がそう疑いながら、ただ目の前の光景を見つめていた。
――それでも、道は開かれている。
ミリアたちはすでに王宮への謁見の許可を得ていた。
激化する民意と揺らぐ統制のなかで、崩壊寸前の体制を繋ぎとめようと、国王側もまた焦りを見せていた。
だからこそ、この日、この時――王宮は彼らを迎える。
通りのざわめきは次第に大きくなり、波のように押し寄せていた。
失望、戸惑い、期待――いくつもの感情が渦巻いていく。
ミリアとマリスは互いに一度だけ視線を交わした。
言葉を交わすこともなく、足を止めることもなく、民衆のざわめきを背に城門を抜ける。
白い石の回廊へ。
玉座の間へと続くその道を、そのままゆっくりと進んでいく。
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