第75話 リリィの幸せ
ヴァレント・レネフィアの名で発せられた声明は、アストラニアの貴族社会を激震させた。
単なる有力者の発言ではない。
レネフィア家は“王家の補佐”として政務と軍権を担う家門。その発言は、実質的に王家への“不信任”と同義だった。
王家と貴族は一枚岩に見えても、実情は脆い均衡の上に成り立つ。
利害と伝統で辛うじて結ばれた関係は、ひとたび揺らげば崩れ落ちるのも早い。
一部の貴族は王家を見限り、また一部は冷静な計算から距離を置き始めた。
王家と運命を共にすれば、民衆の怒りが自分たちへ向かう――その危険性に気づいたのだ。
レネフィアがどれほどの覚悟で声明を出したのか。
声明を出す前なら、“事実を闇に葬る”という選択肢もあったはずだ。
それでも彼は、公にした。署名入りで、誰の目にも明らかな形で。
――アークが、うまく立ち回ってくれたのだろう。
ミリアは空を仰ぎ、小さく呟いた。
「……ありがとう、アーク」
その頃、王宮では情報の拡散を受けて緊急会議が開かれていた。
通信網の封鎖、各地への鎮圧部隊の派遣――だが、もはや時すでに遅かった。
声明は王都を越え、周辺地域へと波のように広がっていた。
民衆の抗議と動揺は瞬く間に各地で噴き出し、誰にも止められない。
かくして――王家は、国家の中で静かに、しかし確実に孤立の道を歩み始めた。
◇ ◇ ◇
情報の拡散から、すでに数日が過ぎていた。
王都セイクリアでは未だ緊張が解けず、その余波は外縁の城下町ルディナにも及んでいた。
街角では新たな壁報が貼られては人々の足を止めさせる。
王宮からの通達や指名手配の名が並ぶたび、誰かの名が口の端にのぼった。
そんな喧騒を抜け、坂道の先――
石造りの門の前で、ミリア・カヴェルはそっと足を止める。
かつてリリィが暮らしていた孤児院。
今はミリアたちと共にあるが、それでも彼女にとっては“帰る場所”であった。
その傍らに立つリリィは、以前とはまったく違う姿をしていた。
かつて青く澄んでいた瞳は紅く染まり、耳は細く尖っている。
そして、首筋から頬にかけて淡く浮かぶ、模様のような痣――
それは、人間から見れば紛れもない“魔族”の証だった。
子どもたちの前に出られる姿ではないかもしれない。
それでもリリィはミリアの手を握っていた。ミリアもまた、その手を強く握り返す。
「行こう、リリィ」
ミリアが門を叩く。ほどなくして軋む音がし、木扉の隙間から現れたのは――シスター・アビゲイルだった。
「……ミリアさん?」
「朝早くから、ごめんなさい、アビゲイル」
その目が、ミリアを、そしてリリィを見つめる。
わずかな驚きと、すべてを受け入れるような理解が、その表情から伝わってきた。
「いいのよ……リリィも、お久しぶりね」
姿は変わっていても、彼女の目には、確かに“リリィ”が映っていた。
ミリアが指名手配中であることは、もちろん承知している。
だが――国家への信頼すら揺らぎ始めた今、変わらぬ眼差しを向ける彼女を前に、アビゲイルはためらいなく門を開けた。
「どうぞ、お入りになって」
木の軋む音とともに、温かな空気が外へ流れ出る。
庭先では、数人の子どもたちが遊んでいた。
そのうちの一人がふとこちらに気づき、足を止める。
「……あの子……リリィ?」
ざわめきが広がる。
驚きと戸惑い、そして恐れが、子どもたちの目に浮かんだ。
「ちがうよ、あれ……こわい……」
空気が張りつめていく。
リリィはミリアの背に隠れそうになりながらも、踏みとどまった。
そのとき、ミリアが一歩、前へ出た。
「みんな。この子はリリィよ。あなたたちが知っている、優しくて元気だったあの子」
子どもたちは、まだ困惑の表情を浮かべていた。
リリィの変わりようは、あまりに大きかった。
幼い子のひとりがそっと他の子の背に隠れ、誰かは口を開きかけて言葉を飲み込む。
リリィはぎゅっと唇を結んだまま、その視線に耐えていた。
俯きそうになる顔をなんとか上げ、けれど目は揺れている。
それでも逃げなかった。
ミリアの手を握る力は、弱まることはなかった。
その姿を横目に見て、ミリアはゆっくりと息を吸い――そして、もう一歩踏み出した。
「見た目は変わっちゃったけど――でも、前よりずっと、かっこよくなったと思わない?」
その言葉に、空気がふっと揺らいだ。
「……ふふっ」
そう微笑んだのは、シスター・アビゲイルだった。
「たしかに。少し驚いたけれど……でも、とても綺麗になったわね、リリィ」
リリィは小さく息を吸い、顔を上げた。
「……シスター……ただいま」
「おかえりなさい。ずっと、待っていたわよ」
その優しい声に、リリィの唇がわずかに震えた。
それをきっかけに、子どもたちの輪が少しずつほどけていく。
ひとりが近づき、躊躇いながら尋ねる。
「……本当に、リリィなの?」
ためらいがちに投げかけられたその問いに、リリィは一瞬だけ迷い、それからゆっくりと頷いた。
「うん。リリィだよ。見た目は、その……変わっちゃったんだけど……」
自分の髪にそっと触れ、尖った耳を気にするように手を動かす。
声はかすかに震えていた。
少女はしばらく黙っていたが、やがて、そっと手を伸ばす。
「……なら、また一緒に遊んでくれる? リリィ!」
リリィの目がわずかに見開かれる。
拒まれることばかりを恐れていた心に、思わぬ光が差し込む。
「もちろん!」
いつもの笑顔が戻っていた。
その一言が、張りつめていた沈黙を溶かしていく。
次々に子どもたちが集まり、「あのときの歌」「かくれんぼ」「木登りの話」と、記憶があふれるように呼び戻されていく。
ミリアは少し離れた場所から、その光景を見つめていた。
変わってしまったはずの日常が、少しずつ元の形を取り戻していく。
やがて、リリィと目が合う。
彼女が無邪気に手を振り、ミリアは静かに微笑み返した。
その傍らに立ったアビゲイルが、穏やかな声で言う。
「……リリィのこと、もう一度ここで受け入れる準備を整えます。
この子にとって、ここが“いつでも帰ってこられる場所”であるように」
ミリアは深く頷いた。
「ありがとう、アビゲイル。本当に……ありがとう」
外の空気はまだざわめいている。
けれど、この場所だけは――あたたかさが満ちていた。
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