第6話 陽だまりの記憶
春の陽射しが、古びた庭の白壁をやわらかく照らしていた。
城下町ルディナの孤児院。その裏手にある木製のベンチに、ミリアとリリィは肩を寄せ合うように並んで腰を下ろしている。
風に揺れる洗濯物が、ひらひらと青空に踊り、遠くから子どもたちの笑い声が弾んで届いた。
さっきまで庭を走り回っていた子猫は、いまはリリィの足元で小さく丸くなっている。
「……あったかいね、今日」
「そうね。戦場とは、まるで別の世界だわ」
穏やかな声で答えるミリアに、リリィは少しだけ頬を寄せる。
その小さなぬくもりを腕越しに感じながら、手元の湯気立つカップに口をつけた。
紅茶の香りが、鼻の奥に心地よく広がる。
「ねえ、ミリア」
「ん?」
「この紅茶って、砂糖入れてた?」
「二つ入れて甘くしてあるって言ったでしょ」
「そっか……どうりで甘いと思った。さっき三つ入れちゃった」
ミリアが思わず吹き出す。
「甘いを通り越して、もう飲み物じゃないわよ、それ」
呆れたように言いながらも、口元はゆるんでいた。
「でもね、なんか……“がんばった人にしか飲めない紅茶”って感じがするの」
リリィは笑いながらカップを抱え、くるくると足を振っている。
ベンチの下では、子猫がぴくりと耳を動かしていた。
ふと、リリィはカップを置き、小さく呟いた。
「……本当に、帰ってきてくれてよかった」
ミリアは一瞬、返す言葉を探すように目を伏せた。
「無事でいてくれて、ありがと。ちゃんと頑張ってきたんでしょ?」
顔を上げたリリィが、照れくさそうに見つめてくる。
ミリアはそっと微笑み、優しく答えた。
「……ええ。ちゃんと、頑張ってきたわ」
するとリリィは、にこっと笑いながら、自分のカップを差し出した。
「じゃあ、これあげる。がんばった人用の、特製・甘すぎ紅茶」
「……遠慮しておくわ」
「いいの。私のと交換、はい」
強引にカップを差し出すその仕草に、思わずミリアは苦笑した。
受け取った紅茶の中では、まだ砂糖が底に溶けきらず、きらりと光っている。
「……戻ってくるの、前よりちょっとだけ、安心して待てるようになった気がする。……少しだけね」
リリィの声は、笑いながらもどこか照れていた。
けれどその言葉には、しっかりとミリアへの信頼が混ざっていた。
「そう。なら、よかった」
視線をずらすと、風に揺れるシーツが空の青に透けていた。
――ああ、そういえば
あのときも、こんな風が吹いていた。
◇ ◇ ◇
アークと初めて肩を並べて剣を振ったのは、一年前のことだった。
前線砦を巡る防衛戦――それぞれが部隊を率い、同じ戦場に立った。
魔族軍の進軍は衰えず、砦は長期戦の様相を帯びていく。
昼は《白陽の騎士団》が防衛を担い、夜は《夜禍の牙》が迎撃に回る、緊張の切れない交代制だった。
「日中のうちに外周を補強する。夜間の巡察は任せた」
「了解。敵の動きは細かく報告してくれると助かるわ」
言葉はまだ探るように慎重だった。
だが、その間に流れる呼吸は自然で、背中を預けてもいいと直感させる何かがあった。
砦を巡るその防衛戦には、両部隊の要となる面々が揃っていた。
《白陽の騎士団》副団長、冷静沈着なレオナ・バルトネスは補給線の維持を一手に担い、砦内の物資を常に最適な位置へと配分していた。
綿密な配置と的確な指示が前線の動揺を幾度となく抑え、戦況を安定させていた。
《夜禍の牙》からは、ユーグ・カランが偵察に出ていた。
気配を断つ潜入行動で敵の動きを先んじて察知し、そのつど的確な報告で味方を導いた。
狙撃手のシェラ・ノクトは、高台から魔素の揺らぎを読み取り、敵の避難経路や進路を先回りするように狙撃地点を変え続けた。
敵が地下坑道を通じて砦への侵入を試みた深夜、ユーグの報告が真っ先に届き、シェラは即座に仲間の避難誘導に回った。
誰もが自分に与えられた役割を果たし、互いの動きを支え合っていた。
無駄な指示はひとつもなく、それでいて戦線は淀みなく動き続ける。
――あの日の戦いは、皆がひとつになって戦っていることを、改めて強く感じさせるものだった。
◇ ◇ ◇
ミリアはベンチに腰を下ろしたまま、紅茶をひとくち含む。
舌に広がったのは、思わず笑ってしまいそうなほど甘い味だった。
けれど、その甘さは不思議と胸の奥に心地よく染み込み、少し冷めかけたぬくもりが「帰ってこられた」実感をそっと包み込む。
隣でリリィが小さなくしゃみをした。
「……あ、風、強くなってきたね」
「ええ。そろそろ中へ戻りなさい」
「ミリアは?」
「もう少しだけ、空気を吸っていくわ」
「ふーん。……じゃあ、行ってらっしゃい」
軽い足取りで立ち上がり、扉の向こうへ消えていく背中を、ミリアは目で追う。
風に揺れる髪が、春の光をきらりと反射した。
「……いつの間に、こんなに背が伸びたのかしら」
そのつぶやきは、そっと風に紛れて消える。
晴れ渡る春空の下、戦いの影はほんの少しだけ遠のいていた。