第61話 境界の近く
細い山道を、ミリアたちは慎重に進んでいた。
左右から木々が迫り、岩と根が複雑に絡み合っている。
枝葉の隙間から差し込む傾いた陽光が、地面に揺れる影を描いていた。
――そのとき。
前方の曲がり角から、一人の魔族の老人が姿を現した。
背を丸め、枯れ枝を束ねた薪を背負い、杖を頼りにゆっくりと歩いてくる。
空気が一瞬で張り詰める。
ミリアは反射的に足を止め、シェラはためらいなくフードを深くかぶった。
リリィは小さく肩をすくめ、ミリアの背にぴたりと身を寄せる。
誰も言葉を発さない。
ただ、張り詰めた空気だけがあたりを満たしていた。
老人は立ち止まり、しばらくこちらを見つめた。
やがて道の端に寄り、通れと言わんばかりに、ゆるやかに手を動かす。
ミリアたちは互いに視線を交わし、慎重に歩を進めた。
すれ違う瞬間、老人は小さく首を傾け、低く呟く。
「……迷わぬように」
その一言を残し、再び背を向けて歩き出す。
林の奥にその姿が消えるまで、誰も動けなかった。
敵意はなかった。
それなのに、ミリアの胸の奥には妙なざわめきが残った。
◇
その夜、谷間の木陰に小さな野営地を設けた。
火の気は最低限。風の通りを避けるように、背の高い岩陰へ身を寄せる。
皆は早めに横になったが、ミリアだけは眠れずにいた。
見張りの番はシェラ。
少し離れた場所で立つ彼女のもとへ、ミリアはそっと歩み寄る。
言葉を交わすこともなく、ただ隣に並んで夜の気配に耳を澄ませた。
木の葉の隙間から、かすかな星明かりがのぞく。
長い沈黙ののち、シェラが小さく口を開いた。
「……子供のころから、魔族は化け物だって教えられてきました」
抑えた声。それでも、長年の刷り込みを噛みしめるようだった。
ミリアは短く息を吐く。
「悪いことをしたら、魔族が来るぞってね」
ふたりは目を合わせないまま、微かに笑った。
シェラがぽつりと続ける。
「……今日すれ違ったあの人、“それ”には全然見えませんでした」
「うん。どう見ても、ただの年寄りだったわ」
武器も持たず、薪を背負い、静かに生きる老人。
それでも“魔族”というだけで、自分たちは身を隠し、息をひそめた。
どれほど深く恐怖が植えつけられていたかを思い知らされる。
「……ああやって暮らしてる人たちがいる。それを、あの記録を見るまでは想像すらしなかった」
「……はい。私もです」
ふたりはしばらく黙り、夜の音に耳を傾けた。
虫の声。木々を揺らす風。焚き火の小さなはぜる音。
戦場で見た魔族だけが、すべてではない。
頭では分かっていたはずなのに――その向こうに“普通の暮らし”があることを、心のどこかで否定していた。
あの記録……忘れられた真実の歴史。
それを思えば、魔族が人間に恨みを抱いていても不思議ではない。
実際、今も両者のあいだでは戦争が続き、人間側の被害も少なくない。
人間だと知られても、この先も同じでいられるのだろうか。
◇
夜が明け、再び道を歩き始める。
空は澄みきっているのに、空気は刺すように冷たく、霜が足元を白く染めていた。
吐く息が小さく揺れ、全員が無言のまま目的地を目指す。
道中、すれ違う魔族の姿が徐々に増えていく。
それは、確実に魔族領が近いという証だった。
だが――意外なことに、彼らは誰ひとり敵意を見せない。
むしろ穏やかに「お気をつけて」と声をかけてくる者さえいた。
「……優しいね、みんな」
リリィがぽつりと呟く。その声には、戸惑いの色が混じっている。
ミリアとシェラは、彼らと目を合わせないようにして歩いていた。
人間である自分たちの正体が知られたら――
その不安が、ずっと胸の底に沈んで離れない。
「優しいけど……人間だと知られても変わらないかな……」
シェラが低く、誰にも聞こえないように呟いた。
リリィは振り返り、冗談めかして笑う。
「じゃあさ、ミリアとシェラは、ソフィアとイレーネと手をつないで仲良くしてれば大丈夫じゃない?
“人間だけど仲良しだよー”って。私はセリナと手をつないでるし」
そう言って、隣のセリナの手をぎゅっと握る。
「……リリィ、そんなに簡単な話じゃないわよ」
ミリアが眉をひそめて言った。
「冗談だってば。ちょっと緊張ほぐそうと思って」
リリィが舌を出して笑う。
そのとき、ふと横を見ると――
ソフィアが、ほんのり頬を染めながら手を差し出していた。
「ソフィア、あなたまで……やめてよ」
ミリアがため息まじりに言うと、ソフィアははっとして慌てて手を引っ込める。
「ち、違うの。ただ……あなたと、手をつなぎたかっただけだから……」
言ってから、自分の言葉に気づき、一気に顔が真っ赤になった。
「い、今のなし! そういう意味じゃなくて……!」
その慌てぶりに、リリィがぷっと吹き出した。
「ふふっ、ソフィアかわいい〜」
ソフィアは両手で顔を覆い、耳まで真っ赤に染まる。
ミリアも思わず肩を震わせながら、やわらかく笑った。
その小さなやり取りに、張りつめていた空気がふっと和らぐ。
けれど、問題は変わらない。
ミリアは足を止め、空を見上げて小さく呟いた。
「……でも、どうやって境界を越えよう?」
それは、あまりにも当然すぎる壁だった。
イレーネやソフィア、セリナなら通れるかもしれない。だが自分とシェラは人間そのもの。
どう足掻いても怪しまれる。下手をすれば拘束すらされかねない。
ミリアが幾つもの案を頭の中で組み立てていると、イレーネがふいに言った。
「……ちょっと考えがある」
それだけ言い残し、ひとりで森の中へと姿を消す。
――そして。
イレーネが戻らぬまま、一行はついに国境ゲートの目前へとたどり着いた。
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