第53話 記録の森へ
山裾を越えると、視界の先に緩やかな平地が広がっていた。
風が草をなで、遠くで鳥の鳴く声がかすかに響く。
ミリアたちはイレーネの証言を頼りに、南東の方角へと進んでいた。
目的地は――セリナが向かったという「南方の森」
ミリアの脳裏に浮かんだのは、王国南東に広がる“記録の森”と呼ばれる広大な森林地帯だった。
確証はない。だが、それが唯一の手掛かりでもあった。
記録の森は王国と魔族領の境界近くに位置する。
最短経路を行けば監視網に触れる危険があるため、一行は気配を抑え、茂みの陰を縫うように歩みを進めていた。
「この先は魔族領の外縁ね。……慎重に行きましょう」
地図を確認しながら、ソフィアが周囲に告げる。
彼女の幻影魔法により、要所ごとに姿を変えて進むことで、外部の目を巧みに避けることができていた。
「……待って。気配」
イレーネが足を止め、遠くの丘をにらむ。
風の向こうに、人の気配がある。
「何人かいる。でも、こちらには気づいていないみたい」
シェラが同じ方向を見据え、小さく息を呑んだ。
これまでにも似た感覚を覚えることは何度かあった。
だが、敵意も追跡も感じられなかった。
「……運がいいだけ、なのかもね」
ミリアが小さく呟いたが、その言葉通り、敵との接触は一度も起こらなかった。
野営と短い休息を挟みながら、一行は慎重に前進を続けた。
――夜。
焚き火の明かりが、闇の中でゆらゆらと揺れている。
ぱち、と薪がはぜる音が耳に心地よい。
「ふぁぁ……もう歩けないって思ったけど、ごはん食べたら元気出ちゃった」
毛布にくるまったリリィが、あくびを噛み殺して笑う。
「明日も長いわよ。今日はもう休みなさい」
ミリアが優しく言うと、リリィは「うん」と小さく頷き、目を閉じた。
すぐに、安らかな寝息が聞こえてくる。
「ふふ……まだまだ子どもね」
ソフィアが微笑むと、隣でイレーネが火の揺らぎを見つめながら応じた。
「……なんだか、ソフィアの子どものころを思い出すな」
「え? ちょっと待って。私とイレーネって歳ほとんど変わらないよね? 同い年だったはずだけど?」
「そうだったかな。でも、あの頃のあなた、リリィみたいによく寝落ちしてたじゃない」
「うっ……もう、昔話はやめてよ」
照れくさそうに頬をかくソフィアに、イレーネはくすりと笑う。
焚き火の火の粉が空へ舞い、夜の星と溶け合うように消えていった。
やがて、焚き火の前に残ったのは、ミリアとシェラの二人だけ。
夜風が布を揺らし、静かな寝息が遠くで微かに聞こえる。
「……こうして並んで座るの、久しぶりですね」
シェラがぽつりと呟く。
「そうね。戦場じゃ、こんな時間ほとんどなかったもの」
ミリアが柔らかく返した。
焚き火の炎がゆらめき、夜風が二人の髪をやさしく撫でていく。
しばしの沈黙――言葉を交わさない静けさが、かえって心地よかった。
少しして、ミリアが炎の向こうに座るシェラへと目を向ける。
「ねぇ、シェラ。……こんな夜、何を考えてる?」
「……特には。でも……明日のことを、ぼんやりと」
その声は遠くを眺めるようで、ミリアは小さく頷いた。
「考えすぎないようにね。眠れなくなっちゃうわよ」
「……はい。団長も」
炎が揺れ、二人の横顔をやさしく染める。
ほんの短い間だが、久しく忘れていた穏やかな時間が流れていた。
◇
――そして翌朝を迎え、出発から二日目の午後。
「……あれ、見て」
シェラがふいに立ち止まり、前方を指さした。
視線の先、かすかに塔のような構造物が見える。
だがその姿は、揺らめく空気に包まれて曖昧だった。
「認識阻害……?」
ミリアが目を細め、霞む構造物を凝視する。
隣でイレーネがその場に残された思念の痕跡を探り始めた。
「認識阻害の痕跡がある。……でも、長年放置されて魔力が薄れてるみたい」
近づいてみると、それは驚くほど古びた監視塔だった。
壁の大半は苔に覆われ、かつて張られていた魔力障壁も、今ではほとんど力を失っていた。
長く放置され、忘れ去られていたのだろう。
「塔というより……研究施設、かも」
思念をたどりながら、イレーネが呟く。
「中を確認しましょう。補給物資か、記録の断片でも残っているかもしれない」
ミリアの提案に皆が頷き、一行は塔の内部へと足を踏み入れた。
「リリィ、私から離れないで」
「うん……」
ぎゅっと握られたリリィの手はかすかに震えていた。
「これ……薬品棚? こっちは資料棚みたい」
シェラがランタンを掲げ、淡い光が古い室内を照らす。
奥の扉を開けると、いくつもの大きなガラス管が並んでいた。
「これ……標本?」
シェラの声が震えた。
ガラス管の中には、保存液に沈む無数の人影があった。
ただし、そのどれもが人の形を保っていない。
指は異様に長く、耳の輪郭は歪み、皮膚の色には不自然な変化があった。
「魔人……? にしては、あまりに人間に近いわね」
ミリアの呟きに、ソフィアが頷く。
これまで見てきた魔族や魔人と似ているがどこか異なる特徴。
その多くが“変異の途中”で止まったような、不安定な姿をしていた。
「外部から持ち込まれた形跡がある。時代は……五百年以上前」
イレーネが目を閉じ、残留思念を探る。
しかし感じ取れるのは微弱な魔力の残響と、断片的な記録だけ。
誰が、なぜ、これらを集めたのか――その答えは見えなかった。
「持ち込んだのは……人間。でも、目的も出自もわからない」
謎ばかりが残る。
標本の正体も、この施設がなぜ監視塔に偽装されていたのかも、確かな手掛かりはない。
ただ、薄らとした不安ばかりが一行の胸に残った。
「補給物資は残ってない。……標本が唯一の手掛かりだけど、関連記録は見当たらないわ。行きましょう」
ミリアの言葉に皆が頷き、一行は塔を後にした。
再び森を目指し、歩みを進める。
さらに半日ほど進むと、周囲の景色に少しずつ変化が現れ始めた。
草地に低木が混じり、やがて道の脇に若木が連なる。
歩を進めるたびに緑は濃くなり、木々の背丈も次第に高くなっていった。
やがて視界の先に、重なり合うような樹冠の影が広がる。
――記録の森。その輪郭がようやくはっきりと現れた。
空気が変わり、風が湿り気を帯びる。
霧が足元を這い、視界をじわじわと奪っていく。
呼吸に混じる魔素の濃度も、明らかに高まっていた。
「ヴェイルの森とは……違う」
イレーネが足を止め、周囲を見渡す。
ソフィアもまた、魔力の流れに意識を集中させた。
「異質な流れ……ここが“記録の森”で間違いないと思う」
魔素のバランスが崩れている――そう聞いてはいた。
けれど、実際に目にした光景は想像をはるかに超えていた。
風詠みの丘ほどではないにせよ、空気そのものが歪むような濃度の魔素が漂っている。
「ここが……」
ミリアが小さく呟き、前を見据える。
そして――その入口へと足を踏み入れた。
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