第52話 リリィのおでむかえ
焚き火の炎が、夜気の中で静かに揺れていた。
息を吐くたび、白い靄がふわりと滲む。
「南方の森って……記憶の森ですかね?」
シェラが小さく呟いた。
「でも、あそこは魔素のバランスが崩れてて……立ち入りが厳しく制限されてる区域じゃ?」
焚き火越しに、ミリアが顔を上げた。
「私たちが子どものころはね。でも今はどうかしら。最近は、軍の規制もだいぶ緩くなってきていると聞いたわ」
「魔素のバランスって……ヴェイルみたいに低いの? それとも、逆に高すぎる感じ?」
イレーネの問いに、ミリアは一瞬だけ考え込む。
沈黙を破ったのは、ソフィアの軽い声だった。
「ま、行ってみれば分かるわよ。どうせ迷ってる時間がもったいないし」
そう言って、肩をすくめて笑う。
ミリアはその笑みを見て、ほんの一瞬まぶたを伏せた。
そして、意を決したように口を開く。
「でもその前に、やらなきゃいけないことがある」
短く息を整え、顔を上げた。
「リリィを迎えに行く」
リリィは今、城下町ルディナの外れにある隠れ家に身を潜めている。
だが彼女を迎えるには、街の中へ踏み込まなければならなかった。
巡回兵に加えて検問の可能性もある。国家反逆者とされた今、その一帯に入るのは危険すぎる。
日が傾き、空の端が朱に染まりはじめる。
街の手前、小高い丘の陰に身を潜めながら、一行は息を潜めて様子をうかがった。
見張りの兵は少ない。
だが街を囲むようにいくつもの検問所があり、それぞれに動きが見える。
「侵入ルートは、裏手の水路か、北側の旧搬入口……どちらも、リスクが高い」
シェラが地図を広げ、低い声で策を練っていると――
「私がなんとかする」
ソフィアがふいに立ち上がる。その瞬間、彼女の周囲の空気が揺れた。
淡い光がその身を包んだ、次の瞬間――
彼女の姿は、街に住む普通の女性へと変わっていた。
「人間の姿に……?」
ミリアの胸がわずかに高鳴る。
「それなら……リリィも、人間の姿に戻れる可能性があるの?」
期待を滲ませた問いに、ソフィアは静かに首を振る。
「違うわ。これは外から見える“幻影”。本質までは変えられないし、長くももたない。――せいぜい数時間かな」
ミリアは唇をかみ、視線を落とした。
それでも、この幻影を使えば街へ入れる。
「同行は二人まで。それ以上は目立つ。行くのは……団長とソフィアさんでいいですか?」
シェラの言葉に、ミリアはすぐうなずく。
幻影の時間制限がある以上、迅速な行動が求められる。
「最短ルートで行く。あの子を迎えに――」
夕暮れの街は、すでに薄暗さを帯びていた。
ミリアとソフィアは言葉を交わさず、狭い路地を抜けていく。
ソフィアの幻影魔法によって、ミリアの姿は小柄な旅商人へと変わっていた。
髪も顔も声も、普段の面影はどこにもない。
「あと一刻が限界よ。長くは保てない」
ソフィアの警告に、ミリアは短く頷く。
目的はただひとつ、隠れ家にいるリリィを迎えること。
必要なのは、そのためのわずかな時間だけ。
二人は人気のない裏道を通り、監視の目を避けながら進んでいく。
やがて、その先に古びた一軒家が見えてきた。
扉の前に立ち、ミリアはそっと手を伸ばす。
静かな音を立てて、一度だけノックした。
返事はない。
胸の奥で鼓動がひときわ強く跳ねる。
数拍の静寂のあと――中から、小さな声が返ってきた。
「……合言葉は?」
忘れるはずがない。
リリィとふたりで決めた、大切な秘密。
リリィの好きなものを込めた合図の言葉。
「月が隠れた夜には、星を数えるのが一番ね」
――カチャ。
鍵の外れる音がして、ミリアは静かに中へ足を踏み入れる。
扉を閉めた瞬間――
「おかえり! ミリア!」
姿はすっかり変わっているはずなのに、リリィは迷わず駆け寄ってきた。
勢いよく飛びつき、幻影の胸に顔をうずめる。
その様子を見たソフィアは、慌てて幻影を解除した。
たちまち、ミリア本来の姿が現れ――リリィをしっかりと抱きとめる。
「……リリィ、ごめん。遅くなって」
「ううん。でも……ちゃんと帰ってきてくれた……」
リリィの声はかすかに震えていた。
それは恐怖ではなく、張りつめていた孤独がようやくほどけたあとの安堵の揺れ。
「もう……戻ってこないかと思ったの。
食べ物も、あと少ししかなくて……このまま一人で、ここで死んじゃうのかなって……」
震える声に、ミリアはそっと寄り添い、髪をなでる。
「……バカなこと言わないの」
しばらく抱きしめ合ったあと、ソフィアが控えめに口を開いた。
「……感動の再会はここまで。そろそろ動くわよ」
「ええ、そうね」
ミリアはリリィの顔を見つめ直す。
「リリィ、この家を出るわ。少し旅になるけど……一緒に来てくれる?」
リリィは力強くうなずいた。
「うん。ミリアと一緒なら、どこでも大丈夫」
ミリアはその答えに静かに微笑む。
けれどリリィの姿は今や、ソフィアやイレーネと同じ――完全な魔人のものだった。
ソフィアが前に出て、手短に告げる。
「幻影をかけ直すわ。長くは保たないけど……ここを出たら路地を抜けて、東の丘の合流地点まであと半刻で行かないと」
ミリアはリリィに向き直り、声をかける。
「行こう、リリィ」
けれどリリィは、少しだけ顔を曇らせた。
「でも……私、こんな姿で外を歩いたら……」
その言葉に、ミリアの胸が締めつけられる。
「大丈夫。ソフィアが、リリィの姿を隠してくれる」
その声に応じて、ソフィアが静かに指先を掲げた。
空気が揺れ、淡い光が二人の体を包み込む。
数秒後――そこに立っていたのは、人間の少女の姿に戻った“リリィ”だった。
「すごい……!」
鏡に映る自分を見つめ、リリィの頬に自然と笑みが浮かぶ。
まるで何もかも忘れたかのような、無垢な笑顔。
ミリアの胸に、熱いものが込み上げた。
――そう。この笑顔だ。
私は、この子のこの笑顔を、ずっと守りたかった。
「行こう、今のうちに」
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