第43話 リリィとの合言葉
作戦室に、ページをめくる音と羽根ペンの走る音が交互に響いていた。
ミリアは分厚い資料を一枚ずつめくりながら、休むことなく目を走らせていく。
机の上には分類済みの書類が整然と並び、署名し、決裁し、照合する――その手つきはまるで機械のように正確だった。
「団長、最近……事務ばっかりで、お疲れじゃないですか?」
不意に背後から控えめな声。
振り返ると、フードを被った少女――シェラ・ノクトが立っていた。
《夜禍の牙》の狙撃手。任務において、彼女ほど信頼できる者はいない。
「まあね。最近、いろいろあったでしょ。事務作業ため込んじゃってたから。これくらいは片づけておかないとね」
ミリアは疲れた笑みを浮かべる。
シェラは躊躇いがちに続けた。
「そう言うと思いました。……でも、ユーグが心配してました。『最近の団長、顔が怖い』って」
「えっ、私そんなに?」
ミリアはようやく顔を上げた。
「らしいです。あっ、いえ、私は全然そんなこと思ってませんけど!」
シェラは慌てて手を振る。
そのおどおどした仕草に、ミリアはふっと力を抜き、羽根ペンを置いた。
「ここしばらく、作戦にも訓練にも出てないしね。少し様子を見に行ってくるわ。……顔、ほぐさないと」
「はい。そうしてください」
シェラの表情が、ほっとしたようにやわらいだ。
◇
訓練場の外れへ向かうと、草地の上で肩に剣を担ぐ男がひとり、片膝をついて呼吸を整えていた。
ユーグ・カラン。夜禍の牙で潜入と諜報を担う、裏方の要だ。
「団長……本物ですよね? 幻影じゃなければいいんですけど」
「幻覚じゃないわよ。本物です」
ミリアが歩み寄ると、ユーグは大げさに胸をなで下ろした。
「いやぁ、さすがに心配してたんですよ。姿見ないし、声も聞かないし、報告は全部他の人経由だし。そろそろ“闇の帳に消えた”って噂でも流そうかと」
「そんなこと言ってると、次の訓練で標的にするわよ」
「ひぃ、それだけは……っ!」
軽口を交わすうちに、ミリアの表情がやわらいでいく。
「……ありがとう。気にしてくれて」
「まぁ、仲間ですから。無理しすぎずに。皆も心配してましたよ」
その言葉に、ミリアは小さく頷いた。
――今日はもう、帰ろう。
そのまま訓練場を離れ、軍施設を後にした。
街の裏道を抜け、人気のない道を選びながら歩く。
整えられた街並みを外れ、傾斜地を越えた先――目立たぬよう改修された古い家がある。
いまでは、リリィと過ごすための小さな隠れ家だ。
扉を開けると、香ばしい匂いがふわりと鼻をくすぐった。
焼きたてのパンの香りに、やさしい野菜スープの湯気が混ざっている。
その香りを吸い込んだ瞬間、ミリアは肩の力がすっと抜けるのを感じた。
「おかえりなさいっ!」
奥の部屋から、リリィが勢いよく飛び出してくる。
「ただいま」
ミリアは自然と微笑み、装具を外して玄関に立てかけた。
ブーツを脱ぎながら振り返ると、リリィが両手を広げて待っている。
「今日はね、天気がよかったからカーテンちょっとだけ開けてみたの。でも外は見てないよ、影になってるところだけ」
「偉いわね」
頭を撫でると、リリィはくすぐったそうに身をよじる。
二人で小さな食卓を囲むと、リリィが得意げに料理の説明を始めた。
「スープ、焦がさなかったよ。パンはちょっとだけ焦げちゃったけど……うまく焼けた気がする!」
「うん、美味しそう。いただきます」
スプーンを口に運ぶ。
少し塩気が強い。でも、それもまたリリィらしい。
素朴で、懸命で、どこか懐かしい味だった。
ミリアの頬がゆるむのを見て、リリィが嬉しそうに笑う。
「ミリアは? 今日はお仕事、何してたの?」
「ずっと書類整理。報告書とにらめっこして、たまに首かしげて、ちょっと直して……そんな感じ」
「ミリアも困った顔するんだね! ……ちょっとだけ、見てみたかったかも」
何気ないやり取りに、ミリアの心がふっとほどけた。
「ねぇ、リリィ。少しの間、この家を空けることになるかも」
スプーンの動きが止まる。
リリィはすぐには返事をせず、スープをひと口すすってから、そっと視線を上げた。
「……どこか危ないところに行くの?」
「いいえ、ほんの数日。ちょっと確認しなきゃいけないことがあってね」
リリィは少しだけ考えて、こくんとうなずいた。
「わかった。じゃあ、ちゃんと帰ってきたときの“合言葉”決めよう?」
「合言葉?」
「うん、スパイとかが使うやつ! ほら、誰でも“お姉ちゃん”って言えちゃうから、本物かどうか見分けるための!」
ミリアは思わず吹き出しそうになった。
「リリィ、あなたって本当、抜け目ないわね……じゃあ、何がいいかしら?」
問いかけに、リリィはうーんと首を傾げて唇に指を当てた。
「合言葉って、どんなのがいいかな?」
「じゃあ……リリィの“好きなこと”から決めてみる?」
「好きなこと……?」
リリィは少し考え込み、椅子の上で両膝を抱えたまま、やがてぱっと顔を上げた。
「あっ、最近だとね、お外出てないから――夜に星、見てるんだ!」
「星を?」
「うん。寝る前に、窓から。月が出てないときって、お空が暗いでしょ? だからね、逆に他の星がすっごくきれいに見えるの。ちっちゃいのとか、たくさん」
ミリアはそっと微笑んだ。
「じゃあ、合言葉は……“月が隠れた夜には、星を数えるのが一番”――なんて、どうかしら?」
リリィの顔がぱっと明るくなる。
「それ、いいね! ……ちょっと秘密っぽくて、かっこいい!」
「じゃあ、決まりね」
「うん! ちゃんと覚えとく。“月が隠れた夜には、星を数えるのが一番”。忘れないようにしなくちゃ」
ミリアはくすっと笑いながら、リリィの額に指先を軽く当てた。
「ほんとに、ちゃんと覚えておいてよね?」
「えへへ、もちろん!」
少しだけ表情を崩し、ミリアは冗談めかして続ける。
「もしリリィが忘れたら……たとえ私が覚えてても、家に入れてもらえなくなっちゃうんだから」
「……あっ、それは困る!」
リリィは目を丸くしてから、ぷくっと頬をふくらませた。
「うーん、じゃあメモしとく? 玄関に“ミリアが帰ってきたときの合言葉!”って貼っておけば安心かも」
「そうね。お願いするわ」
二人の笑い声が、夜の空気に溶けていく。
雲に隠れた月の気配はまだ戻らない。
けれど――そのぶん、窓の外では、ちいさな星たちがいつもより瞬いていた。
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