第42話 過去を探る動機
朝の光が、小さな隠れ家の窓から静かに差し込んでいた。
古びた机の上には、軍の資料室から借りてきた文献が山のように積まれている。
すべて正式な許可を得て持ち出したものだが、その量はまるで小さな図書館を部屋ごと運び込んだようだった。
ミリアは一冊を手に取り、慎重にページをめくる。
魔族に関する記録、民間伝承、旧軍の報告書――
内容も分類もばらばらで、真偽の怪しいものまで混じっていた。
それらを一行ずつ確かめるように読み進めても、“確かなこと”はどこにもない。
並ぶのは「正体不明の存在」「異形の災厄」「災いを呼ぶもの」――そんな曖昧な言葉ばかり。
生態や起源について具体的なことは何一つはっきりしない。
ただ、どの文献にも共通しているのは「人と相容れぬ存在」という断定だけ。
理由も根拠もないまま、恐れと排除が書き連ねられている。
──これでは、何も分からない。
ミリアは小さく息を吐き、栞を挟んで本を閉じた。
積み上がった資料に目をやりながら椅子を引き、ゆっくりと立ち上がる。
「……ふう。今日は、ここまでにしとこう」
背後のベッドでは、リリィが穏やかな寝息を立てていた。
この小さな隠れ家には壁も仕切りもなく、机とベッドが向かい合っている。
日常と非日常が、同じ屋根の下で寄り添っている。
ミリアは足音を忍ばせ近づき、そっと寝顔をのぞき込む。
――まだ幼さの残る寝顔。
けれど、その身体には少しずつ“変化”の兆しが現れ始めていた。
首筋に浮かぶ灰紫の痣は、昨日よりも濃くなっているように見える。
耳の輪郭も、ほんのわずかに尖ってきている気がする。
じわじわと、確実に、変異は進んでいるように思えた。
不安ばかりが頭の中を埋め尽くしていく。
思考は、自然と悪い方向へと傾いていった。
「……リリィ」
ミリアはそっと手を伸ばし、額に触れる。
熱はない。うなされる気配も、痛みに耐える様子もない。
淡く浮かぶ痣に指を伸ばすと、自分のと変わらない温もり。
尖りかけた耳にもそっと触れてみる。柔らかく、やはり人のそれと変わらない。
変わっているのに、何も変わっていない。
その“異常のなさ”が、かえって恐ろしく感じられた。
リリィの身体の変化は、何が原因なのか?
──もしかして。
あの日、風詠みの丘で感じた“あのうねり”が引き金だったのではないか。
あの場所には、目で見えるほど濃密な魔素が渦巻いていた。
荒々しく、禍々しく、まるで世界の理そのものが歪んでいるかのような気配。
もし、あの魔素がリリィの身体に入り込んだのだとしたら……。
だとしたら、同じ場所にいた自分はなぜ無事だった?
「……リリィと、私は何が違うの?」
答えの出ない問いが、頭の中をぐるぐると巡る。
けれど、その渦の中でふと別の疑問が浮かんだ。
――そもそも、魔族はいつから存在するのだろう。
古い文献をいくら見返しても、最初期の記録には“魔族”らしき記述が見当たらない。
その起源は、一体どこにあるのだろうか。
分からないまま、疑念だけが胸の奥に沈んでいく。
それはやがて、“変異”という現象そのものへの探求心へと変わっていった。
知りたい。この現象の正体を。
そして、彼女を守る方法を。
ミリアが見守る中、リリィのまぶたがかすかに震えた。
次の瞬間、薄闇の中でその瞳がゆっくりと開く。
「……ミリア、まだ起きてたの?」
かすれた声。けれど、その奥には眠気と、少しの心配がにじんでいた。
「うん。もうそろそろ寝ようと思ってたところ。ごめんね、起こしちゃった?」
ミリアは柔らかく微笑み、そっとリリィの額に手を添える。
「ううん。だいじょうぶ……それより、ごめんね。心配かけちゃって」
その言葉に、ミリアは一瞬だけ息をのんだ。
こんなにも小さな子が、自分のことより私を気遣ってくれる――
その優しさが、痛いほど胸の奥に響く。
「……そんなことないよ。リリィが謝ることなんて、ひとつもない」
ミリアは穏やかに首を振った。
リリィは一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく笑う。
「でも……ミリア、すごく心配そうな顔してたから」
「えっ、そうかな……ごめん。逆に心配させちゃったね」
「ううん。ミリアと一緒なら、全然平気だよ」
リリィはそう言って、そっと布団の端をつまむ。
その小さな指先が、安心したようにシーツを握りしめていた。
「……ねえ、リリィ。当分の間は、ここで過ごしてもらうことになるけど、必ず外に連れ出してあげる。約束する」
リリィはしばらく黙っていたが、やがて目を上げて、はにかむように笑った。
「……うん。楽しみにしてる。また外に出て、みんなと遊びたいな」
「そうね」
ミリアは微笑み、リリィの髪を優しく撫でた。
「さあ、もう寝ましょう。……私も着替えてくるわ」
ミリアは微笑み、ランプの灯を少し落とす。
着替えて戻ってきたミリアはリリィの隣に横たわる。
まぶたを閉じた瞬間、記憶の底から、あの森での言葉がよみがえった。
『過去は、ちゃんと残ってるんだよ。人や場所、必ず、何かが覚えていてくれる』
――ヴェイルの森で、エレナが微笑んで言った言葉だ。
きっと、どこかに答えがある。
だから、諦めない。
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