第38話 風詠みの丘
――それは、いつもと変わらない朝の定時報告から始まった。
けれど、そのわずか数行の文面が、セイクリア軍上層部の空気を一変させることになる。
「境界付近の山地にて、魔族の集団行動を確認。
複数の斥候による一致した報告により、組織的侵攻の兆候と判断」
その一文を目にした瞬間、ミリア・カヴェルは手を止め、息を呑んだ。
記されていた地名は――ノルディア山地。
北部ルディナ郊外、風詠みの丘の外れに広がる緩衝地帯である。
魔族の気配がここまで迫ったのは、これまで一度もなかった。
同日午後、軍本部で緊急軍議が開かれる。
集まった将官たちの表情には、沈痛と緊張が入り混じっていた。
「……もはや防衛の範囲を超えている」
「抑止力の行使を、実行段階に移すべきだ」
軍技術局の准将が魔導投影装置を起動する。
空中に浮かび上がったのは漆黒の球体。その表面は精緻な構造体が幾重にも重なり、ゆっくりと回転していた。
『Arcane Atomic Device――略称AAD。
高濃度の魔素を限界まで圧縮し、その解放と同時に魔力へと変換する。
これにより爆発的な反応エネルギーを発生させ、広範囲の物質構造を崩壊させる。
地形そのものを改変する威力を持つ新型魔導兵器である』
その説明に、室内は凍りついたように静まり返る。
かねてより存在自体は周知されていた。
だが、その強大な兵器が“今”実戦で使われるという現実は、想像以上に重く場を圧した。
「――ここまでの兵器使用となると、王族への了承は得られているのですか?」
中央寄りの高官がやや躊躇いがちに問いかける。
それに対し、軍参謀の一人が淡々と答えた。
「事態が急を要するため、そこは事後報告とする。戦術判断としての正当性は確保されている」
わずかなざわめきが走るも、すぐにまた場は沈黙に包まれる。
「投下対象は、風詠みの丘外れのノルディア山地。
我が領域との接触点に最も近く、魔族の進軍経路とも一致している。これ以上の接近は許されない」
その名を聞いた瞬間、ミリアの胸がぎゅっと締めつけられた。
会議室の一角から、別の将校が声を上げる。
「風詠みの丘周辺の民間人はほとんど確認されていませんが、念のため近隣地区への立ち入りを全面的に制限すべきです」
異論は出ない。命令は粛々と実行へ移されていく。
ノルディア山地にこれほどの兵器を落とせば、隣接する風詠みの丘にも甚大な影響が及ぶのは避けられない。
ミリアは息を殺した。
風詠みの丘――リリィやユリウスと過ごした、かけがえのない思い出の地。
その風景が、いま消えようとしている。
「AADはすでに搬入段階にあります。魔素封印は安定。投下後の魔力放出域は、半径三キロと想定されています」
映し出された地図上に、赤い円がゆっくりと広がっていく。
その縁は、確かに風詠みの丘をかすめていた。
准将が一言、場を見渡して問う。
「投下に異議のある者は?」
誰も声を上げなかった。
誰も手を挙げない。誰も目を合わせない。
ミリアは、拳を膝の上で強く握りしめた。
そして、後方の席にいた情報部副官が告げる。
「本件、司令官殿の署名をもって即日承認となります。
実行時刻は明朝、十時。近隣区域は本日中に封鎖されます」
――明朝。あと十数時間。
軍議を終え、司令棟の廊下を歩くミリア。
北の窓からは暮れゆく空に遠い山並みが霞んで見える。そこに、風詠みの丘があった。
(明日の朝には、あの場所が変わってしまう)
爆心地ではないが、影響は避けられない。
最悪の場合、地形が変わり、丘そのものが地図から消えるかもしれない。
考えまいとしても、脳裏に浮かぶのは変わり果てた丘の姿ばかりだった。
そのとき、背後から足音が近づく。振り返ると、シェラが立っていた。
報告書を抱え、どこか気まずそうにミリアへ歩み寄る。
「例の件、準備は整いました。AADの起動装置は明朝、搬送される予定とのことです」
そう言いながらも、彼女の目はミリアの顔をうかがっていた。
「団長……あの丘、なくなっちゃうんでしょうか」
ミリアは、かすかに頷く。
「あなたも、リリィを連れて一度あの丘に行ったことがあったわね。
風車を手に駆けまわるリリィを、あなたが追いかけていて……」
「はい……リリィ、まだ小っちゃかったのに足だけはもう速くて」
「結局最後まで追いつけなかったのよね」
「そうでしたっけ?……でも、今となってはいい思い出です」
シェラの肩がわずかに揺れる。
それが笑いなのか、涙を堪えているのか、ミリアには分からなかった。
「命令には、従わなきゃいけない。でも……」
ミリアの声は、ひどく静かだった。
大切なものがこぼれ落ちていくのを、ただ見送るしかない。
そんな無力感が、胸を締めつけていく。
シェラは迷うように口を開きかけ、けれど言葉にはできなかった。
やがて、小さく言葉を絞り出す。
「明朝、私も同行します。最後に、ちゃんと……見ておきたいんです」
ミリアは、それには何も答えなかった。
ただ遠くを見つめたまま、静かに目を伏せる。
空が、ゆっくりと暮れていく。
風はまだ、吹いていた。けれどその風も、明日には――
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