第37話 信じたいもの
ミリア・カヴェルの謹慎解除は、驚くほどあっさりと伝えられた。
その日の朝、軍本部から一枚の通達が届く。
そこに記されていたのは――「指揮官として復帰を命ずる」の一文だけ。
理由欄には「戦線再編に伴う人員配置の見直し」とあるだけで、実質的な説明は何もない。
その紙切れ一枚で、彼女は再び前線へ戻ることになった。
久しぶりに浴びる外気が、まだ肌になじまない。
軍本部の廊下を歩く足取りも、どこかぎこちない。
その時、前方から人影が駆け寄ってきた。
灰色のフードを揺らし、軽やかな足取りで一直線に彼女へ向かってくる。
「――団長!」
その声を聞いた瞬間、ミリアはほっと息を吐いた。
安堵の気持ちに胸が広がる。
「……シェラ」
まるで、この瞬間をずっと待ちわびていたかのようだった。
シェラはほんの少しだけ視線を泳がせたが、すぐにいつもの冷静さを取り戻す。
「謹慎が解かれたと聞いて、迎えに来ました。何か必要なものがあればと思って」
「ありがとう。でも、今のところ大丈夫。あなたがいてくれるなら」
二人は自然に並び、廊下を歩き出す。
言葉は少なくとも、穏やかな空気が心地よかった。
「……シェラ。最近、どうだった?」
問いかける声は、迷うように少しだけ揺れていた。
シェラは瞬きを一つして、落ち着いた声で答える。
「特に変わりはありません。訓練と装備の整備、それと報告書の整理くらいです」
「……そっか。私がいなくても……大丈夫そうね」
冗談のつもりで言ったその言葉に、シェラはすぐきっぱりと言い返した。
「そんなことはありません!」
ミリアが驚いて視線を向けると、シェラは俯いたまま、しかし力強く続けた。
「……確かに、任務は回りました。でも――私には、団長がいないと“足りない”と感じる場面が、たくさんありました」
顔を上げたその瞳は、まっすぐだった。
「だから……戻ってくれて、嬉しいです」
その言葉に、胸の奥でずっと冷え固まっていたものが、ほんの少しだけ溶けていくのを感じた。
けれど――確認しなければならないことがある。
「……最近、魔族の拠点で何か動きがあった?」
問いかけに、シェラは一瞬だけ目を細めてから答えた。
「……ありました。フィネルの森で」
心臓が急に早鐘を打ち始める。
「……それ、詳しくは?」
「白陽の騎士団が制圧を行ったと聞いています。
私たち黒焔の部隊は関与していません。なので詳細は把握していませんが……静域の特性で魔法もスキルも封じられ、純粋な武力戦になったそうです。――詳しくは資料室に報告書が残っているはずです」
言葉を聞き終える前に、ミリアは足を止め、シェラの前に立った。
「……今まで、色々とごめんね」
小さく呟き、踵を返す。向かう先は資料室。
(フィネルの森……ヴェイル)
資料室は静まり返っていた。窓もなく、整然と並ぶのは報告書と記録文書ばかり。
そこには過去の事実が淡々と積み重なっている。
ミリアは「フィネルの森」の名を探し、目的の一冊を手に取る。
ページをめくる指先が、次第に冷えていくのを感じた。
――静域環境下では魔法・スキルの使用不可。通常戦術で対応。
――敵の戦力に組織性はなく、武装も不十分。制圧は短期間で完了。
――交戦により、魔族約二百名をその場で処刑。十七名を拘束し、情報収集のため軍中央へ移送。
――地形の複雑さと静域特性による探知不全により、一部逃亡者あり。捜索継続中。
文字が刃のように心に突き刺さる。
「……っ」
喉が詰まる。声にならない。
膝が震え、崩れ落ちそうになるのを、書架にすがって必死に堪えた。
殺された?
戦いを望まず、ただ森で生きていた者たちが。
兵器も持たず、抵抗の術もなく――
ただ、魔族と同じ血を持つという理由だけで。
肩が震え、息が乱れる。
胸の奥から、何かがこみ上げてきた。
――でも。
「一部逃亡者あり。捜索は継続中」
最後の一文に、ミリアはわずかに安堵した。
まだ、生きている者がいるかもしれない。
誰でもいい。一人でも多く生きていてほしい。
涙が頬を伝い、静かに落ちていった。
◇ ◇ ◇
夜風がひんやりと頬を撫でるなか、ミリアは孤児院の門をくぐった。
リリィに会いに来たのではない。
今の気持ちを、どうしても誰かに聞いてもらいたかった。
シスター・アビゲイル――リリィのことで相談に乗ってもらったことは何度もあったが、自分自身のことで足を運ぶのは初めてだった。
扉を開けると、聖堂の奥にあたたかな灯がともっていた。
静かな空気の中、ろうそくの小さな明かりがゆらゆらと揺れている。
「……ミリアさん、ご相談とは?」
気配に気づいたシスター・アビゲイルが振り返り、いつもの穏やかな笑みを浮かべて手近の席を勧めた。
ミリアは無言で椅子に腰を下ろし、深く息をつく。
胸の奥に溜まっていた思いが、自然とこぼれ出た。
「私……最近、魔族が人間の脅威だって言われることが、信じられなくなってきて……」
アビゲイルは黙ってうなずく。
その静けさに背を押されるように、ミリアはさらに言葉を続けた。
「以前、私が長いあいだ行方不明になっていたとき……実は、魔族――いや、魔人に助けられていました。その人たちの村で、手当てしてもらっていたんです」
「……はい。行方不明のことは、シェラから聞いています。そんなことがあったんですね」
アビゲイルはやさしく相槌を打つ。
「彼らは人間を警戒していたけど、それでも、ちゃんと対話をしてくれました。
私のことも受け入れてくれて……。なのに、私たちは、人間は、エレナを……その村を……」
そこで喉が詰まり、言葉が涙に変わりそうになる。
「……もう……やめたい」
長い沈黙のあと、アビゲイルが静かに口を開いた。
「……ミリアさん。間違ってもいいんですよ」
その声は柔らかく、けれど奥に揺るがぬ強さを秘めていた。
「正しいかどうか悩むことも、誰かを恨んでしまうことも、人として自然な感情です。
でも――それでも、自分が信じたいと思えるものを、信じ続けていいんです」
ミリアは顔を上げた。
アビゲイルのまなざしが、静かに彼女を受け止めてくれている。
「それは弱さではありません。痛みを知るからこそ、人に寄り添える。
あなたには、その強さがあると、私は思っています」
頬を伝う涙が一筋。
けれどもう、震えはなかった。
胸の奥に長くのしかかっていたものが、少しずつほどけていくのを感じる。
「……ありがとう、アビゲイル。やっぱり、あなたに相談してよかった」
「どういたしまして。またいつでも、お話にいらしてね」
その微笑みは、冬の終わりに差し込む春の陽だまりのようだった。
ミリアは立ち上がる。
外はまだ夜の帳に包まれていたが、その向こうに――確かに小さな光が差し始めているように思えた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、
ブックマークや感想で応援していただけると嬉しいです。泣いて喜びます。
もちろん「面白くなかった」などのご意見も大歓迎です!
しっかり次につなげるべく、泣きながら執筆します。
皆さまの感想が、何よりのモチベーションです。
それでは、次回もぜひよろしくお願いします!




