第32話 侵攻
ヴェイルの森外縁部。
灰色の霧が重たく垂れこめ、夜明けを迎えたはずの空はなお薄暗い。
冷気が肌を刺し、吐いた息は白く溶けて消えていった。
アーク・レネフィアは《白陽の騎士団》の先頭に立ち、無言のまま手綱を握っている。
副団長レオナ・バルトネスがすぐ背後に控え、列が乱れぬよう鋭い視線を巡らせていた。
「――全隊、前進。境界線を越える」
短く放たれた号令が霧の帳に低く響く。
湿った土を叩く蹄音が重なり、その鈍い響きが森の奥へと吸い込まれていった。
だが、それは境界を越えてすぐのこと。
「……おい、D.E.Aの反応が消えてるぞ」
「魔力の流れが……ない? どういうことだ」
最前列の兵士たちがざわめき、次々と困惑の声を上げる。
彼らが装備する動的エネルギー補正装置(D.E.Aユニット)。本来なら魔力を感知すれば灯るはずのランプが、一つ、また一つと消えていった。
「索敵装置も機能停止。探知範囲、ほとんどゼロです!」
報告にざわめきが広がり、緊張が列の端から端へと走る。
だが、その空気をアークの低い声が押しとどめた。
「落ち着け。魔素濃度が低い環境であることは、事前に知らされていたはずだ」
同時に、技術士官ヴァルドが前へ進み出る。
簡易測定器を地面へ突き立て、表示された数値に目を落とした瞬間、表情が険しさを増した。
彼はそのまま駆け戻り、アークの前に立った。
「報告! 魔素濃度、通常の百分の一以下。D.E.Aは完全停止。この森では魔法の行使そのものが不可能です」
重苦しい沈黙が広がる。
アークはわずかに目を細め、霧に覆われた森の奥を見据えた。
「……これが“静域”――これほどとは」
静域――事前に知らされてはいた。だが、実際に直面すると、その意味の重さを嫌でも思い知らされる。
アークは目の前の現実に覚悟を固めた。
その時、レオナが鋭く声を張り上げる。
「落ち着け! D.E.Aの使用を中止。これより目視で進行する。全隊、陣形を崩すな!」
冷静で的確な指示だった。感情に流されることなく、部隊の統制を保つ副団長の声に、兵たちのざわめきが収まっていく。
アークはその背中を見送りながら、手綱を強く握り直した。
(この状況で戦闘になればどうなる……)
視界は遮られ、魔力は封じられ、武装は無力化している。頼れるのは鍛え上げた肉体と剣技だけ。
それでも――命令は揺らがない。前進あるのみ。
「命令は変わらん。目標は魔族拠点の制圧だ。地形がどうあろうと進め」
低く響いた団長の声に、兵たちが一斉に応じる。
アークは馬の腹を軽く蹴り、《白陽の騎士団》は沈黙の森の奥深くへと歩みを進めた。
進むほど霧は濃くなり、視界を奪っていく。
頼りになるのは足音と気配だけ。五感を研ぎ澄ませての行軍は、兵たちの神経を容赦なく削っていった。
だが、やがて白い帳がわずかに晴れ、開けた空間が広がる。
そこに現れたのは――簡素な木造の小屋が肩を寄せ合うように並ぶ集落だった。
「団長、前方に集落を確認!」
報告にアークは手綱を引き、霧の向こうへ目を凝らす。
見えるのは暮らしの痕跡だけ。防衛拠点を思わせる施設はどこにもない。
「ここは……防衛拠点ではありません。ただの居住地です」
後方から副団長レオナが冷静に断定する。
「魔族の拠点ではないのか……?」
アークの声には困惑が滲んだ。
その時、霧の中を駆け抜ける影。
「人影、発見!」
緊迫した声に兵たちの緊張が一気に高まる。
だが現れたのは、剣を振るう敵ではなかった。
子どもを抱えて逃げる女。
足の不自由な老人を背負い必死に走る若者。
互いに手を取り合い、霧の奥へと消えていく家族の姿。
誰一人として武器を持たず、ただ生き延びようと必死に逃げ惑うだけだった。
アークは思わず手綱を引き、馬を止める。
(ここの者たちは兵士ではない。……これでは戦いにすらならない。ただの虐殺だ)
込み上げる迷いを、彼は視線を落として必死に抑え込んだ。
その様子を一瞥したレオナは、感情を挟まず即座に命じる。
「全隊、区域制圧行動に移行!」
その声は、曇りのない冷徹さを帯びていた。
「逃走者は即時拘束。ただし、抵抗・妨害・逃走継続の対象はその場で処刑せよ! 命令は徹底すること!」
その号令とともに、《白陽の騎士団》は一斉に動き出した。
叫び声が霧の中で弾け、すぐにかき消える。
逃げ惑う者たちは次々と拘束され、なおも逃げ続ける者、必死に抗う者は容赦なく斬り伏せられていく。
濡れた土に混じる血の匂いが、風のない森にじわじわと広がった。
アークは、ただそれを見つめるしかなかった。
目の前で繰り広げられているのは、命令通りの行動にほかならない。部下たちは一切の迷いもなく、それを実行している。
アークは強く手綱を握り直し、目を閉じる。
(……これは、正義か?)
答えのない問いは、霧の中へ溶けて消えた。
やがて夜明けの光が森の奥へ差し込む。
だがヴェイルの森は沈黙したまま。そこにあった生活は奪われ、残されたのは無惨な痕跡だけだった。
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