第30話 感情の衝突
霧が深く立ちこめるヴェイルの森。
枝葉の隙間から差すはずの陽光さえ白く濁り、森全体が重苦しい気配に沈んでいた。
その暗い緑をかき分け、ひとり進む影がある。
ミリア・カヴェル。
騎士団の軍装を脱ぎ捨て、黒の外套を纏った彼女は、泥に足を取られながらも奥へと歩を進めていた。裾は露に濡れ、靴は重たく沈む。それでも足取りが乱れることはない。
胸元の内ポケットには、一枚の紙片。
セイクリアで拾った処刑告知書の断片――破かれ、踏みにじられていたが、彼女が唯一手にできた証だった。
そこに刻まれていた名は、エレナ。
指先で紙片をなぞり、ミリアはそっと目を閉じる。
(……伝えなければ)
あの日、自らの目で見届けた光景。
最後の瞬間まで、エレナは空を見上げて微笑んでいた。
それがどれほど痛ましく、そしてどれほど強い意志だったのか。
森の奥へ進むにつれて、空気は張り詰めていく。
葉擦れの音すら遠のき、まるで森そのものが彼女を拒んでいるかのようだった。
しばらくして、ミリアは周囲の気配に変化を覚え、歩みを緩めた。
木々の陰から突き刺さる幾重もの視線。
かつては温もりを帯びていた眼差しが、今は冷たい刃のように拒絶を告げていた。
それでも、ミリアは歩みを止めなかった。
やがて、集落の門が見えてくる。
そこには、かつて怪我を負った自分を介抱してくれた魔人たちの姿があった。
しかし彼らは、ミリアに気付いても顔を向けない。
言葉もなく、静かに背を向けて奥へと消えていく。
温もりを知る相手であるほど、その冷ややかさは胸に刺さった。
――聞こえるのは、自分の足音だけ。
門が目前に迫ったとき、一人の魔人が行く手を遮った。
まだ若い男。その赤い瞳は憎しみと怒りに染まり、真っ直ぐにミリアを睨み据えていた。
「何をしに来た」
冷たい声に、ミリアの足が止まる。
胸の奥で凍りつくような感覚を押し殺し、彼女はかすれた声を絞り出した。
「エレナのこと、伝えに――」
その言葉を最後まで告げる前に、青年の怒声が叩きつけられた。
「エレナは……お前のせいで死んだ!」
鋭い刃のような言葉が、胸を抉る。
すでに知られていた。それでも、自分の言葉で伝えたかった。
(……お前のせいで死んだ)
その言葉が頭の中で何度も繰り返され、心を締め上げていく。
返す言葉を探したけれど、喉の奥に何かが詰まったように声は出ない。
「違う」と言えなかった。
心の奥で否応なく渦巻く思い。
そうかもしれない、と。
もし、あのとき。エレナの言葉をもっと真剣に受け止めていたなら。
「……いつか叶うよ」などと軽く返さず、真正面から向き合っていたなら。
後悔は鋭い棘となり、胸の奥深くへ突き刺さっていた。
青年はもう一度、吐き捨てるように言う。
「……帰れ。ここはもう、お前が踏み入る場所じゃない」
その言葉に、ミリアはゆっくりと後ずさった。
一歩。また一歩。
足元が崩れ落ちるようで、思わず足がすくむ。
背を向けた瞬間、熱いものが頬を伝った。
けれど、拭うこともせず、彼女は森を後にする。
伝えることさえ許されなかった。
その事実が、胸を締め付けるほどに苦しかった。
◇ ◇ ◇
翌朝。まだ陽が昇りきらぬ薄明の中、集落中央の小屋に魔女たちが集められていた。
議題は、エレナのこと。そして、これからどうすべきか。
集まりはしたものの、重苦しい沈黙が続いていた。
炉の火がぱちりと弾け、かすかに空気を揺らす。時の流れがやけに長く感じられた。
その静寂を破ったのは、ソフィアだった。
椅子に深く身を沈め、片肘をついたまま。苛立ちを隠そうともせずに吐き捨てる。
「言ったでしょ。人間なんて信じるから、こうなるのよ」
鋭い声が、場を切り裂いた。
マリスは顔を上げ、真っ直ぐにソフィアを見据える。
「エレナは、自分の意思で選んだんだよ。その想いまで否定しないで」
「でも、死んじゃったら意味ないよ」
ソフィアは顔を歪め、強く言い返す。
「結果がすべて。想いなんて……所詮、綺麗事にすぎないでしょ」
その言葉に、マリスは俯いたまま拳を握りしめた。
「……もっと、強く止めていれば……」
自分に言い聞かせるような小さな声。後悔の色を滲ませていた。
イレーネは窓の外に視線を向けたまま、わずかに唇を噛み、吐き出すように言った。
「時間は戻せない……戻らないものを、悔やんでも仕方ない」
セリナは何も言わなかった。
記録板を前にしてもペンを走らせず、揺れる炉の火をじっと見つめていた。
重い空気が続き、誰かがようやく声を絞り出す。
「……ミリアは――」
その名が出かけた瞬間、マリスが強い口調でその言葉を遮る。
「その名前を出さないで」
怒気を孕んだ声に、小屋の空気は一瞬で凍りつく。
誰もそれ以上の言葉を続けられなかった。
長い沈黙の末、会議は打ち切られた。
誰ひとり答えを見いだせず、胸の奥にわだかまりを残したまま、魔女たちはそれぞれ小屋を後にする。
外へ出ると、朝の光が森を淡く染め始めていた。
けれど、その光はどこか冷たく、胸に沈む重苦しさを晴らすには、あまりに頼りなかった。
そして、誰もが知っていた。
エレナの死は、ただ命がひとつ失われたというだけではない。
積み上げてきた平穏が音を立てて崩れた瞬間。
――もう、誰にも取り戻せなかった。
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