第22話 夜明け前の決意
夜が深まるにつれ、森はますます息をひそめるように静まり返っていった。
エレナは小さな焚き火の跡に背を預け、星ひとつ見えない空を仰ぐ。重たい雲が垂れ込み、月の光さえ届かない。
会議のあと、彼女は誰とも言葉を交わせなかった。
長老の諫めも、ソフィアの非難も、マリスの戸惑いも――すべて耳に焼きついたまま離れない。
――森を出る。
ただそれだけの決意なのに、どうしてこんなにも重く、遠く感じるのだろう。
言葉にした瞬間、世界の色が変わってしまった気がした。
「……どうして、こんなに苦しいの」
膝を抱き寄せ、かすれた声でつぶやく。
遠くでフクロウが鳴いていた。夜の森はいつも通り静かだ。
なのに、自分だけが別の世界に取り残されているように思えてならない。
そっと目を閉じる。
浮かんでくるのは、彼女と交わした数々の言葉。
――ミリアが語ってくれた外の世界。
王都の街は石畳がどこまでも続き、人々の声と熱気であふれているという。
市には色とりどりの果物や布が並び、香辛料の匂いが風に乗って漂う。
夜になっても灯りは消えず、眠らない通りには歌や笑い声が絶えないのだと。
ただ思い浮かべるだけで、胸の奥がざわめく。
見たことのない景色、聞いたことのない音、感じたことのない空気。
そのすべてに、手を伸ばしたくなる衝動が身体の奥から込み上げてきた。
「……知らないものを、知りたい」
それはずっと昔から、自分の中にあった想いだった。
けれど、この森では決して口にできない感情。
外に出た者は戻らない。
未知への憧れは、危険と無謀の象徴。
だから皆は目を逸らし、最初から知ろうとすらしなかった。
だがもう、目を逸らすことはできなかった。
あの夜に聞いた風景のひとつひとつが、今でも鮮やかによみがえる。
見たことのないはずの場所なのに、まるで昔から知っているかのように鮮明に記憶されている。
長く息を吐き、エレナは立ち上がった。
夜風に冷えた肩を抱え、足音を忍ばせながら寝床のある小屋へと戻っていく。
小屋の中は静まり返り、微かな寝息が夜の闇をかすかに揺らしていた。
「……ただいま」
誰にも届かないほど小さな声で呟き、そっと扉を閉める。
そして明かりを灯さぬまま、棚の引き出しに手を伸ばした。
持ち出せるものはわずか。
手作りの布袋に薬草を詰めた小瓶、干し果実、水筒を入れていく。
包み終えたところで、指先がふと止まった。
棚の奥――忘れられたように置かれた小箱。
蓋を開けると、淡い布に包まれた一本の銀の針が姿を見せた。
「……これ、まだあったんだ」
ミリアに髪を結ってもらったとき、彼女が無造作に使っていた針。
魔力を帯びるわけでもない、ただの道具。
でも、それが不思議と心を落ち着かせた。
それを布袋に忍ばせ、肩にかける。
「よし……」
小さく声に出し、気合を入れると、足音を忍ばせて外へ出た。
森は深い眠りに落ちている。
星の見えない空、風もなく、葉擦れの音すらしない。
けれどその沈黙の中に、エレナはかすかな期待を感じていた。
集落の入り口に差しかかり、ふと振り返る。
小さな屋根、小さな灯り、そして小さな命の営み。
ここで過ごした時間を思い出すたびに、胸の奥がじんと痛む。
けれど、それ以上に外の世界への憧れがエレナを突き動かしていた。
ミリアが語ってくれた王国の街、戦場、広がる大地。
この森とはまるで違う世界。危険も争いもある――それでも知りたいと思った。
ミリアが見てきたものを、自分の足で確かめたい。
どんな景色が広がり、どんな声が飛び交っているのか――この目と、この肌で感じてみたい。
「……今まで、ありがとう」
小さな呟きは夜風にさらわれ、届く先もなく消えていく。
けれど確かに、その言葉が自分の背を押していた。
足元を濡らす朝露は冷たい。
それでも、足取りは軽く、歩みは止まらない。
一歩、二歩。森の外へと続く道を踏み出す。
不意に、背後で枯れ枝を踏む音がした。
振り返ると、誰もいない。気のせいかもしれない。
それでも、誰かが自分の背中を見つめている気がした。
耳の奥に残る、マリスの声。
――エレナ、お願い。行かないで。
思い出した瞬間、エレナは小さく首を振った。
「ごめんね。でも、私は……」
言葉を胸にしまい、再び前を向く。
夜明けはまだ遠い。
それでも、胸の奥には小さな灯が確かにともっていた。
「……行ってきます」
森の境を越えた瞬間、エレナの旅は始まった。
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