第20話 日常にできたら
城下町ルディナ。
石畳の通りには、朝の喧騒が戻っていた。
冬の陽に照らされ、行き交う人々の吐く白い息が空へと揺れ、鐘の音が朝市の始まりを告げる。
荷車の車輪が軋み、工房からは油と蒸気の匂いが流れ、パン屋の窓からは焼きたての甘い香りが漂っていた。――街は今日も変わらぬ朝を迎えている。
その中を、ミリアは黙って歩いていた。
片手には外した手袋。腰には、いつもの剣はない。
やがて大通りを外れ、脇道へ折れる。
短い坂を上りきった先、喧騒が遠ざかり、静けさが広がった。
そこにある、見慣れた門。
小さな孤児院の前で、ミリアは足を止める。
リリィと顔を合わせるのは、本当に久しぶりだった。
平静を装っていたものの、胸の奥は落ち着かない。
喜んでくれるだろうか。……それとも少しは怒っているだろうか。
そんな想いが、さざ波のように胸を揺らしていた。
扉の前に立ち、指先をそっと木扉に添える。
一呼吸、胸の奥で小さく息を整えて。
「……ただいま」
扉が軋む音を立てて開いた。次の瞬間――
「ミリアっ!」
小さな影が勢いよく飛び込んできた。
その衝撃に身体がわずかに揺れる。
「もう戻ってこないのかと思ったんだから!」
涙混じりの声に、ミリアの頬がふっと緩む。
「たまには顔を見せないと、リリィに怒られると思ってね」
リリィは頬をふくらませたまま、ミリアの腰にぎゅっと抱きつく。
小さな手の力は驚くほど強くて、離れようとしない。
「……ほんとに、戻ってきてくれて……よかった」
潤んだ瞳には、安心と嬉しさと、少しの甘えが混じっていた。
「今日は……たくさん遊んでくれるんだよね?」
「……できる限り、善処します」
「またそういう言い方するー!」
むくれる声に、ミリアは苦笑しながら頭をそっと撫でた。
そのまま手を引かれるように建物へ入ると、室内には甘い焼き菓子の香りがふわりと漂っていた。
木の床を踏む足音さえやわらかく響き、外の寒さとは別世界だ。
二人は窓際の小さな丸テーブルに並んで腰を下ろす。
焼きたてのクッキーを分け合い、温かなミルクをすすりながら、ゆるやかな時間が流れていった。
「なんか雪降りそうなくらい寒いね」
「そうね……外に出たら、耳が痛くなるわよ」
「そういうときって、雪がいっぱい積もるんだよね」
リリィは両手でカップを包み込み、ぱっと顔を輝かせた。
「ねぇ、前にさ、雪がいっぱい積もったとき……覚えてる?」
「……ええ。リリィが『雪だるま作る!』って張り切ってたわよね」
「そうそう! でも、ミリアが剣で真っ二つにしちゃったんだよね。あれは絶対やりすぎだよ!」
「……あれは形を整えようとしたら、こっちに崩れてきたの。不可抗力よ」
「どう考えてもミリアのせいでしょ、それ」
「倒れた先がリリィじゃなくてよかったわ」
「まったくもう……それで済んだと思ってるのがすごいよね。顔つくるの苦労したんだからね!」
「次はちゃんと作るってば。許してよ、もう」
「じゃあ、約束だよ! 今度、雪が積もったら最後までちゃんと作ってね」
からかうように笑いながら、リリィはミリアの隣にぴたりと寄り添う。
その様子を見て、向かいで紅茶を口にしていたシスターは、そっと席を立つ。
足音を忍ばせるように部屋を後にした。――そのさりげない気遣いが、今のミリアには何よりありがたかった。
陽射しが少し傾きはじめた頃、ふたりは中庭のベンチに並んで腰掛けていた。
戦場では決して味わえない、穏やかな時間。
けれどリリィにとっては、これがごく当たり前の日常なのだろう。
ミリアはそう思いながら、そっと横顔に目を向ける。
リリィの手の中には、一羽の折り紙の鳥。
小さな指先でくるくると回し、ときおり目を細めては、その形を確かめるように見つめていた。
「ねえ、ミリア」
「ん?」
「ずっと、ここにいてくれたらいいのに」
不意に放たれた言葉に、ミリアは息を呑んだ。
胸の奥を、柔らかく、それでいて切なく締めつけられるような感覚。
「リリィ……」
何か言おうとした。けれど、言葉は喉の奥で絡まり、声にならなかった。
リリィはにこっと笑う。
けれど、それはほんの少しだけ、ごまかすような笑顔だった。
「ごめん、なんでもないよ。へーき、へーき!」
明るい声。いつもの調子。
けれどそこには少しだけ無理が混じっていた。
小さな手はさっきよりも冷たく、言葉を終えたあと、視線がふと揺れる。
きっとリリィは、私を困らせたくなかったのだろう――そう思えた。
「……大丈夫?」
問いかけそうになった声は喉の奥で止まり、最後まで形にならなかった。
代わりに、ミリアはそっと手を伸ばし、リリィの手を包み込む。
細くて、小さくて、ほんのり冷たいその手を――決して離さないように。
「……また、すぐ来るよ」
短い言葉。けれど、それが今のミリアに言える精一杯だった。
立ち上がるミリアに、リリィはいつものように笑顔で手を振る。
明るく、いつも通りの笑顔で。
孤児院の門を出た瞬間、街のざわめきが押し寄せてくる。
冷たい冬の風の中で、ミリアはふと願う。
――こんなふうに過ごせる日々が、いつか私にとっての日常になりますように。
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