第19話 沈黙の選択
ミリアが森を去って、数日が経った。
朝の光が木々の隙間から差し込み、景色をやさしく染める。
けれど、見慣れたはずの風景には、ぽっかりと穴が空いたように感じられた。
エレナは台所の片隅で一人分だけ食事を用意し、湯気を立てる器を手に木陰の卓へと向かう。
「……うん、これでいいかな」
小さく呟き、腰を下ろす。
向かいの席は空いたまま。風が抜け、湯気がゆらゆらと揺れていた。
元に戻っただけの朝――それなのに、少しだけ寂しい。
森の外。
以前はただ怖い場所だとしか思っていなかった。
けれど、ミリアと過ごした時間や交わした言葉が、そこに広がる世界を「知りたい」という気持ちへ変えてしまった。
「わたしも、行ってみたいな……どんな感じなんだろう」
◇
その日の午後。
薬草庫の前で、エレナはマリスに声をかけた。木漏れ日がゆらめく中、マリスは黙々と手を動かしている。
「マリス、ちょっといい?」
呼びかけに、マリスは手を止めて顔を上げた。
「なに?」
「ねえ……森の外の世界って、どんな感じだと思う?」
唐突な問いに、マリスは小さく首をかしげる。
「……さあ。行ったことないから分からない」
「だよね。でもさ、ちょっとは気にならない? 街とか、人の暮らしとか」
エレナは身を乗り出すように言葉を重ねた。
マリスは短く息を吐き、肩をすくめる。
「別に気にならないかな……森の中で困ってないし」
「そうだね……でも最近、わたしね。外の世界に行ってみたいなって、よく思うの」
マリスは眉を寄せたが、すぐには返事をしなかった。
エレナは胸の前で小さく拳を握りしめ、続ける。
「怖くないわけじゃないよ。でも、ミリアが話してくれた街のこととか、人の暮らしとか……聞いてたら、行ってみたくなっちゃった」
マリスは少しだけ目を伏せ、ゆっくりと口を開く。
「あの人は怪我をしてたから仕方なくここにいた。治療を受けてたから、少し優しかっただけかもしれないんだよ?」
「ううん、違うよ。ミリアは……わたしたちのことを、ちゃんと知ろうとしてくれてた」
マリスは薬草の葉を一枚、指先で丁寧に摘み取る。
「でも、あの人が特別だっただけかもしれない。一人の優しさを、全部に当てはめちゃだめ。……期待しすぎると、きっと傷つくよ」
それでも、とエレナは息を吸い込む。
「全部が敵じゃないって、自分で確かめたいの。だから――行ってみたいって思う」
少しの沈黙のあと、マリスは目を細めた。
「……その気持ちを否定はしない。でも、森の外が正しい場所だとは私には思えない。あなたは分かってるんでしょ?」
「うん。ありがとう、マリス。でも……わたし、ちゃんと考えるね」
ふっと目をそらしながら、マリスは小さくうなずいた。
エレナは「じゃあ、また」と言って背を向ける。二、三歩ほど歩いてから、思い出したように振り返り、にっと笑った。
「……あっ、そうそう。みんなには私から言うから、絶対内緒だよ!」
その軽やかな声は、「ちゃんと考える」と言っていたはずの彼女が、もうすでに気持ちを固めているように聞こえた。
◇ ◇ ◇
数日後――
王国軍によるミリアの捜索は、いよいよ打ち切りが検討され始めていた。
アークは自ら捜索隊を率い、斥候や哨戒班を山の各所に展開させていたが、明確な痕跡はひとつも見つからない。報告のたび、現場には諦めの色が濃くなっていく。
「……これだけ探しても痕跡がない以上、これ以上の捜索は無駄かと」
部下の言葉に、アークの表情は動かない。
ただ握る拳の指先が、かすかに震えていた。
これ以上は兵を消耗させるだけ――
(……潮時か)
胸の奥で、苦く呟いた。
そのとき――
「人影だ!」
岩場の上から叫び声が響く。
アークが振り返ると、部下の指差す先――夕暮れの逆光の中を、ひとりの影がふらつく足取りで歩いていた。
髪は乱れ、傷んだ装備は泥にまみれている。
肩で荒く息をつきながらも、なお前へ進もうとしていた。
アークは息を呑み、思わず声を張る。
「……ミリア!」
駆け寄る声に、ミリアは足を止めた。
顔を上げ、その瞳をアークに向ける。かすかに揺れながらも、それでも真っ直ぐに見据えていた。
「どこにいた? 無事なのか?」
その声には、安堵と疑念が入り混じっていた。
ミリアは眉をほんのわずか動かしただけで、短く答える。
「大丈夫だ」
それだけだった。
どうやって生き延び、何があり、誰に助けられたのか――
そのすべての問いに、ミリアは答えなかった。
アークがさらに詰め寄ろうとしたとき、ミリアは足元の泥に視線を落とす。
――何も語らない。
語れば、どんな結果が待つのか想像に難くない。
ミリアの中で、「魔族=脅威」という固定観念は、わずかに揺らぎ始めていた。
すべてを信じるには早すぎる。けれど、否定しきることもできない。
その沈黙は、疑念を残すことになったが、それが彼女の選択だった。
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