第1話 黒衣と草冠
朝の光は、まだ柔らかく、城下町ルディナの石畳を淡く照らしていた。
空気には夜の名残がわずかに残り、朝靄が屋根の上をゆるやかに流れていく。通りの角に立つ照明塔は、名残惜しげに淡い灯りを揺らめかせ、やがて陽光に溶けて消えた。
市場が目覚めるには早すぎる時刻。
静けさの中、小さな孤児院の前庭では、少女の笑い声が風に乗って舞い上がっていた。その音は、眠りから覚めたばかりの街並みに、やわらかな彩りを落としていく。
その傍らに立つのは、一人の女騎士――ミリア・カヴェル。
《夜禍の牙》の団長にして、アストラニア王国軍の最前線を預かる存在だ。重厚な黒マントが朝日に淡く縁取られ、伸びやかな背筋と静かな気配が、場の空気を自然と引き締める。
隣にいるのは、あどけなさを残す小柄な少女――リリィ。
泥の付いた膝も構わず草を摘み、その手を止めない。年齢に似合わぬ落ち着きを宿した瞳は、まっすぐ前を見ている。彼女は、かつての戦友ユリウスの妹であり、今ではミリアにとって家族同然の存在だった。
「また草まみれになってるわよ、リリィ」
苦笑まじりに声をかけると、リリィは小さな両手で草冠を掲げる。
「はいっ、ミリアも! これは騎士様じゃなくて、森の王女様の冠だから!」
その無邪気さに、ミリアの口元がわずかにほころんだ。
「……森の王女様、ね。光栄だわ」
受け取った草冠には朝露が宿り、冷たさと湿り気が指先に伝わる。
その感触が、遠い記憶を呼び起こし、一瞬だけ彼女の笑みを翳らせた。
「ねえ、歩こうか。今日は天気がいいし、久しぶりに丘まで行こう」
「うんっ!」
二人は並んで北へと歩を進める。
孤児院の門を出る際、シスター・アビゲイルが「お気をつけてくださいね」と声をかけた。
リリィは元気よく手を振り、ミリアも軽く会釈を返す。
街の境界を越えると、道はやがて緩やかな丘へと続く。
馬で一時間ほど先には、「風詠みの丘」と呼ばれる高地が広がっている。
そこでは風が草原を撫で、葉を揺らし、遠くの山並みには霞がたなびく。
空と地平はゆるやかに溶け合い、時間の感覚を奪うほど穏やかな景色が広がっていた。丘の中腹には石積みの家の残骸が残され、かつてこの地に人々の暮らしがあったことを静かに物語っている。
丘のふもとに差し掛かった頃、リリィは摘んだ花を編みながら歩き、ふと強い風にあおられて花冠が転がっていった。
転がる先を追って駆ける小さな背を、ミリアは少し離れた場所から目で追う。
「ほら、言ったでしょう。風が強いって」
「でも取ってきたよ!」
得意げに冠を掲げる姿に、ミリアは肩をすくめた。
かつては子どもたちの遊び場だったこの丘も、戦火の影が近づくにつれ人影は途絶えた。
丘の外れの山地が緩衝地帯となってからは、訪れる者はほとんどいない。
それでも、近くにはユリウスとリリィの祖母が暮らしていた家があり、二人にとっては幼い頃からの思い出の場所だった。ミリアも折に触れ、リリィを連れてここを訪れる。
リリィはユリウスとこの草原を駆け回り、誕生日や祝い事にはミリアも加わった。
笑いながら転げ回る日々は、今も風の中にそっと息づいている。
「……あの頃、楽しかったね」
「そうね。リリィはいつも転んで、ユリウスが慌ててた」
「ミリアは怒ってばっかりだったよ」
「無茶ばっかりするんだもの」
笑い声が風に乗って高く舞い上がる。青い空が、それをやわらかく包み込む。
「でも、あの頃から変わらないね。ミリアは――いつも頑張ってる顔してる」
まっすぐな視線に、ミリアは目を細めた。
「……そうかしら。ありがとう」
その視線の先には、これから向かう戦場がある。
「ちゃんと、帰ってきてね」
その言葉は胸の奥に深く沈み、微笑みの裏で瞳がわずかに揺れた。
「……ええ、必ず。リリィのもとに帰ってくる」
彼女が剣を向けるのは、魔族――人の集落を襲い、多くの命を奪ってきた存在。
異なる力と姿を持つ彼らは、王国にとって災厄の象徴だった。
各地の傷跡が、今もその記憶を消さぬよう人々の心に刻まれ続けている。
人にとって魔族とは、共存を許されぬ、討つべき敵なのだ。
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