第13話 異質なる森で
濃い霧が森を覆っていた。
視界は数歩先すら霞み、空と地の境目さえ曖昧に溶けている。
湿った地面を踏みしめ、数人の影が進んでいた。
獣道をなぞり、濡れた葉を踏み、絡みつく枝を払いながら。
衣服は森に馴染む色合いで揃えられ、動きに無駄はない。
誰も声を発しない。
ただ耳と目だけを研ぎ澄まし、霧の中に潜む気配を探っていた。
――そして、先頭の男が不意に足を止める。
視線の先。霧の帳の向こうに、泥濘へ倒れ伏す人影があった。
軍装は泥と血に汚れ、剣を背負ったまま顔を伏せている。
だが、かすかに上下する胸が――霧越しにでも、生きていることを告げていた。
短い視線の交錯。
合図だけで状況は伝わる。
一人が歩み寄り、呼吸を確かめ、慎重に抱き上げた。
低く抑えた声が漏れる。
「……外からの者だ」
霧はいっそう濃く、空気は重く沈む。
見捨てるべきか、助けるべきか――。
男たちは短く言葉を交わし、やがて決断を下した。
四人がかりで女を担ぎ上げ、二人が腕を、二人が足を取ってしっかりと支える。
湿った地面に足を取られないように、一歩一歩、森の奥へと消えていった。
◇ ◇ ◇
どこかで木がきしむ音がした。
その微かな気配に、ミリアはうっすらと目を開ける。
視界はまだぼやけ、板張りの天井が揺れて見えた。
喉は乾き、全身に鈍い痛みが広がる。
無理に動かそうとすれば、筋肉が軋むように悲鳴を上げる。
小さく息を吐き、抗うのを諦めた。
それでも呼吸は続き、胸の奥で鼓動が脈打っている。
――生きている。
朦朧とした意識の中で、ミリアはただそれだけを実感していた。
背中には固いが温もりを帯びた寝具の感触。
身体には粗い布の包帯。
着ているものは見知らぬ服で、軍装ではない。
周囲に人の気配はない。
耳を澄ませば、窓の外から鳥のさえずり。
遠くで水の流れる音もかすかに届く。
小さな木造の家。
壁も天井も加工の少ない木材で、素朴だが丁寧に手入れされている気配がある。
――知らない場所。
敵地ではない。だが、安らげるわけでもない。
考えをまとめる間もなく、意識はまた薄れていく。
身体はなお回復を求め、深い眠りへと沈んでいった。
◇ ◇ ◇
次に目を覚ましたとき、室内の空気がわずかに変わっていた。
重い身体を動かすと、すぐそばに気配を感じる。
衣擦れの音。静かな呼吸。
ミリアはゆっくりと視線を巡らせた。
焦点はまだ合わない。
それでも、隣に誰かがいることだけはわかる。
椅子に腰かけ、じっとこちらを見つめる影。
ぼやけた視界の中、銀色の髪が揺れていた。
強い圧ではない。どこか優しい気配をまとった、小柄な姿。
意識の奥で、その影をぼんやりと見つめていると――
目覚めに気づいた影が、小さな声で囁いた。
「……おはよう」
耳の奥に届いたその呼びかけが、意識の靄をわずかに晴らす。
ミリアは改めて視線を動かした。
そこに座っていたのは、一人の少女。
赤く輝く瞳。
人よりも細長く、先端が尖った耳。
肩から首筋、そして頬にかけて、淡く浮かぶ模様のような痣。
ぼやけた視界の中でも、その異質さは目を引いた。
ミリアの唇から、かすれた声が漏れる。
「……魔族……?」
その一言と同時に、警戒が全身を駆け巡る。
身体はまだ思うように動かない。
だが心だけは、刃を抜くかのように即座に構えを固めていた。
さらに目を凝らせば、少女の指先はわずかに長く細い。
小さな異質さがそこかしこに見え隠れしていた。
ミリアが強張ったまま睨み返すと、少女は慌てて手を振った。
「違う、違うよ! わたしは魔族じゃない!」
小さな声。けれど、その必死さは痛いほどに伝わってきた。
「わたし、エレナっていうの。……魔人なのは間違いないけど、魔族じゃないんだ」
ミリアはわずかに眉を寄せた。
「……何が違う」
問いに、エレナは小さく肩をすくめる。
「えっとね。……わたしも聞いた話なんだけど」
言葉を探すように視線を落とし、ゆっくりと続けた。
「ずっと昔、人間と戦うために集まった魔人たちが“魔族”って呼ばれるようになったんだって。
でも、わたしたちのご先祖さまは戦いを嫌って、その集まりから離れたらしいの」
ミリアは鋭い視線を向けたまま、無言で耳を傾けていた。
エレナは小さく息を整え、言葉を続ける。
「それから、この森に隠れて、ただ静かに暮らしてきたの。
人間とも、魔族とも争わない。……本当に、ここで生きているだけなんだよ」
そう告げて、エレナは少し恥ずかしそうに笑った。
すぐには信じられなかった。
これまで幾度となく魔族と刃を交えてきた。
静かに暮らしていると言われても――疑念は容易に拭えない。
だが、目の前の少女には敵意の影すらなく、実際こうして命を繋いでくれている。
膝を抱えて無邪気に笑うその姿は、遠く離れたリリィの面影と重なった。
張り詰めていた心が、ほんのわずかに緩む。
ミリアはかすれた声で問いかける。
「……ここに、ほかに運ばれた者は?」
エレナは小さく首を振った。
「あなたしかいなかったよ。他にもいるかと思って少しは周りを見たけど……誰もいなかった」
その答えに、胸の奥が痛む。
生き残る可能性に賭けた崖上での決断――あの選択は、本当に正しかったのか。
ミリアは静かに目を閉じた。
悔しさも後悔も、今は胸の奥へと押し込める。
自分には、帰らねばならない場所がある。
守らねばならない者たちがいる。
まずは、身体を立て直さなければならない。
ゆっくりと息を吸い込む。
再びこの手が剣を握れる日まで――
生きて、帰るために。
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