第12話 崖際の決断
薄い霞が漂う山道を、《夜禍の牙》の部隊が慎重に進んでいた。
両脇を切り立った岩壁に挟まれた細い道は、人ひとりがやっとすれ違えるほど。頭上には靄がかかり、魔力探査装置の索敵範囲も大きく削られている。
兵たちは息を潜め、わずかな気配も見逃すまいと神経を尖らせていた。
張り詰めた空気が続く中、先頭を行くミリア・カヴェルは時折立ち止まり、険しい地形へ鋭い視線を走らせる。
背後では兵たちが列を乱さぬよう歩調を揃え、汗ばむ手で装備を確かめながら進んでいた。
進軍開始からすでに半日。主力部隊は予定どおり補給路を越え、敵拠点の背後へと迫っていた。
むき出しの岩肌は次第に湿りを帯び、周囲には低木や苔むした幹が目立ち始める。
進むにつれて木々は高く伸び、霧もいっそう濃さを増していった。
やがて、隣を歩く仲間の輪郭さえ霞に溶け、ぼやけて見えるほどになる。
足元から這い上がる霧を押し分け、森の奥へ――木々が途切れ、わずかに開けた空間へ出た、その瞬間。
ざわり、と左手の茂みが揺れた。
直後、鋭い掛け声。黒ずんだ影が霧の中から飛び出す。
「――接敵! 左翼から!」
間髪入れず、敵が間合いを詰めてきた。
ミリアは咄嗟に剣を抜き、迫る刃を受け止める。火花が散り、力強く押し返した。
曇りきった視界では、敵味方の判別さえ困難。
それでも霧の奥からは、金属がぶつかる音と短い悲鳴が断続的に響いていた。
「散開! 互いに間隔を取って応戦!」
ミリアは声を張り上げ、反応できる範囲だけに意識を集中させる。
近づく足音に神経を研ぎ澄まし――影が迫った瞬間、反射的に剣を振り抜いた。
刃が肉を裂き、重い手応えが伝わる。敵兵が崩れ落ち、霧に沈んでいった。
「索敵班、可能な限り範囲を広げろ! 数を把握しろ!」
だが濃霧は魔力探査装置すら狂わせる。頼れるのは耳と、肌を撫でる空気のわずかな流れだけ。
背後で誰かが倒れる音。振り返る余裕はない。
目の前の気配だけを捉え、次に迫る敵を迎え撃つ。
「味方砲撃、座標ズレ! 着弾、味方隊列付近!」
警告と同時に轟音。森が震え、土と岩片が爆ぜた。
濃霧の中で放たれた砲弾は正確さを欠き、味方陣形すれすれに着弾する。
爆風が霧を乱し、舞い上がった土砂が兵の視界をさらに奪っていった。
(なぜ――この状況で砲撃を……!)
本来は支援であるはずの火力が、逆に隊列を崩し、混乱を加速させる。
「敵増援確認! 北東より新たな部隊接近!」
報告の声が、重苦しい空気をさらに押し潰した。
数に呑まれるのは、もはや時間の問題。
「全隊、後退! 森を抜けて再編成地点へ!」
ミリアは即座に退却を命じた。
だが、すでに森全体は敵の包囲に飲み込まれつつある。
「通信班、後方に連絡を!」
叫ぶより早く、通信兵の端末が点滅する。
『――こちらユーグ隊! 後方に到着、撤退路を確保する!』
その声に、重苦しい戦場に一瞬だけ光が射した。
ミリアは即断する。
「ユーグ隊と合流! 隊列を維持して急げ!」
混乱の渦中、必死に隊をまとめ後退していく。
道なき道をかき分け、霧の帳を抜けた先――かろうじて細い退路が開けていた。
しかし、それだけでは足りない。
全員を逃がすには細すぎ、敵の追撃はさらに激化していた。後方との連携を断ち切ろうとする動きすら見え始める。
ミリアは立ち止まり、迷わず命じた。
「私たちがしんがりだ。残りはユーグ隊と合流しろ!」
その瞳に迷いはない。
逃がせる者だけでも、必ず生き延びさせる――
命令を受けた兵たちはためらいながらも、次々に退却していく。
ミリアはわずかに残った兵士と共に、迫る敵の波を食い止めた。
剣を振るいながら味方の位置を確認し、巻き込まぬよう間合いを取る。
深く息を吸い込み、意識を一点に集中――スキルを解放する。
瞬間、霧の中にさらに深い暗闇が広がった。
ミリアを中心に、半径数メートルほどの空間がひとときの闇に沈む。
その闇は光を飲み込み、音を吸収する。
踏み込んだ敵兵は視覚も聴覚を奪われ、目の前の気配すら掴めない。
剣を振り上げることすらできず、ただ手探りでさまようばかりだ。
ミリアは音もなく間合いに入り、ためらいのない一太刀で仕留めていく。
霧に閉ざされた戦場の奥、その闇の中で次々と敵を葬り続けた。
だが、霧の奥からまた新たな影が現れる。
今度はぼんやりとした影ではない。確かな兵士の姿が押し寄せてきた。
「数が……違う……!」
生き残った兵のひとりが、絶望の声を漏らす。
前からも、後ろからも敵が迫る。
もはや、持ち堪えるのは限界に近かった。
そして、気づけばミリアたちは森を抜け、切り立った崖際へと追い込まれていた。
背後は深く切れ落ちた断崖。
前方には、数えきれないほどの敵兵が立ち塞がっている。
「ここまでか……」
ミリアはかすかに息を吐き、剣を握り直す。
最後まで戦い抜くことはできる。だが、それでは命を無為に散らすだけ。
生きて戻らねばならない。
まだ、守るべきものがある。
剣を手にしたまま、崖下を見下ろす。
霧に霞み、底は見えない。それでも、わずかに風が吹き上がっていた。
――本当に、ここへ飛び込むつもりか。
わずかなためらいが脳裏をかすめる。
だが次の瞬間には、ミリアは迷いを断ち切っていた。
「行くぞ!」
生き残った数名に短く命じ、剣を収めて霧へと身を投じた。
足元が宙に浮き、世界が白く霞む。
風が身体を包み込み、重力が一気に引きずり込んでいく。
岩肌をかすめて転がり、大きな石に背を打ちつけるたび、肺の空気が押し出され息が詰まる。
身体が跳ねるたびに意識は途切れかけ、どれほど落ちたのかもわからない。
ただ、薄い靄に包まれるように感覚は遠のいていった。
やがて泥混じりの土に背を叩きつけられ、ようやく動きが止まる。
土と葉の匂い、濡れた地面の冷たさ。
――そして、遠くで誰かの足音が確かに聞こえた気がした。
灰色に染まる視界。滲む輪郭。
そのままミリアの意識は静かに闇へ沈んでいった。
◇ ◇ ◇
どれほどの時が流れたのか。
ミリアが目を覚ました時、体には簡易な包帯が巻かれ、いくつもの傷には応急処置が施されていた。
まぶたの裏に鈍い痛みが残り、起き上がろうとしても力は入らない。
首をわずかに動かすのがやっとだった。
湿った木の香りが漂い、静けさに包まれたその場所は粗末ながらも整った木造の小屋。
隅に積まれた薪や編み籠の道具が、ここが確かに人の暮らす空間であることを物語っていた。
視線を巡らせると、すぐそばにひとりの少女が座っていた。
年若く、その容姿は魔族を思わせるが、戦場で相まみえた者たちとはどこか違う。
肌の色、耳の形、瞳の光――そのすべてに言い表せぬ違和感があった。
銀の髪が肩で揺れる。少女はふとこちらに気づき、穏やかに微笑んだ。
「おはよう」
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、
ブックマークや感想で応援していただけると嬉しいです。泣いて喜びます。
もちろん「面白くなかった」などのご意見も大歓迎です!
しっかり次につなげるべく、泣きながら執筆します。
皆さまの感想が、何よりのモチベーションです。
それでは、次回もぜひよろしくお願いします!




