第9話 白銀の余白
雪嶺での作戦を終えて数日。
一面の銀世界だった前線とは打って変わり、城砦の回廊には穏やかな光が射し込んでいた。
石造りの床に斜めの陽が落ち、窓辺の観葉植物が風に揺れるたび、影が淡く揺らめく。戦場のざわめきは遠く、ここには穏やかな日常が戻っている。
レオナ・バルトネスは分厚い書類の束を抱え、回廊をゆるやかに進んでいた。
作戦用に設けられた臨時執務室で整理を終えたばかりで、まだ肩の力は抜けきらない。
それでも胸の奥には、ほっとするものがあった。
そのとき――コツ、コツと石床を叩く足音が近づいてくる。
「おや、真面目な顔だな。報告か?」
低い声に振り向けば、アーク・レネフィアがいつもの白銀の鎧姿で立っていた。
声色には、わずかな緩みが混じっている。
「はい。雪嶺で確保した補給物資の分類結果です。数と用途ごとにまとめました。……先に隊長の許可を取って、それから物資庫へ――」
「ん。いや、いい。俺が後で確認する」
書類を受け取ったアークは、その重みに片眉を上げる。
「……これは報告書というより、石でも詰め込んだのか?」
冗談めかした言葉に、レオナは小さく肩をすくめて微笑んだ。
「そのくらい詰め込まないと、漏れが出てしまいそうですから」
「真面目すぎるな。作戦終わってまだ三日だぞ。たまには気を抜け」
そう言ってアークは歩調を合わせ、彼女の隣に並ぶ。
「……でも、今のうちに整理しておかないと、後が怖いので」
肩にかかった髪を払いつつ淡々と返すレオナに、アークはふっと笑みを漏らした。
「そういう几帳面さに、いつも助けられてる。報告は正確で速いし、現場では冷静で――誰よりも早く異変に気づく。……お前がいてくれて、本当によかったと思ってる」
足を止めたレオナは、一拍置いてアークを見上げる。
「……団長。それ、セクハラです」
「えっ?」
「褒めすぎです。……慣れてないので、変に意識しちゃうじゃないですか」
そっぽを向いた彼女の肩がふっと揺れる。思わず苦笑したアークを残し、レオナは再び歩き出した。
「おいおい、冗談だよな?」
「……知りません」
ぷいっと顔を背けながらも、足取りはどこか軽やかで、二人の歩みに、自然と和らいだ空気が漂った。
そこへ、甲冑の音を響かせて現れたのは重装前衛のヴァルド・グレイブンだった。
「団長、副長。資材庫の点検報告を」
差し出された書類には力強い筆跡が並んでいる。
「補給物資の損耗は少なめ。装備整備もおおむね良好です。ただ、D.E.Aの起動装置に微細な異常がありました。補修は本日中に完了予定です」
「ありがとう。頼りにしてるよ、ヴァルド」
「それが自分の務めですから」
ヴァルド――戦場では“動く盾”と呼ばれ、幾度も最前線で仲間を守ってきた重装の騎士。その確かな存在感は、兵士たちの信頼を大きく集めていた。
「……ヴァルドさん、今夜は鍛錬場で自主訓練されます?」
「ええ。ただ、今回は整備班も同伴します。次の演習に備えますので」
「ですよね……じゃあ私も一緒に調整しておきます。個人武装の分解整備、少しだけ時間ください」
「承知しました。副長がいると整備班の士気が上がります」
そう言ってヴァルドは背を向けた。その背は分厚い鉄壁のようでありながら、不思議と安心を与えるものだった。
アークは歩調を緩め、レオナの背に向けて語気を強める。
「……お前も、少しは任せることを覚えろ。副団長がすべて抱え込んだら、部隊が回らなくなる」
それは責め立てるものではなく、信頼しているからこそ向けられる真っ直ぐな言葉だった。
その声に背を押されるように、レオナはしばらく黙って歩き続ける。
中庭を横切ると、柔らかな陽が差し込み、肩にかかる髪を揺らした。レオナは一度足を止め、振り返る。
「……団長。少しだけ、寄りたいところがあるんですが……一緒に、いかがですか?」
そう言って向かったのは、城砦の一角にある訓練場の裏手。前線へ赴く前、毎朝ここで体を整えていた場所だ。
今は鳥の声と風の音だけが響く、静かな空間だった。
レオナは腰の高さほどの縁石に手を置き、深く息を吐く。
「こうしていると、ほんの少しだけ……戦場のことを忘れられるんです」
「……そうかもな。大事な時間だ」
隣に立ったアークもまた、遠くを見やりながら言った。
「ヴァルドが言ってた。お前が整備班の士気を上げてくれるって」
「ただ声をかけてるだけです。機械が好きなだけで……」
指先で縁石をなぞりながら、彼女は照れくさそうに笑う。
「でも、そう言ってもらえるのはありがたいです」
「ああ、お前のそういう何気ないやり取りが、皆を元気にしているんだ」
「……そんな大層なものじゃありませんよ。でも、もしそうだったら……嬉しいです」
頬を染め、目を逸らしながらも浮かんだ笑みに、アークは目を細める。
「なら、これからも頼む。レオナ副団長」
「……はい。任されました」
返された声は、いつもより少し柔らかかった。
穏やかな風が城砦を抜け、二人の間をそっと撫でていった。
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