錯覚と成長
親からの「早く寝なさい」がなくなった夜を未だ思い出せない。どのような夜だったんだろう。今はいつ寝てもいつ起きても全て自己責任。「大学には遅れるな」「教習所にはいついくんだ」なんて言われるが知ったこっちゃない。
大学に関しては行かなきゃいけない時に行く。もちろん授業開始のギリギリのラインで教室に到着するように。教習所なんて18になってすぐ入ったが、初回以外の授業なんて一度も予約をとっていない。自分にとって都合のいいように予定を決められる。行きたいように生きていける。小学生の頃に思い浮かべていた「自由」っていうのはこういうものだったのかと。夜は自由だ。
だがそれ以外となると話は変わる。なんでもできると思っている夜なんて仕事を終えた限界サラリーマンや四六時中バイトやらサークルやらで忙しくしている大学生の休憩である。いつ寝ようが朝起きた時の目覚めは最悪なものなのだから、どれだけ夜更かししようが、どれだけ早く寝ようが何も変わらない。朝日を見るとやらなきゃいけないことに追われる1日が始まる。太陽は人生を照らしているようにも思えるが、濃い影も作り出す。横から照らす太陽の光は自分の惨めな姿を床に映す地獄の鏡とかしている。だが夜は何もない。誰からも注目されなけりゃ、それに加えて惨めな姿すら映し出されない。この時間を愛せない成人なんていない。そう信じている。
話は戻るが、そのような最高の夜を知っている親はなぜ早く寝かせようとしてきたのだろう。子供の頃から夜の素晴らしさを知っていれば、もし夜の魅力を見つけられるような繊細で天才的な感性を身につけられていたら。なんてそのような妄想のようなことは決して起こらない。子供にとって太陽が映し出す影というのは成長をあらわすものである。朝、登校するとき道に映る影は年々大きくたくましくなるものだろう。
成人してからというもの自分から成長することを諦めてしまっている人が多い。だが、人は成長し続けるのだ。体格的な点だけではなく、精神面であったり、人付き合いなんて成長を感じざるをえないじゃないか。
成人してからというもの無難で楽を貫いてきた。これじゃあだめだ。未だ開発されていない物を自分の中から見つけなくてはならない。自分の姿を映し出すのは太陽なんかではなく、自分自身だった。影がついてこれなくなる日が来るとすれば、その時が天国にいくタイミングなのだろう。
幸せな人生を過ごし、笑顔で死んでいきたい。