喪失の歌劇場3
弱い相手にしか近接戦を挑んでこないものと思っていた。まさかあの距離から一瞬で距離を縮めてくるなんて。いや、奴がビビッていたのはエミリの方か?彼女が離脱したから気が大きくなったのか。
「ってつまり俺が舐められてるってことか!?」
ふざけるな、これでも数々の死線をくぐって来た男だぞ。怒りで背筋に走る恐怖をごまかして、振り回される斧を避ける。近い、デカい。椅子が破壊され、木片が宙を舞う。
「怜!早くこっちに!」
「ああ!っぶね!」
返事をして反射的に姿勢を落とすと、頭の上でブンッと風を切る音がした。カーペットの上に片膝をついた体勢で身をひねって引き金を引く。だが強靭な筋肉はびくともしない。足の腱を切るでもしないと動きを止めることは難しそうだ。殺人鬼はじろりと怜を見下ろして、薪でも割るかのように両手で斧を振り上げる。
「待て待て待て!」
転がって間一髪で避ける。奴は斧を振り下ろして体勢が低くなっている。チャンスだ。銃口を豚頭の口にねじ込んだ。銃声が響き、頭から血をふき出す。殺人鬼はばったりと座席の上に倒れこんだ。
「あー……しんどい」
「生きてる?」
「生きてるよ。というか先に逃げろって言っただろ」
「あんた1人残していったら死んじゃうでしょ。弱いんだから」
小憎たらしい口調で言うエミリに、怜は呆れてため息を返した。よっこいせと立ち上がって、妙なことに気づく。
影が伸びているのだ。それ自体はおかしなことではない。問題は、怜の影に重なる巨体が、立ち上がったシルエットということだ。ぎぎぎと錆びついた機械のように後ろを振り返った。
ーー殺人鬼が、起き上がっている。胸を大きく上下させ、荒い呼吸でよたよたと歩き出す。彼は繰り返し何かを呟いていた。
「ーーしてる。ーーい、して、る。あいしてる」
ドンッと眉間に銃弾が叩き込まれた。エミリが叫ぶ。
「走って!」
いくら怪物でもこれまで蓄積されたダメージは消せないのか、怜を追う殺人鬼は明らかに俊敏性を欠いていた。怜が出入り口に飛び込むと同時にエミリが扉を閉める。ばっと周囲を確認した怜は、何かが壊れた木材を拾って扉の取手に差し込む。
どおんと衝突した殺人鬼の衝撃で、扉は大きく震えた。繰り返し内側から体当たりしているが、ひとまずは閉じ込め成功だ。ふうーっとどちらともなく息を吐く。エミリは冷や汗を拭って笑ってみせる。
「ほらね。私がいて良かったでしょ」
「そうだな。ありがとう」
素直に礼を言うと、エミリは顔を赤くして目を泳がせた。
「ふ、ふん。私もさっき助けてもらったし、あり、ありがーー」
「何だあれ」
聞いていなかった怜は、前方で光るものを目にしてそう言った。近づいて見てみると、それは高価そうなネックレスだった。さっき観客たちが逃げる時に落としたのかもしれない。そう思ったとき。コトンと目の前に派手な指輪が落ちてきた。階段の上からだ。
視線で追った先に、小さな生き物がいた。自分の体ほどの大きさの袋を持った猿だ。目が合うとキキッと鳴いてあっという間に姿を消した。
「な、何で猿がこんな所にいるの?」
「いや、ここは記憶世界だ。現実そのままに再現される訳じゃない。見た人がまるで猿みたいだと思ったんだろう」
「猿みたいな生き物って何?」
ちょっと考えてみる。あの猿は高価な宝飾品を集めているようだった。すばしっこくて、金目のものに目がない。
「......強盗とか?さっきの殺人鬼と共犯か、もしくは強盗と殺人鬼がダブルブッキングしたってことだと思う」
「最悪なんだけど!」
「更に最悪なことに、強盗が大喜びしそうなお宝がここにはある」
「......今回の回収目標!」
そう、宝石のついた特別なピッコロだ。多分、現実の歴史ではまんまと盗まれてしまったんだろう。もしかして、爆発も強盗の仕業か?計画的な犯行なら、猿は1匹や2匹じゃない。
「気をつけて行こう。多分そこまで強くはないと思うが、急所を狙ってくるタイプだったら厄介だ」
「その前に撃てばいい話でしょ?」
自分の腕に自信がありすぎるだろ。怜は肩をすくめた。
「ちょっとー!今笑った!?」
「いいや?」
2階に上がって廊下を進んでいると、また爆発音が響いた。
「先に入ったチームの話では火事になるらしいな。火が脱出経路を塞ぐ前に終えないと」
前方に伊藤と大山の姿が見えた。向こうもこちらに気付き、大山は表情を明るくして何か言いかける。だがそちらに行こうとしたとき、自分の頭上がミシリと嫌な音を立てた。直感に従ってエミリをつき飛ばし、身を引く。一拍遅れて天井の一部が崩れ落ちてきた。瓦礫で通路が塞がれてしまう。
「エミリ!無事か!」
「こっちは平気!」
ほっとしたが、分断されてしまった。エミリ側に伊藤さん達がいるだけまだマシか。
「エミリ!伊藤さんたちと行動しろ!絶対に1人で動くなよ!俺は別の道を探す!」
****
案内図もない不親切な通路を彷徨っていると、焦げ臭い匂いがしてきた。まずいな、こちら側はもうかなり燃えているかも。顔を顰めて角を曲がった先に、少女がいた。
壁にすがり、へたりこんでいる。少し成長しているが、その整った容姿は見間違いようもない。『伯爵家の夜会』で出会った少女、セレスティアだ。思わず駆け寄って助け起こす。彼女は転んだのか膝を擦りむいていた。涙をためた瞳で怜を見上げる。
「いたい……」
「何でここに君が。あーええと、お父さんとお母さんはどこ?怪しい者じゃない。俺の名前は――」
まず警戒を解こうと名乗る前に、少女は首をかしげて不思議そうに言った。
「私、あなたのこと知ってる……レン、だよね?」
心臓がどくりと鳴った。知っているはずはなかった。名乗ったのは別の閉じた世界でたった一度だけだ。とうにあの少女の記憶から消えているはずで。何故この世界の彼女が覚えているんだ。
「君は――」
ざりざりと金属の擦れる音にはっと意識を切り替える。見ると通路の向かいから、猿が3匹顔を覗かせていた。奴らはニヤニヤ笑いながら曲刀を擦り合わせている。今考えるべきなのはこの場を切り抜けて皆と合流することだ。
怜はセレスティアを後ろに庇い、銃を構えた。