プロローグ
今日はネギが安かった。怜はスーパーから買ってきた食品たちを冷蔵庫に入れていく。昼ご飯はどうしようか。少し考えて、6枚切りの食パンをトースターに入れた。卵を一つとキャベツを出す。目玉焼きの白身は少しカリッとしたものが好きだ。ちょうどいい具合に焦げるのを待って、水を注ぐ。じゅわっといい音がした。蓋をして火が通るのを待つ間、キャベツを千切りにする。
そろそろいいか。チン、と音が聞こえてパンも焼けたようだ。あちちと言いながら皿にトーストを移す。フライパンの蓋を取って目玉焼きとキャベツをトーストの上に乗せた。黄身は卵液がこぼれ落ちないくらいの半熟具合だ。一番好きな硬さにできた。醤油を回しかけて食卓に運ぶ。
スマホを手に取って動画アプリを開く。そしてスマホを横倒しにして見やすいように立てかけた。飲み物は買ってきた瓶ラムネだ。右手で上から押さえて力を入れる。落ちたビー玉が落ちて涼やかな音をたてた。ぐいっと一口飲んで満足のため息を吐く。スマホの画面では、気に入っているゲーム配信者が叫びながらロケットランチャーを撃っている。それを見ながらトーストにかじりつく。
「うっま」
最高だ。こうやってゲーム実況を観ながら食事をとるのは、ここ最近の習慣になっていた。
充実した生活には労働が欠かせない。夕方になると怜は出かける準備を始める。これからバイトに行くのだ。バイト先は居酒屋だ。なんと徒歩5分の近距離にある。外に出ると空は綺麗なグラデーションになっており、涼しい風が吹き抜けていった。エレベーターで一階に降り、小走りで向かう。怜は店内のBGMが漏れ聞こえるドアに手をかけた。
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忙しい時間帯を過ぎてちらりと時計を確認すると、もう3時間経っていた。グラスに付いた水滴を拭いて棚に戻す。そのとき妙な音が聞こえて眉を寄せた。カウンターに向き直って非難する。
「伊一さん、お店でいかがわしい動画観るのやめてくださいよ」
伊一は常連客の一人だ。にやにや笑いながら顔を上げる。
「いいじゃん普通のお客さんいないんだから」
確かに今店内にいるのは常連客だけだ。でも駄目だろ。ため息を小さくついて、呆れた声色で再度注意する。店長が居ればやめるよう言ってもらえたのだが、あいにく今日は別の店に行っている。
「家帰って観てくださいよ」
聞こえる声はなかなかハードだ。人前で見て恥ずかしくないのか。もしくは新手のセクハラ?ドン引きしていた怜は微かに聞こえた声にぴたりと動きを止めた。うって変わって真剣な表情で話しかける。
「伊一さん。今の所巻き戻してくれませんか」
「え?」
伊一はぽかんとしたが、怜の表情を見て戸惑いながら言われた通りにする。怜はじっと耳を澄ました。やっぱりそうだ。この声。
「ちょっと画面見せてもらってもいいですか」
「ええ?なんだ興味あるなら言えよ~」
隣に座っていた客の渡会は酒をちびちび飲みながらスマホで麻雀をしていたが、興味をひかれたのか伊一の手元を覗きこんだ。すぐにうっと引いた表情になる。
「お前こんなの観るのかよ。趣味悪いなー」
「別に趣味ってわけじゃねーよ。ほら怜君」
見せられた画面には、怜の頭に浮かんでいる人物の姿はなかった。伊一に許可を貰って動画を最初から再生する。画面を食い入るように見る怜を、渡会と伊一は意外そうに見ていた。
ここだ。微かに第三者の女性の声が入っている。
――うでもいい。どうでもいい、と言っているのか。他にこの女性の声は入っていなかった。だが動画の最後辺りでカメラが持ち上げられて視点が動く。一瞬だけ端に細い足首が映った。その部分で一時停止する。ハイヒールを履いており、足首にはアンクレットがついている。
――これはヤバい。どくどくと心臓の鼓動が早まるのを感じた。
「伊一さん」
「お、おう」
「これどこのサイトですか。URL送ってください。それと多分この動画違法ですから、もう観ないでください」
「え?」
伊一は茶化そうとしたが、怜の真剣な目を見て口を閉じた。怜は自身のスマホを取り出して店の奥に向かった。
このスマホには登録されていないが、番号は覚えている。すばやく打ち込んで、受話器のマークをタップしようとして動きを止めた。迷ったのはわずかな時間だった。発信してスマホを耳にあてる。電話の相手はワンコールで出た。警戒した様子だ。
『……もしもし』
「お久しぶりです。怜です」
『怜!?あなた今どこにいるの』
彼女が動揺しているのが伝わって来る。怜は気まずそうに言葉を濁す。
「あー、それは言えません。申し訳ないとは思ってます。それで……ちょっと聞いていただきたいんですが、今大丈夫ですか?」
怜の声色で何か察したのか、こほんと一つ咳払いして冷静さを取り戻す。
『何?』
「メイリがいました」
『何ですって!?どこに、まさかあなた――!』
「大丈夫です。俺はまっとうな場所で生きてますよ」
そう答えると安心したような吐息が聞こえてきた。鳴璃というのは先程の動画にわずかに映っていた女性だ。彼女は国際的に指名手配されているマフィアのボスである。もし捕まえることができればとんでもない手柄になる。
『確かなの?』
「動画で見つけたんですが、声が彼女のものに思えました。アンクレットにも見覚えがあります。ただ、確証は持てないので解析をお願いしたいんです」
『分かったわ。場所が割り出せたら連絡するわね。それと』
彼女の声色が悪戯っぽいものに変わった。
『あなたの辞表、まだ受理してないから』
「えっ?」
『あなたほど役に立つ部下が居なくて困ってるの。ねえ、戻ってくる気はない?まあ、その気が無くても迎えに行くけど』
ばっと通話を切った。怖すぎる。せっかくのんびり楽しく暮らしているのに、またあの場所に戻ってたまるか。カランと入口の鈴が鳴って勢いよく振り返る。そこにいたのは自信たっぷりに微笑む美女ではなく、見慣れた店長だった。店長に今日はもうあがっていいよと言われ、怜はばくばく跳ねる心臓を抑えながら荷物を取りに行くのだった。
アパートに戻り、自身の部屋に入る。ぱちりと玄関の明かりをつけると橙色の明かりに照らされたのは出た時と同じ風景だった。思わず笑いを漏らしながら鍵を閉める。こんなすぐに見つかるわけがない。神経質になりすぎだ。そう思いながらも、慎重に部屋中を確認してようやく安心した。コップに水を注いで一気に飲む。
「はあ。今何時だ」
スマホを確認すると11時。よし、と立ち上がる。まずは風呂に入ろう。
冷や汗と疲労を洗い流し、タオルを肩にかけたまま部屋の物をまとめ始める。家具は元からあったもので、怜の私物はそう多くはない。段ボールひと箱に収まった。買ったばかりの食品は家を出るまでに食べきれないかもしれない。プラスチックのタンスから書類を出す。既に転居先は見つけていた。こんなこともあろうかといくつか探してリストにしていたのだ。追跡には少なくとも一週間はかかるはずだ。その間にさっさと逃げ出そう。
今のバイト楽しかったのにな。残念だ。