冬将軍到来セリ
長く炎の海に炙られ、姿かたちをなくした怨霊は、火を失った世界に喜び勇んで帰ってくるという。まるで天使のように偽りの光を纏い、町に近づいて顎をむく。
「何ですか? これ」
と、優奈は首を傾げた。
この世界には写真がなく、版画も含めて絵が大きな役割を果たしている。
絵の方がなにかと覚えやすいということで、ゾウの獣人アビゲイルが優奈に差し入れたのは、やや子供向けの絵本だった。図鑑のようなものが多くて、子供になったようでくすぐったかったが、確かに見たこともない植物、動物、日用品等がようやく一覧化され、助かった。その中にどうやら物語――娯楽用の絵本が混じっているようだ。
絵は、黒くなってしまった冬の海にぽっかりと浮かぶ小さな島を描いていた。
白い雲から帯のような白いものが地上へと伸びている。まるで、腕を地上へと伸ばしているようなシーンだ。
「冬将軍ね」
と言いながら、アビゲイルは湯たんぽのお湯を入れ替えている。
優奈より体が大きいものの、寒さに特に弱いというアビゲイルは、湯たんぽを8つも背負ってラウレイの家にやってきた。ゾウサイズの湯たんぽ8つと言うと2リットルのペットボトルを4本くらい体に括りつけているイメージなのだが、重みは気にならないそうだ。強し! なおラウレイは未だにこの寒さでもケロッとしている、寒さ強者である。
「冬将軍?」
優奈の常識で冬将軍というとロシアの方からくる寒気団のことである。
「それ、近いと思う」
アビゲイルの常識で言うと、物語では規模に誇張はあるものの、冬が長くなると現れる低温の大気の移動。つまり寒気団であっている。
地球程、気候の安定しないこの世界では、同じ時期に同じ方向からやってくるわけではない。というのが特徴だろう。
「今日は人の家の屋根に降りちゃったぐらいで大したことなかったんだけど、何年かに一度、寒さで墜落する人がいるのよね」
あまりに寒い日は、鳥人間も飛行を自粛するが、今日は思ったよりもぐっと冷えた。
「これはねぇ、鳥の目で見ると本当にこう見えるらしいわ」
遠目でみると、うっすらと寒気団の降りる場所には白い靄がかかるという。
子供向けの本では、その特徴を誇張して描き、町を凍らせようとする冬将軍を擬人化して描くことがある。
優奈が手に取ったのはまさにその一冊だ。
めくってみると、冬将軍は町に手を伸ばし、町が凍り付く様子が描かれている。冬将軍に囚われた町は全滅の危機に曝されるが、ギリギリのところで春が来て冬将軍は退散する。という話だった。ちなみにこの話で活躍するのは白クマの獣人である。確かに寒さに強そうだ。
「自力で火を入れる話じゃないんですね」
アクション映画のイメージなら、そこはヒーローが必死に頑張りそうなところなのに。
「優奈ちゃん、町の中に火があるって大変なことなのよ?」
少なくともバトロフ島が交流のある範囲の島で、町の中に火を管理する施設を置いているところはない。
町の中に火があるというだけで恐怖を感じる者もいるから、研究所は町の片隅にひっそりとある。バトロフ島は数十年前に長い冬を経験し、また”火を怖がらない人”の目覚ましい活躍があって、何とか受け入れられた。しかし、それでも数十年前、相当な軋轢の中で出された決断で、当時はバトロフ島も二分されたというから当時の自警団は大変だっただろう。
20年前に”火を怖がらない人”が亡くなり、火の管理を誰がするのかとなった時の紛糾もまた、バトロフ島を揺るがした歴史がある。
「火、消されなくてよかったですね」
20年前に火が消されてしまったら、今冬が長いと思っても、火を入れようという発想はなかっただろう。
「英雄に守られた火と言われているの」
死後、”火を怖がらない人”は生まれ故郷の慣習に従って火葬された。火葬という発想がなかった当時のバトロフ島の住民たちはこれまた非常に悩んだそうなのだが、本人の遺志もあっての葬儀だったそうだ。
そのことがあり、バトロフ島の火は英雄の墓標として扱われ、規模こそ大きく縮小したものの、消すことができなくなった。ともいえる。
(滅茶苦茶大事だった…)
と今更ながら、サウナ扱いしていた研究所のあの火の部屋を思い返した。
そして思ったのが、数十年前の”火を怖がらない人”は日本人だったのかもしれない。ということだ。国によるけれども、日本は世界でも珍しい火葬の国だったはずだ。
* * *
町の中央にある湖のほとりには、鳥人間の発着場以外にも多くの中心的な施設がある。
機械式の時計塔もその一つであり、島の他の施設との連絡や、通信の切り替えを行う他に、他の島との連絡を取る設備はその中に収められていた。家庭用の光通信機は円筒を組み合わせた形のものが多いが、定時連絡を行う行政同士では、より多くの情報をスムーズにやり取りできるように複数の鍵盤が付いた板が備え付けられている。地球人なら、鍵盤が3段あるピアノや、妙に横長くボタンを備えたキーボードという形容が良いだろう。互いに通信員がリアルタイムに光のパターンを読み取り、文章を起こしていくのだ。熟練した通信員は文字を読むのと変わらぬ速度で光信号を読み取ることができるため、行政や大きな商会などで重宝される人材だ。
バトロフ島では、2日に一度他の島と連絡をとることになっている。
バトロフ島は7つの島と交流があるため、1日1島で順に回して、2週間に1度、気候などについて情報交換をすることになる。
今日は一番遠い、ジュピ島だ。
一番近いリリスク島では距離2000km程度であるが、一番遠いジュピ島では1万km程離れていることになる。
「定時連絡がない?」
通信員からの異常の報告を受けた評議会から連絡を受けて、犬人間ジョンも通信室に駆けつけることになった。
外からきている鳥人間の入島は、警察の管轄である。
何か事情を知ってそうなものは来ていたかと聞かれるが、そもそもここ数日はどこの島からも飛来がない。この寒さであれば飛行を自粛していると、特に違和感は持っていなかった。今日はついに不時着事故も起きた。丸数日かかる島から島への移動はかなり鍛えた鳥人間でも辛いはずだ。
「この寒さではな…」
と誰もが納得する理由だ。
だが、不安もあった。
「他の島に連絡してみるのはどうですか。通信員は詰めているはずなので、要連絡の固定メッセージを置いておけば、1日あれば気付くはずです」
定期連絡ではどの島も、まだ春の到来――自然発火が観測されていないと言っていた。
気温は下がり続けている。
まだ、凍り付くほどではないはずだが、と思う一方、不安が募る。
果たして、交代で連絡を待ち続けたバトロフ島の通信員たちだったが、1日経っても2日経っても他の島からの返答を得ることはできなかった。




