3. 「福音書」は熱く生きた男の物語
イエスはキリスト教の創始者ではありません。
イエスが生きた時代のイスラエルは宗教と政治が分離されておらず、今のユダヤ教のルール(律法、と言います)がそのまま法律として適用され、治世が行われていました。当然ルールは時の権力者に都合の良いように解釈されます。
イエスはこの状況に異を唱える者でした。
地方都市(ナザレ)で大工をしていたイエスは、職業柄おそらくいろいろな地方に仕事で赴くことがあったようです。その際、ついでにあちらこちらで演説して回ったようなのですが、一様にイエスの演説は歓迎され、受け入れられたようです。
体制側も、おそらく最初はバカな田舎者、ぐらいに見ていたのでしょうが、イエスの人気が高まり、体制側な批判的な世論が形成されてくるにつれ、この状況を無視できなくなってきます。イエスにいろいろな圧力をかけてきたのですが、イエスはそれにひるまず演説活動を続けました。
終いにイエスは統治者によって逮捕され、十字架刑により処刑されます。
ところがところが、イエス演説の人気はイエスの死により収まるどころか、ますます高まるばかりです。
そこで体制側は、イエス演説を抑え込むことを諦め、イエス演説を体制側に取り込み、体制にとって無害な骨抜きのものに作り替える戦略に切り替えました。この戦略は想定外にうまく行き、その骨抜きのイエス演説は現在でも「キリスト教」として生きながらえています。
と、いうか、その後の統治者達がさんざ統治の道具として「キリスト教」を利用したことは、歴史の教科書に書いてある通りです。
本人を処刑しても民衆の支持が抑えきれなかった場合に、逆に体制側に取り込むことで危険分子を実質根抜きにしてしまう戦略は日本の歴史上でもちょいちょい見られますよね。大和朝廷に滅ぼされた出雲とか、菅原道真とか。
ええと、ちょっと脱線しましたが、「福音書」が描いているイエスの生涯、とくに"マルコ"はそんな感じです。最後にイエス演説の具体例を一つ、挙げてみます。
「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」
安息日は当時最重要とされたユダヤ教ルールの一つで、この日は一切仕事をしてはならないと定められていました。患者の治療もしちゃダメ、とか。イエスはそんな人を蔑ろにするルールに嚙みついたのです。今日の情勢に翻訳するなら、
「国家は人のためにあるもので、人が国家のためにあるのではない」
と、いった所でしょうか。
首相の胸先三寸で、人にとって最も大切な権利である「基本的人権」に制限をかけられるような新憲法案(非常事態宣言)を出してくるどこかの国の与党に噛みしめて欲しい言葉です。