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第六章 阿修羅の章1  無明

幼い頃の阿修羅を自らが語る。


 私の最初の記憶は、月明かりが漏れる粗末な小屋で、寝かされた藁がちくちくと刺した痛みだ。私は背中を向けて眠る『母親』に手を伸ばし、不快を訴えた。だが、その(ひと)は振り向きも、声を返すこともなかった。私は伸ばした手をそっと戻した。考えてみれば、それはいつものことだった。


 まだ陽が昇る前に、私は水場へ水を汲みに行く。それが私の朝一番の仕事だ。私たちが暮らしていた場所にはたくさんの人がいた。その人たちが使う水は大量だ。私は二つの桶を棒で刺し、肩に担いで運んだ。何往復もするので、終わるころには陽は既に高くなっていた。


 水汲みが終わると、次は荷物運びだ。裏手にある大きな倉庫に行く。そこには不思議な世界が広がっていた。板に描かれた木や家、山のような背景、動物の絵もあった。椅子や机ももちろんある。そんなものを、毎日持って行ったり返したり。持って行く先は、きらびやかな建物だ。大きな入り口の前には綺麗な男や女の絵が飾られている。夜ともなるとそこは昼間のように明るい灯りが煌めく。私は明るいうちにその建物の裏口から、色々な道具を運び込んだ。



「おい、そこのガキ。それはそっちじゃねえよ!」

「はい、すいません」

「全く。とろいな、いつまでたっても」


 私はさっと身構える。この男はなんの理由もなく弱いものをいたぶる。だが、それには絶対に逆らってはならない。私はそう母から言われていた。だから身構えたところで何か変わることはなかった。いつものように殴る蹴るをじっと耐えながら受ける。ただそれだけだ。


 そんな奴はこの場所にいくらでもいた。興味本位に優しく笑顔を向ける者もいたが、私は決して心を許すことはなかった。いや、そういうことは教わっていなかったから、どうしていいのかわからなかっただけかもしれない。


 母は……。昼間はどこにいるのかわからなかった。私は毎日、この大きな建物にいる髪の薄い太った男の命令で働いていたが、母の姿をほとんど見たことがなかった。だが、夜になると母はこの建物に現れた。


 私が日中に準備した特別な場所で、母は舞っていた。その前には大勢の人々が輝くような笑顔を向けている。

 私は舞う母を出来る限り見るようにした。母の姿を見ることができるのはその時間だけだった。それはとても美しく、人々が熱狂するのも子供心に共感でき、そして誇らしかった。凛とした母の表情、刺すような視線。流れるような動き。さっと振り向くと汗が飛び灯りを弾く。


 私が幼い頃から生活していたその場所が、『見世物小屋』、母が舞っていたのは『舞台』と呼ばれるものであったことに気が付いたのは四歳のころだった。それまでは誰もがそんな生活をしていたと思っていたのだ。それほど私の世界は狭く、余裕がなかった。


 みなの出し物が終わると、私は片づけをする。数人の痩せた、物言わぬ男たちと一緒に。終えて自分の小屋に戻ると、母は既に眠りについていた。


 私はほっとする。なぜなら母がいない夜もあるからだ。そんな夜は、決まって周りが寝静まったころ、酒の匂いさせて戻ってくる。そしてその目には必ず涙が溜まっていた。私は気づかぬふりをして横になっている。そして、もっと働こう、母を泣かせないように強くなろうと誓ったものだ。


 小屋は同じ場所に長くいることはない。私たち親子は、小屋と共に旅をした。北にはいつも『天の山』と呼ばれる険しい山々が見える。それは私たちをじっと見守るようであり、突き放し、冷たい目で見下ろしているようでもあった。日々は明けない夜のように暗かった。たとえ、毎日陽が昇ろうと。


「おまえ、幾つになった」


 母が私に問うた。私には名前がなかった。小さい頃はそれを不思議に思わなかったが、同じ年ごろのこどもがなにかキラキラとした呼び名で呼ばれているのを聞いて、何故私にはないのか不思議に思った。だが、私の疑問に母は答えなかった。代わりに私の歳を聞いてきた。私は小さな声で「五歳」と答えた。それ以降、同じ質問はしなかった。


 


 あれはそれから二年ぐらい経った頃の夜だった。疲れ果てた体を形ばかりの寝床で横たえていた私を、母が突然揺さぶった。


「起きなさい!」


 母の声にうとうとと目を覚ますと、異様な雰囲気が寝屋を覆っていた。掘っ立て小屋のような借りの住まいを大勢の人間が取り囲んでいるようだ。人の荒々しい話し声が薄い壁から否応なしに聴こえてくる。「ここを開けろ!」という恐ろしい声が扉を叩く音とともに耳を捉えた。


「かあさん、何が起こっているの?」


 私は恐怖でガタガタと震えた。母にすがる眼を向けると、険しい表情でこう言った。それは予想にもしなかったことだった。


「いいかい、今、お城の兵士たちがおまえを殺しに来た」


「な、なぜ?!」

「ワケを話している時間はない。でも、いつか来ると私にはわかっていた」


 小さな馬小屋のような仮宿の戸は、今にも壊れそうだった。


「とにかくここから逃げなさい。もうすぐ日が昇る。それまでにこの街を出るんだ」

「街を出る?」


 私は何が起こっているのかわからず母の鬼気迫る形相にうろたえた。


「しっかり! お前にはそれができるよう(すべ)を授けてきた。私が奴らを引き付けている間に隙をみて走れ。お前が助かる道はそれしかない」

「母さんは?」

「心配は要らない。私を殺すことは出来ない」


 確信に満ちた声で母は言った。


「いずれお前が何故命を狙われるか、必ずわかる時が来る。それがわかるまで、決してここへ戻ってきては駄目だ。母さんを探してもだめだ。約束できるね」

「は……い、母さん」


「お前は賢い子だ。必ず生き延びる。それと……、この名を覚えておきなさい」

「名前?」


 母は私の耳元である名をささやいた。


 ――シッダールタ……――


「さあ、行け!」


 母の声と兵士達の(いかずち)のような足音に押されるよう、私は逃げ出した。夜明け前に街を出て、兵士の足音におびえながら走り続けた。


 逃避行は何十日にも及んだ。私はそこがどこともわからないまま、ひたすらに走った。物陰に隠れて足音をやり過ごし、夜中じゅう走り続けた事もあった。だが、彼らは執拗に私を追い続けた。北に(そび)える天の山は私の行方を阻む。私は朝日に追われ、陽の沈む方に向かって逃げていたようだ。


「ここは……どこだ。暑い……水……」


 焼けつくような日差しが体中の水分を奪い取る、私は砂漠にいつしか辿り着いていた。

 そして、その渇ききった砂の上で、とうとう動けなくなった。賑やかな街を出てすでに何十日もの日々が経過していた。追ってくる兵士の姿はようやく無くなったが、もう一歩も進むことは出来なかった。


 このまま死ぬのだろうと思った。母が言った『術を授けた』の意味もわからない。

 その時、声が聞こえた。聞きなれない抑揚の言葉は、カピラのものでないことだけはわかった。



「なんだ。こんな所にガキが死んでるぜ。たいした服も着てないな。どこから来たんだろう」


 私は精一杯の力を出して顔を上げた。


「おい、こいつまだ生きているぜ、我楽」 

「なに?」

「助け……て」


 私の目に、髭面のいかつい男の顔が映った。助かるかもしれない。そう思った私は、この男から目を離さなかった。生き延びる。それだけを念じた。


 私が七才の時のことだった。


 



第六章 阿修羅  無明  了   次章に続く。

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