第五章 シッダールタの章2 コーサラ陥落
私は阿修羅をナダの所から引き抜いた。ナダは残念そうだったが、我慢してもらおう。阿修羅には私が兼任していた第五団隊長を命じた。実質副官(ナンバー2)の地位だ。
阿修羅はナダの第一団隊では、分隊長だったから、異例の昇格、抜擢だ。もちろん異を唱える者は多かった。特に第五団隊の副長や幹部連中からは一斉にブーイングだ。
だが、阿修羅はそれを力と頭脳、そして器量で黙らせた。彼は敵地に乗り込んだカピラ軍をさらに強力にし、コーサラ国の喉元へと駒を進めていた。阿修羅は技量だけでなく、軍師としての才もあった。彼の策で最小限の犠牲で勝利をものにできた。私は渇望していた軍師まで手に入れることができたわけだ。
阿修羅率いる第五団隊は敵陣を分断し、大将の首をほしいままに打ち取った。文字通り向かうところ敵なく、総大将の旗印に集まる腕自慢の敵兵も、阿修羅は悉く返り討ちにする。私は目の前で剣を振う彼の姿を安心しきって見ていることができた。ここまでくれば、軍の不協和音は一掃された。それどころか、圧倒的な強さが求心力を生み、阿修羅は文字通りカピラ軍の軍神と崇められるまでになっていた。
人々を熱狂させるその戦いぶりは、恐れを知らぬ死神のようであり、首や体が血とともに吹き飛ぶ凄惨な血祭りではあったが、同時にこの上なく美しかった。
私は、その姿をずっと見つめていた。いつまでも見ていたかった。彼に釘付けだ。阿修羅の舞うような剣技、しなやかな肢体、鬼のすむ鋭い眼光、返り血を浴びるその瞬間すら捉われて離せなかった。
――破壊の神、軍神!――
その妖しいまでの美しさに私は心を奪われていた。
「コ-サラはもうおしまいだな。早いとこ統括してやらないと。コ-サラだけでなく、北印度全体に害を与える」
阿修羅が副官に就任してわずか二ヶ月、私たちはコーサラの三分の二を奪い取っていた。国内は命からがら逃げまどう兵や村人達で国政は麻痺状態。こうなったら一日も早く降伏させるべきだろう。
「そうだな、王子。コーサラがわが軍に屈するのももはや時間の問題。さっさとカタをつけるか」
二日前に奪った城の中。私は阿修羅と二人で戦況を話し合っていた。と言っても軍議のような堅苦しいものではない。私はこのところ、暇さえあれば(戦時中にそんな暇はあるわけではないが)、阿修羅を呼びつけていた。あいつはそれをどう思ってたかは知らんが、私は彼と話していると気分が高揚し、楽しかった。ついつい酒も進む。
「もうすぐ雨季だからな。それまでに決着をつけたい」
阿修羅は私に背を向けて、窓の外を見ている。カピラ国とは違い緑の多い土地柄だ。なにか珍しいのだろう。しかし、いつも思うことだが、細い。特に腰が。あの細い体にどう内臓が入っているのか不思議なくらいだ。
私は程よい酔いも手伝って、ちょっとからかってみたくなった。音を立てずに阿修羅に近づく。そして、空いている左手で腰を抱いた。
「何をする!」
「わ!」
右手に持っていた杯が飛ぶ。触れた途端、阿修羅は振り向き、私の左腕を掴んでそのまま捩じった。手加減なしだ。私は思わず悲鳴をあげた。
「痛い! そんなに怒るな。冗談だ!」
「冗談? そんなものは私には通用しない」
阿修羅は私の腕を乱暴に離した。下手をすれば折れてるぞ。
「今度やるときは命がけでしろ!」
そう言うと、振り向きもせず部屋から出て行ってしまった。髪が逆立つほどの怒りの空気が部屋に残る。私はあっけにとられてその後ろ姿を見送った。タチの悪い冗談だったかもしれないが、そこまで怒らなくても……。
私は左手を見つめた。ほんの僅か、阿修羅の細い腰に触れた、あの頼り無げな危うい感じがいつまでも指にからみついていた。
そんなことがあったからか、私は阿修羅を変に意識するようになってしまった。相変わらずわが軍の快進撃は続いていた。崩れた国はまるで砂の城のように脆く、勝手に形を失っていく。白馬に乗った阿修羅は、私の目の前で敵を粉砕していった。私はそれをずっと目で追っている。
私は大いに戸惑った。バラモンやクシャトリアには美しい男に心惹かれる男色の類もいたが、私は断じてそうではない。男には興味ないはずだ。第一戦いの最中にこんな不謹慎なことに頭を悩ましていることこそ恥ずべきことだ。
私はその倒錯した想いを断ち切るように夢中で剣を振っていた。
雨季が近づく時期になり、我がカピラ軍はついにコーサラ国の花の首都、シュラヴァースティに到着した。
花の都と呼ばれるシュラヴァースティは、雨季を待たずに美しい花が咲き誇っていた。そこに武骨な軍を入れるのは多少胸が痛かったが、そうも言っていられない。私は総勢三万の兵を率いて都へと侵入し、中央に鎮座するコーサラ城へと迫った。私達は早々に城下町を占拠し、残るは本丸、城を落とすのみとなった。
だが、固く閉ざした重い門と堅固な城壁が我らを阻み、思わぬ長期戦となった。
日に日に太陽の光を肌に感じられなくなっている。じとじとした不快な汗が、兵も馬も疲労させた。カピラ軍はその不愉快な気候の中、もう七日も城を取り囲みじっと待っている。
私は兵が焦れているのを感じ、そろそろ動かねばならないと考えていた。そんな時に阿修羅が声をかける。先ほどまで、リュージュ達と市中を見回りに行っていたようだったが。
「王子、こうしてつっ立っているのはもう飽きた。雨季のはしりの雨がうざったい。私に百人程の兵をくれ。一気に攻め落とす」
シュラヴァースティの城は籠城に入っている。最初は矢を射るなど元気だったが、最近はこちらが仕掛けても押し黙ったように抵抗してこない。そろそろ投降してくる兵士も出てきそうだ。
「やれるか? 百人で、城を落とせるのか?」
「ああ、まあ任せろ」
唇の端で笑みを作り、切れ長の目を片方瞑ってみせる。私の動揺を全く感知もしないでこう続けた。
「苦しいのはこっちだけじゃない。奴らも相当厳しい状況だろう。頼みの綱の城下町は私たちが抑えているからな。籠城は王として最も愚かな策だ。それをわからせてやらないと」
そうだ。食料も水も、城下町に住むコーサラの民達は、私たちに供給してくれている。頼りにならない自国の王より、侵入者を選択するのは稀有なことではないだろう。だが、私は軍に民への略奪、暴力の一切を禁じている。それが功を奏しているのは間違いない。
「王子たちは、城の周りで肉でも焼いていればいい」
「なるほど。いい案だ」
「私と行く百人はナダの第一団隊がいいな。こういう仕事は奴らが最も得意とするだろう」
「いいだろう」
阿修羅とリュージュの合同隊が久しぶりに稼働した。第一団隊の精鋭を引き連れ、彼らが本陣を後にすると、私たちは計画通り、城壁を遠巻きにして大宴会を始めた。だたし飲酒は無しだ。火を起こし、肉を焼く。我らも長期戦を考え節制していたので、兵士は大喜びだ。盛大に肉を焼いてガブリついた。
その煙は極上の匂いとともに城内へ流れていったことだろう。兵士たちのストレスも解消され、これで城が落ちれば一石二鳥だ。
阿修羅達がコ-サラ国王の首を取って戻って来るまで、そんなにはかからなかった。作戦はまんまと成功した。
城内では長期戦を見込んで、必要最低限しか食していなかった。そこに空腹には耐えがたい肉の焼ける匂いが城下町から漂ってくる。戦意を喪失しているところに白馬に乗った阿修羅達の登場だ。
阿修羅達は正門以外で城へ入る道筋の情報を市中の商人から得ていた。庶民に見えないように品を運ぶ秘密の道だ。阿修羅は百人の兵でその道をたどった。
思いも寄らない敵軍の到来にコーサラ城内は混乱した。コーサラの兵士たちは我先に投降したという。
そして玉座の間では驚くべきことが発覚した。コーサラ国王は側近の裏切りにより、首を刎ねられていた。
「ご苦労だったな。それで、その裏切者たちはどうしたのだ?」
コーサラ国王、ヴィルーダカの首をカピラの旗に括りつけ戻って来た阿修羅に私は尋ねた。あいつは憮然として、
「身ぐるみ剥いで、追放した」
吐き捨てるようにそう言った。武士のように断罪するのも汚らわしいと考えたのだろうか。どこか高潔なところがある阿修羅らしい沙汰だったが、私は一抹の不安を覚えていた。
北印度の二大強国の一角、コーサラ国が弱小国のカピラに倒された。その報は驚きと共に印度亜大陸のみならず、異国の地まで広がっていった。残る一強のマガダ国は当然我らを警戒した。
だた、雨季にはいることもあり、私は戦いに次ぐ戦いで疲弊した兵を休ませるため、一度本国に戻ることとした。
我らの国では、雨季はめったに外に出ない。大水も出るし、大体道がぬかるんで行進そのものがままならない。大人しく家にいるのが正解なのだ。
「阿修羅、おまえも城に入れ。おまえの部屋も用意させよう」
シュラヴァースティには第三団隊を残し、私たちは共に帰路についていた。カピラヴァストゥまではあと三日ほどかかる地点で歩を止める。
実は私は気になっていることがあった。カピラヴァストゥが近づくにつれ、阿修羅が無口になっていたことだ。最初は長い戦いの日々に、さすがの阿修羅も疲労したかと思っていたが、どうもそうではなさそうである。
今でもリュージュや私相手に剣の稽古をしている。その検捌きたるや、本気でやらないと殺されそうだ。そんな時は嬉々として目を輝かしていたが、それ以外はほとんど口を開かない。私が話しかけても上の空。生返事ばかりが帰ってきた。
阿修羅はカピラ軍に入隊してから、ずっと戦の中に身を置いている。ここで休暇となっても行くところがないはずだ。私は端からカピラ城に迎え入れるつもりだったので、その事を告げた。もしかしたらあいつの憂鬱はそのせいかもしれず、この申し出で機嫌がよくなるのではと期待した。
「いや、それは断る。私は城へは入らない」
意外にもあっさり断られた。
「なに!? 何故だ。父王スットーダナもお前に会いたがっている。この度の戦、お前の力がなければ勝てなかった」
「城もそうだが、カピラヴァストゥに入るのも今はやめておく」
「どういうことだ?」
私が問いただしても、阿修羅は貝のようにじっと黙ったまま。私はなんだか無性に腹が立った。同時に雨季の間、阿修羅と離れるのが単純に嫌だった。
「それでは、私もカピラヴァストゥには入らん」
私は拗ねた子供のようにそう言った。脅しではない。本気だ。
「シッダールタ!?」
反応があったことに、私はひそかにほくそ笑んだ。
「お前と共にいる。そうだな。ルンピニーに私の宮殿がある。小さいが美しい城だ。そこに行こう。ここからそう遠くないし」
「しかし、それでは王が……」
「いや、気にするな。実は父君は私に妃を娶れとうるさくてな」
これは本当のことだ。もう二年も前からせっつかれていることだ。カピラヴァストゥに帰れば、必ずその話が出る。そのことは実際私を憂鬱にさせていた。
「そうか、妃を持つ歳だものな」
あいつは事もなげに言う。なんだ、そうなのか。まあ、そうだろうな。頭では理解していても、私は阿修羅が全く動ぜずそう返すのが面白くなかった。
「冗談じゃない。父君の薦める相手など、みな貴族の世間知らずな娘ばかりだ」
「いいではないか。女など世間知らずの方が」
カチンときた。他人事だと思って……。と言うか、人の気持ちも知らないで。とは誰のどんな気持ちなのか……。
「本気で言ってるのか?」
私は思わず阿修羅をじっと見た。阿修羅は何を思ったのか、目を大きく見開きながら、席を立ち後ろを向いてしまった。
彼の態度は何もおかしなところはない。おかしいのは私だという事を自分でよくわかっている。
心の奥にもやもやとしていることを敢えて表に出さず、形にしないでおこうと思っていた。それなのに、私はそれを言葉にしてしまった。
「阿修羅、私は妃など娶らん。私は私の思うまま生きる。子もいらない。カピラ国も私の手にする天下も、私の死後はまた力のある者が奪えばいい。私は……」
私はゆっくりと立ち上がり、背を向けた阿修羅の肩に手を伸ばした。理性より心の方が勝った。
「お前さえいればいい」
「止めろ!」
不意に振り向くと、阿修羅は私の手を振り払った。私は叩かれて空を泳ぐ手を見つめる。またこの手からするりと逃げてしまった。
「お前のその言葉、どういう意味かは知らんが、言ったはずだ。私が興味あるのは天下を取るお前だ。この世を手中に収め、真の王となるお前だ。それ以外は何もない! これ以上ふざけたことを言うなら私は砂漠へ帰るぞ、変態!」
真っ赤になった阿修羅が捲くし立てた。変態――。言ってくれたな……。私は大きなため息をつくしかなかった。御しがたい自分の内なる声に抗うのにも疲れてきていた。
「わかっているさ。おまえに言われなくても」
理由はわからないが、気持ちが落ち着かなかったのは阿修羅も同じだったのかもしれない。旧コーサラからの帰路、ずっと物憂げだったことも、急に烈火のごとく怒りだすのも、あいつらしくなかった。
阿修羅は急に私の正面に立つと、見せたことのないような意地の悪い目つきでこう言った。
「教えてやろうか、シッダールタ。私が何故カピラヴァストゥに入らないか。何故、城にいかないか」
「阿修羅?」
「私はここ、カピラ国にいたんだ」
あいつは軍に来て、初めて自分の話をした。
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