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第五章 シッダールタの章2  邂逅

シッダールタは『軍神』に会うため、落としたコーサラの城へと向かう。


 私は胸の高まりを感じていた。コーサラの国境を守っていた城をわが軍が勝ち取った。しかもほぼ無傷で。ついに他国へと歩を進めることができたのだ。今まで侵略、略奪に耐え忍んでいた弱国がだ。


 意気揚々と正門をくぐると、一隊長のナダが直々に迎えにきていた。他にも見覚えのある幹部どもが並んでいる。どうやらここには例の『軍神』はいないようだ。


「ナダ、私が来た理由はわかっているだろうな?」


 私は(はや)る気持ちを抑えきれず、ナダにせっついた。ナダはそのでかい図体に似合わない申しわけなさそうな顔をしてこう言った。


「阿修羅でございますね。今、支度させております。まずは城内へお入りください。そこでゆっくりとお目通しを」


 私は頷いた。『あしゅら』という名前は、ここへ来る道すがら、モッガラーヤから聞いていた。

 北印度に伝わるいにしえの抒情詩に、「アスラ」という魔の者が登場する。「アスラ」は天界のインドラ神と何億年戦い続ける極悪人だ。『阿修羅』というのは、それを意識して付けた偽名だろうか?

 私はそんな名前にも興味深く感じ、一刻も早く相まみえたい気持ちに駆られていた。


 ところで支度と言っていたな。正装の衣を準備したのか。モッガヤーラも変なとこ気を回すな。それとも、あいつもこの会見を劇的なものにしたいのか?




 コーサラ国の城は小さいながらも機能的で清潔だった。さすが大国の城は違う。カピラでこれぐらいの設備が揃っているのは、王のおわす首都の本城くらいだ。私は改めて大国に牙を剥く難しさを考える。


「王子。お待たせいたしました。阿修羅が参りました」


 城の玉座の間。これは上位の人間がこの城を訪れた時に使っていたものだろう。その高座に座って今後の施政について思いを巡らしていると、ナダが声をかけた。


「おお! そうか」

 

 私の気分は一気に上昇した。ついに『軍神』をこの目で見ることができる。ついつい興奮してしまった。ナダの大きな体に隠れるようにそいつは現れた。驚いたのは、私が思っていた以上に、小柄で華奢だったことだ。そいつは頭を下げたまま、私の前に(かしず)いた。長い黒髪をつむじの高さで束ねている。

 モッガラーヤが用意しただろう白い上着と同じくらい肌が白い。半袖から覗く腕も細くしなやかだった。


「おまえが阿修羅か。もっと近くに寄るように」

「はっ」


 声は少し高いかな。阿修羅は顔を伏せたまま、前へと移動した。


「ああ、顔を見せよ。軍神と称されるお前の顔を見にここまで来たのだ」

「光栄です」


 ゆっくりと阿修羅は顔を上げた。そして私の目を射抜くように見た。


 私はしばし声を失った。持っていた杯を思わず落としそうになったくらいだ。


 白くて長い首に小さな顔が乗っている。形の良い眉に切れ長で大きな目。長い睫毛の下には鋭く人を射るような、黒目がちな瞳が輝いている。筋の通った鼻は美しく顔の真ん中に配置され、薄い桃色の唇は大きすぎず小さ過ぎず……。


 これは……。完璧な絵のようだ。美しい……。いや、美しいという言葉すら恥じるほどだ。これが軍神と言われる戦士なのか? 私は体中が総毛だつのを感じていた。美しさに慄くばかりではない。その射るような目は私を釘付けにした。見据えられて、身動きはおろか、息をするのも不自由に感じた。

 

 阿修羅はどう思っただろうか。彼も私から全く視線を離そうとしない。しばし私たちは、お互いの合わせた目を離すことができなかった。


「これは驚いたな」


 息をするために、私は声を出した。おそらく上ずっていただろう。


「華奢な少年のようだとは聞いていたが。これほどとは。阿修羅、おまえ、歳はいくつだ?」

「十六です」


「ふむ。私と同じ年か。人はおまえを三面六臂のような剣技と言うが。誰かに師事したのか?」

「それは……」


 阿修羅は一瞬躊躇っていた。まだ見たことはないが、それは見事なものだと聞いている。独学で出来るものではないだろう。是非聞いておきたいと私は思っていた。


「盗賊の我楽という男です」


 俄かに座がざわめいた。特に私が連れてきた親衛隊どもが顔を見合わせ、悪態をついている。私は無性に腹が立って、思わず声を荒げた。


「静まれ!」


 私は中腰になっていた。そして、自分の兵を睨みつける。


「阿修羅を中傷することは許さん!」


 座は凍り付いた。まあ、そうだろう。私は本気で怒ったのだから。だが、この勢いを借りて、私はもう一声吠えた。


「阿修羅と二人きりで話がしたい。皆は退室しろ!」


 これにはさすがに驚いたのか、静かになった場はまたざわつきだした。


「王子、しかし……」


 モッガラーヤが困惑した顔で私を見る。だが、私はもう決めたのだ。


「さっさと行け!」


 私が短くそう言い放つと、みな不満げな顔をして立ち上がった。全く、おまえらと一緒じゃ、したい話もできないというものだ。


 ナダが阿修羅に目配せしている。見たことのある、ヤツの部下と一緒に退室していく。たしか、リュージュとかいう腕の立つやつだ。なるほど。あいつの下では部下が育つな。


 私はぞろぞろと退室していく部下たちの背中を目だけで見送った。


 


 ただっ広い玉座の間に二人きりになった。阿修羅は何も言わずに座したままだ。澄ました顔がなんとも美しい……。いや、何を思っているのか、さっさと話を始めよう。


「さて、二人きりになった。阿修羅、思うことあれば何でも言うがいい。ただ、私の聞くことにも正直に答えてほしい。まずは杯を明けよ」


 阿修羅は頷き、進められるまま杯に口をつけた。指も長くて細い。こんな指で剣が持てるのだろうか。率直な疑問がよぎる。


「ここに来る前、お前は盗賊だったのか?」

「はい。砂漠の盗賊、 “流沙の阿修羅” と呼ばれておりました」


「流沙の……。ふむ、商人よりその名を聞いたことがある。随分名を馳せた盗賊だったようだな。ではその名はやはり本当の名ではないな。本当の名はなんという?」


 阿修羅は少し困ったような顔をした。私の質問は彼を困らせるようなものだったのだろうか? 私は、上から見下ろすことに嫌気が差して、高座を降りると、阿修羅の目の前に座った。


「王子。何をされるか。このようなお近くでは……」

「構うな。本当の名前を言えないのなら、それも良い」


「いえ、そうではありません。確かにこの名は、育ててくれた我楽というものがつけてくれました。私は本当の名前を知らないのです」

「名がない? おまえ、親はいないのか。それとも、盗賊が親なのか」


 近くで見ると、阿修羅の肌は陶器のように透き通っている。これだけ熱い日射を受けながら、どうしてこれほどに白いのか。その白い肌に宿る瞳は黒い刻印のように存在感を際立たさせている。


「父親は物心ついたときからおりませんでした。母親と暮らしておりましたが、7つの頃に生き別れました」


 まるで定時報告をするように抑揚のない話し方だ。あまり思い出したくないことなのか。私はじっと耳を傾けた。


「わけあって街を出て砂漠で迷い、瀕死のところを盗賊たちに拾われました。彼らのおかげで生き延び、戦いを学びました」


 言い終えると、私の目を見た。無駄に睫毛が長いなとどうでもいい感想が沸いた。


「カピラ国に住んでいたのか?」

「幼かったため、はっきりとはわかりません。でも、いつも北に天の山が聳えていました」


 天の山を北にいただくのであれば、カピラ国である可能性が高い。だが、それはもういい。覚えていない子供の頃の話を聞いても意味がない。それよりも私が知りたいのは。


「では、なぜ砂漠からここへ舞い戻って来た。二つ名で呼ばれるほどの盗賊を辞め、ここへ来た理由は? 訳あって一度はこの地を離れたのだろう? それがどうして舞い戻って来たのだ?」


「それは……」


 私は彼の答えを待った。阿修羅は今までで最も鋭い視線を私に放った。


「この印度国を…いや、この世界全てを支配する王の助けをしたいと。全てを手中に治めるその様を見てみたいと」

 

 私は自然と身構えた。何度なく繰り返された妄想、妄言。阿修羅、おまえもそれを言うのか。私が憮然としているのを知ってか知らずか、彼は座り直し、姿勢を整えた。


「王子。失礼ながらお聞きしたいことがあります」

「何なりと」


「王子。この印度国にいる者なら、誰でもが知っているだろう。アシタ仙人よりこの世の救世主 “仏陀” となると予言された神の子、シッダールタ王子。貴方はこの予言をどう受け止めておられるのか?」


 またど直球だな。まあよい。私の枕言葉のようなものだ。私は真剣な目を向ける阿修羅を見ていると、なんだか笑えてきた。ふっと口から息が漏れるともう我慢がならず、笑い出してしまった。


「なにを笑われる!」


 これまた真面目な顔をして怒っている。その顔もなんだか可愛いとか思ってしまう。


「何かと思えば、いや、失敬。阿修羅、確かにアシタはそう言った。だが、知っているだろう。アシタはこうも予言した。この地に留まれば、やがて地上の全てを支配し、聖王となると」


 阿修羅は頷いている。でもまだ少しむっとしているな。


「そしてお前の言うように、出家し隠遁すれば目覚めた者、仏陀となると」

「では、この地に留まり、王となると?」

「当然だ」


 私はそう言うと、景気づけに杯に注がれた酒を一気に飲み干した。


「ある日、私が東の門から城を出ると、老人が立っていた。老人は腰も曲がり、耳も目も役に立たず、もはや何のために生きているのかもわからない。私は思った。人はいつか老いる。例外はない」


 阿修羅は神妙な顔をしてじっと聞いている。こんな茶番劇にほだされるな。


「そして次に南門から出ると、そこには病人が。西門には死人がおかれ悲しみにくれる人々がいた。そして、北の門から出ると…」


 私はもはや暗記しているこの茶番を朗々と語る。


「そこには誰が?」

「そこには一人の僧がいて、私にこう言った。 “道を進まれよ” と」


 ここで一息つく。ここからが大事なところだ。


「私は思った。人はいずれ老い、そして確かな死を迎える。生きている時でさえ、病に苦しむこともある。それらがもし、何人でさえ避けえないものならば、私は敢えて戦おうと」


「戦う?」


 阿修羅は私の言葉を繰り返した。大きく見開かれた目は真剣そのもの。私はさらに続けた。


「さらに愚かに、さらに貪欲に、さらにみっともなく生きてやろうと。生に執着し、欲のままに生きてやろうと。私はこの国を手中にし、この世の全てを我が物にする。私にその力があるのなら、必ず手に入れてやる!」


「出家はせぬと?」


「ふん、あんな現実から離れたところでなにが出来る。まこと世を救うなら、戦わねば駄目だ。腕ずくで奪わなければ何も救われない! 私はあんなわけも分からない呪文を唱えて何もせず、ただこの世を、生を憂いている僧など大嫌いだ! 貧しい者、虐げられた者を救うのは呪文じゃない。偉大な王による政治だ。私はそう信じている」


 私は再度阿修羅を見た。彼の高揚している胸の鼓動が聞こえてきそうだ。そうだ。私はついに見つけた。手に入れた。


「阿修羅よ。私が真の聖王となるにはお前の力が必要だ。どうだ、私とともにこの天下、駆け抜けてみぬか? 短い命の中でどこまでやれるか試してみようではないか。我等が思うまま生きてみようではないか。阿修羅、手を貸してはくれないか?」


 阿修羅は驚いた顔で私を見上げている。何を驚くことがある? さあ、答えよ。私の願いを聞き入れよ。


「王子、私でお役に立つのなら」


 私の目の前で、阿修羅は(かしず)いた。私がずっと欲していた者、私の片腕となるべく軍神を手に入れた瞬間だった。





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