最終章 沙羅双樹
仏陀は雨季の後、美しいヴァイシャーリーの村々を弟子たちとともに巡っていた。その後、クシナガラという小さな村に寄ったころから、体の不調を訴える。
彼は三十五歳の若さで悟りに達し、仏陀となった。今や付き従う弟子も百人を越えている。その中には、彼の生国であるカピラの元兵士や名も知れぬ盗賊崩れもいたという。
仏陀が巡り歩いた印度国のあらゆる王は、彼に帰依し、その有難い説法を聞いた。
彼は八十歳になっていた。
古参の弟子、モッガラーヤやリュージュ達は既に入滅を果たしている。だが、アナンだけは長く生き、今も変わらず仏陀に付き従っていた。
「少し疲れたな。ここで休むとしよう」
仏陀はクシナガラの沙羅双樹の下で涼むように横になった。そこが彼の最後の場所であることを仏陀は良く知っていた。二本の沙羅の樹が対になったその樹には、白い花が美しく咲いていたという。
多くの弟子たちが周りで泣いている。
「泣くではない。私の命が尽きるのは自然の理。現世に在るものは形を変え、消えていく。流れる砂のごとく」
仏陀の最後の教えに皆は耳を澄ませる。
「それが世の定め。この世界では愛する人とも別れねばならない。いかに嘆こうと、肉体の死を防ぐ術はない。この苦しみの輪廻から解脱する法を伝えるため、私はこの地にこのように長く留まった。すぐには得ることができなくても、正しく生きることでいつかはその地に辿り着く。だから今は、私の教えを守り生きなさい」
「師よ……」
アナンが仏陀の手に、自らの痩せた手を添える。老いた頬にはその皺に沿うように涙が伝っていた。
「アナンよ。よくぞここまでついて来てくれた」
仏陀はアナンの涙を見てそう労う。
あの日全てを失ったシッダールタは、そのあと、既に国のなくなった旧カピラに戻る。その街で、義勇軍の面々と会うこととなった。
シッダールタは思い悩んだ末、既に出家を決意していた。
そんな彼に真っ先に同行を申し出たのは誰でもないアナンだった。アナンもまた、夫に殺された愛しい人の魂を救いたいと願っていた。以来、二人での修行の旅が始まった。
シッダールタは、生きることを選択した。それこそが阿修羅が命がけで願ったことだと知ったから。そして、悟りを得て仏陀となれば、必ず阿修羅を救えると信じた。それだけを信じて数多の苦しい修行を耐え抜き、長い年月の果て、真理を得ることを成し遂げた。
教団を設立する頃には、かつての部下たちが弟子として入信していた。
「何も恐れることはない。このまま進みなさい。おまえには全てを見せてきた。私の知ることの全てを教示してきたのだから」
アナンはそっと頷いた。
静かにその時は訪れた。弟子たちだけでなく、仏陀の死を悼む人々が至る所から集まってきた。獣たちも鳥たちも沙羅双樹の下で涙した。
そこに、仏陀を待ち望んでいた者の姿があった。黒曜石のような瞳が、柔らかい眼差しで仏陀を見つめている。
「ああ、来てくれたのか」
その言葉を最後に、仏陀は涅槃へと旅立った。
――――やっと二人きりだな。
重たい体から解き放たれた仏陀の手に、ふわりと触れる手。
つむじ辺りで束ねられた黒髪が流れるように揺れ、頬にかかっている。輝く空気を纏った少女は光に溶けるような笑みを浮かべていた。
――――阿修羅……。長く待たせてしまったな。私の我儘を聞いて、良く待っていてくれた。
仏陀がその手を掴むと、彼の魂が輝いた。年老い、やせ細った姿は見る見るうちに逞しい体つきになり、壮観な若者の姿へと変わっていく。豊かな黒髪が風になびいた。
――――シッダールタ。
阿修羅が愛おしそうにその名を呼ぶ。
高く高く昇っていく。眼下にあった人の世界はもう見えない。
――――愛しているよ。阿修羅。
――――知っている。
二人は笑いながら涅槃へと渡る。もうその手を二度と離さない。
たった一人の愛する人を救うため、シッダールタは仏陀となった。
しかし――
悟りを得てから入滅するまでの長い年月を市中に出て語り、癒し、導き、教え諭し続けたことに何の偽りもない。
完結
本編は完結となります。
ご愛読ありがとうございました。
最後にあとがきに代えて「法を取ったシッダールタと本作誕生について」を追記します。




