第二十二章 阿修羅の章6 号砲
徐々に馬の足が鈍くなっている。『砂の沼』が近づいているのだ。この辺りでも、砂は水分を含むようになってきている。奴らはそれに気が付くだろうか? 疾走しながら振り向くと、背後には連中が馬に鞭打って追い付こうとしているのが見える。そんなに打ったところで馬が疲弊するだけだ。やはり気が付いていないな。前しか見えていないのだろう。
広大な砂漠の湿地帯。これも砂漠が持つ一つの顔にすぎない。一見すれば砂漠と何ら変わらない。慣れないものが訪れ、気が付かないのも仕方がない。だが実際は、見えない蟻地獄のような穴が無数に空いている。
かつては大きな湖だった名残か、ここには大きな岩が散在している。この岩の周りは比較的足場が固く、抜け穴は存在しない。ナダが率いる元カピラ兵達は、その中でも人が何人か隠れるくらいの大きな岩の影に陣取っていた。
「シッダールタ、見えたぞ!」
私はシッダールタとともに岩陰に向かう。背後にはダイバダ達が迫ってきていた。それに気づいたリュージュが弓を番えて岩の上に立ちあがる。
「リュージュ! 今だ! 弓を引け!」
まだ届くかどうかの瀬戸際の距離だ。マガダのような大弓があれば余裕だが、この土地ではそれも役に立つまい。リュージュは満月のように弓を引き絞ると、狙いすまして矢を放った。
「ぎゃあ!」
美しい放物線を描いた矢は、先頭を行く兵士に命中。兵士は馬の上に覆いかぶさるように倒れた。「よし! やった!」リュージュが指を鳴らす。その隙に私とシッダールタは急いで岩陰へ入った。
「なにごとだ!」「ダイバダ様、あそこに敵が!」
ダイバダ達が右往左往しているのが見える。リュージュ達は畳みかけるよう、一斉に矢を打ち放った。
「ダイバダ王、ここは一旦退きましょう! あちらに頃合いの岩場があります!」
「くそ! ここまで来て!」
連中は迎え撃つ余裕もなく、矢を避けて後退し、近くにあった岩場に身を隠した。
「願ってもない場所だな」
私はその様子を見て、誰に言うでもなく声にした。リュージュがすかさずそれに呼応する。
「だろ? 全て計算ずくさ」
あながちハッタリでもない。我らの陣とダイバダが入った岩場の間には、大きな色の違う砂地が横たわっている。おそらくここには人を飲み込むほどの大穴がいくつも空いているだろう。ここに誘い込めば、奴らを一網打尽にできる。
「よく見つけたな」
「ふふ、おまえが色の変わった砂地に気を付けろと言ったからな。この辺りではこの場所が一番大きかったぜ」
申し分ない。私はリュージュに向かって頷いてみせる。そうとなれば、このままにらみ合って長期戦になるのは面白くないな。挑発したら出てくるだろうか。そう考えてシッダールタに声をかけようとしたが、どうやらその心配は不要だった。
「おい! シッダールタ、何をこそこそ逃げ隠れておる! 私がこんな辺鄙な砂漠くんだりまで足を運んでやったのだ。挨拶せぬか!」
ダイバダが大声でシッダールタを呼びつける。この距離、あいつらが持っていた弓矢では届くまい。私は目でシッダールタに合図する。
「貴様こそ、よくも私の前に顔を出せたものだな」
シッダールタは岩の上に立ちあがると大声で応戦する。見ると、ダイバダも反対側の岩場に立って叫んでいる。中肉中背の体を大きく見せたいのか、岩の頂上で大げさに身振り手振りを繰り返していた。
「なんだと?!」
「貴様は、私の大事な親族を皆殺しにした。ヤショダラ姫まで手に掛けて! 王に任命した私も愚かだが、そうと言って諦めきれない。貴様だけは許すことはできん!」
太陽がじりじりと照り付けてくる。風も一切吹かない。砂漠では珍しい凪の日だ。多分奴らは長くは持たない。仕掛けてくるだろう。シッダールタ、精一杯挑発しろ。
「黙れ黙れ黙れ! おまえを許さないのは私の方だ! 私の恨みの深さを思い知ればいい。何一つ不自由なく育ったおまえには、私の怒りなど理解できぬわ! ヤショダラ? おまえが捨てた女じゃないか! 何を今更言っておるか」
「馬鹿を言うな。貴様の気持ちを知らないわけはない。幼少の頃から思っていて、ようやく妻とした彼女や血を分けた子供まで……なぜだ?!」
シッダールタが壁に拳を叩きつけていたのを思い出す。やはりカピラ城で惨殺された親族のことを、おまえは悔しく思っていたのだな。確かに、常軌を逸した所業だが……。
「お、おまえには関係ないわ! 私の気持ちなど、誰もわからぬ! 私はおまえを八つ裂きにすることだけを念じてここに来たのだ。その首を胴から切り離して、ヴィルーダカ王に献上する!」
聞き捨てならない事を言う。私は心臓がぴくりと跳ねるのを覚える。胴から切り離すだと。どんな恨みがあるか知らないが、シッダールタの命を脅かすもの、なんびとであろうとも生かしてはおけない。
「なんという愚かしいことを……。私の首にはもうそんな価値はないというのに……。こんな哀れな私怨に罪もない人々を巻き込むなど」
シッダールタは全身で怒りを露わにしている。ダイバダのこの妬みは狂信的なものだ。なんの正当性もないまま、ここまで膨れ上がらせた。ダイバダはなおも続ける。
「おまえの存在を私はずっと憎んでいたのだ。大層な預言を遣わされておきながら、不満そうにしよって。蝶よ花よと育てられていたのに、何も楽しくないと言わんばかりの顔。姫たちがこぞっておまえを見ていたのに、素知らぬ態度! あげくにおまえは印度国を平定した! その美と強さを併せ持った軍神の心まで得て! 私が持たぬものをおまえは持っていたのに、おまえはそれを当然のことのように何食わぬ顔で生きてきたのだ!」
その場にいたものは、すべからく絶句した。周りに立ち込めるむせかえるような熱気の中で、形だけは王の体裁を整えた男のたわ言を聞いている。「そんなことのために?」 私の回りでそう呟く声が聞こえる。恐らく全員がそう思ったことだろう。
「さあ、これを見ろ!」
皆が呆れているのも知らず、思う存分おのれの気持ちを吐露したダイバダは、懐から瓶のようなものを取り出した。遠目で良く見えないが、酒瓶ほどの大きさはある。
「ここには、天の山に咲く毒花の猛毒が入っておる。これをおまえに嫌というほどお見舞いしてやる。おまえらの矢など、なんてことない。だが、我らの矢は違うぞ。触れただけであの世行きだ! 矢はたっぷりあるしな! そこにおる裏切者たちも道ずれにしてやる!」
あの瓶いっぱいに入っているとしたら、私達を何十回も殺すことができるだろう。その毒の量が、あの男の恨みの深さなのかもしれない。シッダールタはあの男に何もしていない。これほどの逆恨みもないものだな。隣でリュージュが「おまえに裏切者呼ばわりしてもらいたくないぜ」と独り言ちている。
「よくわかった、ダイバダ。私も自分に罪がないとは言わない。だが、貴様に殺されるわけにはいかないのでな。返り討ちにしてやるから、さっさとその毒矢を撃ってこい! 私にその矢が当たるかどうか、やってみるがいい! 聖王と言われた私の力を確かめるがいい!」
シッダールタのこの言葉は、ダイバダにとって最強の挑発になった。
「ええい! おまえ達、今すぐあやつらに矢を撃ち込め! やつらの矢など恐れるに足りんわ!」
と叫ぶ。その檄に呼応するように、兵士たちは毒を仕込んだ矢を矢筒に入れ、馬に乗り駆けだした。
「うまくいったな。みな、矢を番えよ!」
私の合図で、こちらも準備する。予め用意した盾の間から、矢をぎりぎりと引き絞る。だが射るのはまだだ。奴らが我らの罠に嵌るまで、息を潜めて待つ。
勢いよく飛び出したダイバダの親衛隊達。我らの陣に近づくと矢を引き絞る。いくつか飛んでくるが、届かないか届いても盾で叩き落す。さらに近づき、再度矢を引いたその時。
「わあ! なんだこれは?!」 「落ちるー!」 「助けてくれ!」
突然に湧き起こる悲鳴と馬たちの鬼気迫った嘶き。親衛隊達は重い砂の沼に足を取られて進めなくなる。それどころか、馬たちとともに吸い込まれていく者もいる。
「今だ! 撃て!」
私たちは一斉に矢を放つ。次々と命中していく矢、深みにはまっていく体、兵士たちは行くも引くもならない。後方でまだ無事だった連中は慌てて馬を引き戻し、もといた岩場の影に入っていく。
「何事だ! いったい何だと言うのだー!」
「無理です! 先に進めません! どうやらここは沼地になっているようで……」
ダイバダの悔しがる声が届く。戦力として半数は削げたか。
「よし、ここまでは作戦通りだ!」
ナダが上気した声で叫んだ。確かにここまでは上手くいっている。連中が引っ込んだことで私達も一旦岩陰に戻り、わずかな影に入る。
だが暑さは容赦ない。各々に水を飲むが、喉はあっという間に渇きを覚える。やはりこれは長くはもたない。みな口には出さないが、暑さに辟易している様子だ。カピラは北印度にあっても涼しい地方。それでも戦を昼日中行うのは狂気の沙汰だ。
「だが、要はここからだ。矢の数はどうだ?」
そして何よりも私達の懸念。これは始めからわかっていたことだが、圧倒的に矢の数が足りない。最終的にはどうしても接近戦に持ち込む必要がある。そうなると、毒を持つ奴らの方が有利になってしまう。もちろん無策ではないが、かすり傷さえ致命傷になってしまう現実は侮れない。
「厳しいです。残り少ないです」
「こちらに矢がないと知ると、奴らは近づいてくるな」
シッダールタの問いに誰とはなく答えている。矢が尽きていることは承知のうえだ。ナダがちらりと私を見た。
「どうする?」
本来なら、考えていた作戦を行使する時だった。だが、私は肌がじっとりと湿気を帯びているのを感じた。相変わらず無風だが空気も朝に比べて重たくなっている。
「策通りだ。大丈夫。そのためにこの場所を選んだ。半数は仕留めたはずだ。残りはそれほど多くない」
私は確信を持ってそう答えた。
「どうだ? ダイバダ達は動きそうか?」
「今のところはないですね」
シッダールタとナダが岩の上から覗いている。やつらも暑さに弱いのは同じだ。だが、沼の位置がわからない限り迂闊には動けまいが。さて、どう出るか。
私は毒矢にやられた時のために用意した短冊状の布を一枚取った。血の流れを止めるために使うものだが、他にも使い途はある。それを首に巻いて岩陰に座った。
目を閉じて全身で空気を感じる。周りの騒音を全て遮断して、自然と一体になるように五感だけを解放する。
『阿修羅……』
誰かの声がした。こんな声が拾いたかったわけじゃないのに。
『時は来た……』
私はその声を意識化に捻じ込む。聞いたふうをぬかすな。おまえに何がわかる。黙ってみておれ。
夢の中で私が何度も聞いたその声は、未来を恐れる私が作り出したものなのか。それとも、今がその時なのか? だとしてもやることは同じ。私の命はシッダールタのものだ。
その時、ひゅるりと一陣の風が私の髪を揺らした。目の前の砂が僅かながら舞っている。間違いない! 遠い号砲が鼓膜を振動させた!
「阿修羅! 奴らが動いた!」
リュージュが大声で私を呼んだ。私はかっと両目を開く。
「よし! 弓を持て!」
私は岩の上へと昇ると、弓を番えた。見ると、馬を捨てたダイバダと親衛隊達が恐る恐るこちらに這うようにして向かってくる。その姿は滑稽ですらあったが、執念と呼ぶにはいささか狂気じみている。正直背筋が寒くなった。
「おい! 向こうから標的が自らでてきおったぞ! 一斉に撃て!」
ダイバダが私を見つけると、部下たちに叱咤した。連中は慌てて足場を確認しながら毒液付きの弓矢を構えている。
「阿修羅! 何をしている! 危険だ、戻って来い!」
シッダールタが後ろから上がり、私の腕を掴もうとする。リュージュも慌てて盾をかざす。私はその手を振りほどく。
「私に構うな! おまえ達は水桶に布を浸して濡らしておけ!」
私は片手で首に巻いた布を鼻の位置まで擦り上げた。ワケのわからぬ指示であったのに関わらず、ナダ達は水桶に布を浸し始めている。もうそこまで来ている。急げ、もう猶予はない。
「撃て! あの小生意気な女を殺せ!」
「阿修羅! よせ!」
ダイバダの怒号とともに兵士達が毒矢を番え、引き絞る。シッダールタの必死の声が聞こえるが、それでも私は動かない。瞬間、一つの絵画のように全てが動きを止めた。その時だった。
一陣の突風が大量の砂を運んできた。
あっという間に目の前は何も見えなくなる。空は突然扉を閉ざしたような暗黒の雲が覆い、雷光が駆け巡る。辺りは夜のように暗くなり様相を一変させた。風と砂が吹き荒れ、轟音を轟かす。敵味方なく大量の砂が五体全てに激しく打ち付けてくる。
「こ、これは!? 砂嵐!?」「目が、目が見えん!」
あちこちで大きな竜巻が発生し荒れ狂う。矢を射るどころか、兵士達の手にあった矢も弓も風にさらわれていった。恐怖に慄く悲鳴がこの場を席捲する。
「うわ! 毒液が! 誰か抑えておかんか!」
毒の入った器もどこかに飛んでいったのか。ダイバダの叫び声も嵐にかき消される。
夜明けに私が見た西の光、それはまさにこの砂嵐の兆候だった。湿気を含んだ空気を感じた時、間違いなくそれは来ると読んだ。轟音と飛んでくる石と砂に翻弄され、ダイバダ達は岩陰に戻ろうと文字通り這っている。その姿も砂嵐にかく乱されて、薄く輪郭が見えるくらいだ。
私も弓を捨て、猛烈な風に体が持って行かれないように岩にうつ伏せた。下ではシッダールタの声がする。みんな布を口にあて、岩陰を盾にして砂嵐から身を守っているようだ。これで接近戦に持ち込める。ダイバダの懐にある毒の瓶にだけ注意すれば勝てる。
私がそう次の展開に頭を巡らせていたときだった。不意にその音が吹き荒れる風に乗って聴こえてきた。
――まさか?
俄かには信じられなかった。だが、今いてくれればと切に願ったのも嘘じゃない。私は反射的に腰の帯を触る。剣の位置を確かめた。行ける。一気に行ける。この嵐に乗じて全ての邪魔者を一掃しよう。誰も触れさせない。私の大切なものを危険に晒さないために。




