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第二十二章 阿修羅の章6 銀河

最後の阿修羅の章始まる。


 敵が迫りくる足音が確実にするなかで、私はシッダールタの腕の中にいた。『時間がない』と言われて、私はぎくりとした。それは、あいつの仇敵が迫っているから? それともナダ達が隠れ家に向かっていたから? それとも、それとも私たちの別れの時が近づいているからか? その全てかもしれない。シッダールタは私がアシタと名乗る者と出会ったことを知らないはずだ。だが……。


 私はあいつの背中にしがみつき、呻くように言った。愛していると。おまえと兄妹とか王子と奴隷とか、そんなことはもう何でもなくなった。おまえはそれを全て捨てて私を追ってきたのだから。そして私は、おまえが来るのを待っていたのだから。


 腕に絡みつくおまえの豊かな黒髪を指で梳きながら、私はおまえの全てを受け入れる。この一瞬は永遠だ。私は決して忘れはしない。何が起ころうと。


 私は誓う。もう絶対、誰にもおまえを傷つけさせない。





「ずいぶんと元気になったものだな。もういつでも砂漠を越えられそうだ」


 空が白々としてきたころ、まだ熱を持つ寝床から私達はどちらかともなく起き上がる。何だか照れくさくなって、私は冗談めかして言った。


「そうだな。ここの食事が良いからかな。山羊のミルクとか。だが、これくらい力が戻ってこないと、またおまえを危険な目にあわせる」


 決して浮かれていたわけではないが、シッダールタの言葉に私の心の温度は急激に下がった。黙って戦いの衣装を身に纏う。ダイバダは毒を持っている。しかも大量に。そうすると、カピラから持ってきた固い鎧のほうがいいかもしれない。私はそれを棚から引っ張り出した。

 振り向くと、奴も鎧を付けている。私が戦利品から取りおいたものだ。体の大きさにも合っていたし、良いものだった。やはり、シッダールタにはこの方が似合う。


(ほこら)が、あったな」


 私が奴を見つめていると、そうと気が付いたのか、突然そう言った。私の心はさらに温度が下がり凍り付く。


「山の麓、冷水が沸く泉の傍に、祠があったろう?」

「シッダールタ……、あの……」


 私が言に詰まり、応える言葉を探していたら、シッダールタは口角を少し上げて笑った。


「何を言われたのか知らんが、心配するな。私はなにも信じない。あんな奴らの言う事、ずっと拒んで生きてきたんだ。共に生きられないなど、信じてたまるか。何があろうと、私はおまえと共に生きると決めたのだから」


 シッダールタが私の目を見てそう言う。その深い藍色の瞳に私は引き込まれていく。何かを言わなければ。私は言うべき言葉を探すが、迷うばかりで見つからない。何を言えばいいのかわからなかった。


 おまえが生きるためなら自分の命はいらない。そう願ったのは嘘ではない。だが、私がこの世からいなくなった時、おまえが後を追うのだけは絶対に嫌だ。生き続けて欲しい。何があっても。

 二人共に生きていけるのなら、おまえがそう言うのなら、それを信じたい。『私もそう信じている』そう言えばいいのだろうか? 『当たり前だ』とでも言えばいいのだろうか。


 言葉は空虚にしてそれは何の証にもならない。私はたった一言だけ、シッダールタに告げた。


「私を離さないでくれ」


 シッダールタは一瞬、目を見張って私を見た。だがやがて、ゆっくりと頷いた。 




 東の空に灼熱の太陽が顔を出す。馬小屋には二頭の馬だけが餌を待っていた。この馬で戦えるだろうか。ああは言ったものの、白龍は無事にここへ戻ってくるだろうか。

 私が村で調達してきた馬を洗っていると、ナダ達がやって来た。リュージュと二人だけでなく、彼らと共にいた、『義勇軍』の仲間もついて来てくれた。いずれも旧第一団隊の顔見知りの三人だ。

 

 

「ここでおまえ達に会えるとは思ってもいなかった」

「シッダールタ様、ご無沙汰しております」


 かつての部下と再会し、シッダールタも嬉しそうだった。ダイバダの一味とは、私と二人で対峙する予定だったから、力強い味方を得たことになる。これは嬉しい誤算だった。


 彼らが留守をしている間にカピラ城が落ちてしまったことには、『これほど急とは』と、さすがにショックを隠せない様子だった。だが、いたところで何もできなかっただろうとナダがぽつりと漏らした。


 久しぶりに共に戦地を駆け巡った仲間が揃い、和やかな雰囲気になったのも束の間、暗い空気に包まれた。だが、それに浸っている時間はない。私達は軍議に入った。


「ダイバダ達が砂漠を越えるのは、どんなに早くても三日後だろう」


 私は手書きの地図を広げる。屋敷で最も広いここは、盗賊たちが襲撃の後にバカ騒ぎをする場所だ。ひざ丈くらいの大きな机があるので、そこに地図を広げている。周りを囲む面々は思い思いの椅子に座り、それを穴が開くほど眺めていた。


「私がコーサンビ村のトリファンに教えてもらったのはこの水場までの道筋だ。奴らは必ずここに来る。この水場に寄らずに砂漠を越えることは死を意味する。まあ、ここを通らずに来た奴もいるが……」


 私はちらりとシッダールタに視線を投げた。ヤツは素知らぬ顔をしている。


「いずれにしろ、この棲み処を知られるのは避けたい。物見岩で見張りをたて、奴らの姿を見たら、この場所へ誘導する」


 私は地図上に大きな✕印が記されている場所を指し示した。


「この印はなんの印だ?」


 シッダールタが身を乗り出して、✕印に指を置いた。みな、一応にその場所に注目している。


「この一帯、私達はここを『砂の沼』と呼んでいるのだが、ここは足場が悪いのだ。元はここは湖だったのだが、今はない。しかし水分を多く含んだ砂地で足を取られる。無数の見えない穴があって、はまると出られないこともある危険な場所だ。ここを知る者はむやみに近寄ったりはしない」


「ダイバダ達は弓でくるだろう。接近戦に持ち込みたい私たちには不利じゃないのか?」


 ダイバダ達には大量の毒液があるとみていい。今の季節、天の山にあの花は咲き誇る。持てるだけ持ち返ったと考えるのが妥当だろう。そのため、奴らは接近せずに、毒矢を放り込んでくるというのが大方の予想だ。


「要は、知っているか、否かの差だ」


 私はそう断言する。この場所はしっかりとした足場を必要とする弓にも不利な場所だ。それも計算のうち。だが、このような場所で戦うには、やはり白龍にいて欲しい。誰かを迎えにやろうか。しかし、この少人数で戦う以上、時間に余裕があるとは言い難い。


「こちらも何対か弓矢がいるよな。阿修羅、ここには何本ある?」


 ずっと黙って聞いていたリュージュが声をあげる。


「残念だがあまりない。おまえ、弓を使えるのか?」

「俺は獲物を選ばないが?」


 まあ、おまえなら何でも器用にこなすだろう。シッダールタも弓は問題ない。矢があまりないな。盗賊の仲間には弓を使うものが少なかった。砂漠のような場所では、緊張を持続させる弓は使いづらい。最初に脅しをかけるぐらいで、あとは肉弾戦になるのだ。


「カピラ城が落ちながら、どうやってダイバダが脱出したかはわからないが、大人数で逃げおおせたはずはない。ダイバダの隊は恐らく少数だろう」


 ナダが付け加えた。確かにそうだ。カピラ城は小城だから、城を包囲され一挙に攻められたとしたら、それほど時間はなかっただろう。


「矢を防ぐ盾を用意しよう。まだ時間がある。準備だけは万端にしておかなければな。みな、知恵を出し合え」


 シッダールタが声をかけると、旧カピラ軍兵士たちの顔つきが変わった。よくもこんな身勝手な男のためにここにはせ参じてくれたものだ。

 私は彼らの命も守りたいと心から思った。シッダールタのためにも、彼らを失いたくない。誰一人、ダイバダに()らせはしない。この戦いに私は全てを賭けよう。全ての集中力を注ぎ込み挑んでやる。




 それから昼夜を問わず、物見岩に交代で見張りをする。その間、屋敷では矢避けの盾を作ったり、矢の準備をしたりとその日に備えていた。


 二日目の朝、我楽がやってきて耳も疑う報せを伝えた。ダイバダは城から脱出する際、城内にいた兵士や親族、あろうことか自分の妻子まで毒殺したということだった。敵が雪崩を打って玉座の間に押し寄せた時、そこには重なり合う(おびただ)しい数の遺体があった。敵兵が怯んだすきに奴らはまんまと抜け道を使って脱出した。


 私たちはもちろんその報に絶句したが、シッダールタは色も言葉も失い、険しい表情で屋敷の壁に拳を叩きつけた。生まれた時からあの城に王子として生きてきたのだ。その臣下も親族もダイバダに殺された。怒りに震えるのも当然だ。その日は一日、ほとんど物を言わなかった。意外だったのは、話好きなリュージュもずっと黙りこくっていたことだ。彼にも旧知の人がいたのかもしれない。

 

 我楽の話によると、ダイバダ達一行は砂漠のキャラバンを探しているらしい、彼らに同行して砂漠を越えようとしているのだろう。賢いやり方だ。それによると明日、久々に大きめのキャラバンが印度側から出発するらしい。


「我々で襲撃して、奴らを葬りましょうか」


 我楽が提案してきた。このところ、いつものような狩りができていない。襲撃はしたいだろう。だが、連中は侮れない。


「いや、我楽。奴らは毒を持っているはずだ。おまえたちに何かがあっては私は耐えられない。襲撃するなら、奴らがキャラバンを離れてからにしてくれ。心配するな。私には勝算がある」


 我楽は黙って頷いてくれた。私の気持ちをいつも大事にしてくれる。思えば、おまえが私の父親代わりだったのだな。今頃そんなことに気付くとは、愚かしいことだ。


「必ず、生きてもう一度顔をみせてください」


 今度は私が黙って頷く。その願いに応えられるかどうか、いや、そのつもりがあるのか、私にはわからなかった。



 

 残酷な報がもたらされてから二日後の夜、順調であれば、そろそろ奴らが例の水場に着くころだ。私達は日増しに高まる緊張感のもと、物見岩に出張っていた。今夜は動きがありそうなので、私とシッダールタ、そしてナダの三人で詰めている。


 シッダールタが見張りの当番に加わることを、シッダールタ以外の全員が反対した。だが、奴が折れなかった。もう王でも王子でもない。この戦いは元はと言えば自分の私情に絡んだこと。同じように扱って欲しいと主張した。


「阿修羅、夜は長い。少し眠っておけ」


 物見岩での見張り、夜は一晩を徹する。昼間は長時間もたないので、一人ずつでこまめに交代するため、誰もが寝不足なのは否めない。涼しいこの時間は確かに瞼が重くなる。私は仮眠を取るために岩の下まで降りた。こんな緊張した場面でも眠らなければならない時は眠る。ちょうど良い感じの窪みに身を押し込んで岩にもたれて目を閉じる。


 私は夢も見ずに眠った。そうは言っても、おそらく半時も眠っていないだろう。ナダとシッダールタの絞った話声が私の耳に届く。ゆうるりと脳が目覚めていく。


「夜は冷えるな」

「シッダールタ様。なにも貴方がここで見張らなくても」


 奴らが二人きりで話すことはあまりなかったかもしれない。別に取り立てて好奇心があったわけではなかったが、私は寝たふりを続け耳を側立てた。


「私はもう王でも王子でもない。ただの裏切り者だ」

「そのようなことは!」


 そう言いかけて、ナダが黙り込む。あいつの苦悩に満ちた顔を想像する。私達がカピラを捨ててからの惨劇は、リュージュから聞いていた。もう第一団隊の仲間は、そのほとんどがこの世にいない。


「いい、わかっている。ナダ、おまえにも苦労をかけた。すまなかったではすまんが……」

「シッダールタ様。ダイバダを倒した後には、どうぞカピラにお戻りください。そしてもう一度カピラ国を!」


 私はナダの言葉に思わず身を起こしそうになった。だが、私は自分の体を押さえつけ、さらに耳を澄ました。シッダールタがどう言うのか、奴が本心を言うかどうかはわからないが、出来ればあいつの本音を聞きたかった。



「この砂漠で一度は死にかけたが、阿修羅達のお陰で息を吹き返すことができた。それからずっと考えていた。どうしたらよいか。私はこれからどうすれば良いか」


 不自然な沈黙が訪れた。私は窪みからそっと身を出して、岩の上で話す二人の背中を見上げる。ナダの大きな背中とシッダールタの逞しい背中が、少し距離を置いて並んでいる。さらのその上には、零れるような星が空に瞬いていた。明日も熱波がこの地を襲いそうだ。


「ナダ、私は今までひたすら前だけを見て走り続けてきた」


 長い沈黙の後、シッダールタが話し始めた。私は再び身を落ち着かせて聞き入った。


「初めはあの腹立たしい予言に歯向かうため。私の人生を決めつける輩に自分の意志をぶつけて、思い通りに行かないことを思い知らせてやりたかった。それはそれで楽しかった。思うように兵を動かし、勝利も掴んだ」


 ナダも何も言わずにシッダールタの台詞を追っている。あいつの欲しい答えを捕まえるために。


「だが、阿修羅と会ってからは、私はただあいつを失いたくなくて、あいつを傍にとどめていたくて。ただそれだけのために戦っていた。そんな気がする。愚かだと思うだろうが……」


 私のために? おまえ、それがおまえの本心なのか。もしそうなら、本当に愚かだな。でもこれは、なんて残酷な告白だろう。ナダにとっても、私にとっても……。でも、それでも私は……。


「シッダールタ様……。男なんて、そんなものですよ……」


 ナダの諦めとも慰めとも取れない言の葉が、枯れ葉のように風に流れていく。絶望的な答えだったにも関わらず、何故かナダが笑っているような気がした。


「そうかもしれんな……」


 カピラの民を思いはせているのかシッダールタ。私との約束は人々を、おまえの親しい人々をどれほど葬ってしまったのか? 


 私はあいつの心の中を推し量る。ナダにだからこそ、つい弱音を吐いたのだろうか。それともこれがあいつの本音か? 私に見せる強いおまえは虚勢を張っているのか? まさか、ヴィルーダカに首を捧げようとか考えていないだろうな? おまえも二人生きられないのなら、自らを犠牲にして私を生かそうなどと考えてはいないだろうな? そんなことはさせない。絶対に。


 訪れた沈黙に、音もなく時が流れていく。私はひざを抱え、ぼんやりと夜空を流れる銀河を眺める。星の河を北へと辿っていくと、いつしか黒くぬりつぶしたような天の山の稜線に行きつく。ふいに自分がとてつもなく小さな存在に思えて身震いした。



「シッダールタ様! あれを!」

「ん!」


 巡らす思考を突然斬り落とす、ナダの鬼気迫る声が響く。私は窪みから飛び出して、物見岩に駆け上る。それに気が付いたシッダールタが振り向きざまに言った。


「阿修羅、起きたのか。奴らだ」


 シッダールタが指さす方を見ると、はるか遠くにチラチラと炎が見え隠れする。距離からして、馬で一時ほどか。ちょうど水場のあたりだ。近づいてこないところを見ると、あそこで夜営するつもりだろう。


「ナダ、夜明け前に決行だ。みなに知らせてきてくれ」

「承知」


 ナダは物見岩を駆け下りると、馬を駆って隠れ家へと走った。




挿絵(By みてみん)


イラストは青羽様から頂きました。

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