第二十一章 シッダールタの章7 永遠の一瞬
だからこそ、おまえを抱く。
空には隙間がないくらいに星々が輝いている。月がまだ姿を見せないのをいいことに、今にも落ちてきそうな星々が我先に輝きを放っている。あれほどに星空は明るいのに、なぜここには届かないのか。人の住まぬ隠れ家の周りは漆黒の夜だ。
私は砂漠を彷徨っているころ幾度も見上げた星空を、今はこうして生きて眺められることに感謝した。毎晩見上げる星空に、会えぬ苛立ちから悪態を吐いたこともあったが、この星空のおかげで自分の位置を確かめることもできた。考えてみれば、一度も砂嵐に遭遇しなかった。そのための対処も聞いてはいたが、いざ砂漠に足を踏み入れたら、とても無理なことだと思い知った。自分の強運を今度ばかりは有難く思う。
私は誰もいなくなった屋敷に戻ると、鍛錬でかいた汗を布で拭う。しんと静まり返った夜のはずが、馬の蹄の音と嘶きが聞こえる。誰か来たのか? まさか、阿修羅はまだのはずだ。
用心のために私は剣を持ち、物陰に隠れた。だが、すぐにその必要がないことがわかる。
「シッダールタ! 無事か?!」
扉を開けるのももどかしく飛び込んで来たのは、長い黒髪をつむじの位置で束ね、しなやかな肢体をさらす美しい人だった。
「阿修羅、早かったな。どうした、そんなに慌てて?」
私は剣から手を放し、左右を見渡す彼女に声をかけた。
「ああ、シッダールタ、無事だったか」
彼女は私の顔を見るなり、安堵の表情を見せた。彼女のこのような表情を見るのは、マガダでの最終戦以来のような気がする。私を心配してくれていたようだ。胸の奥がジンと熱くなるのを感じる。その熱は瞬く間に体絶対を覆っていく。
しかし、その表情から察するにただ事ではなさそうだ。私にも凶報がある。いよいよ時が迫っているのか?
「どうした。何か、あったのか?」
「ああ……。ダイバダにここの場所が知れてしまった。私のミスだ。あれ? 我楽達はどうしたのだ? 奴らは夜盗はやらないはずだが」
阿修羅は隠れ家がもぬけの殻なのにようやく気が付いたようだ。炊事場で水を飲んでいるので、私は用意した食べ物を彼女の前に並べた。
「我楽達には、他の隠れ家に移ってもらったのだ。私が頼んだ。こちらにも話さなければならないことがあってな。まずは落ち着け、これを食べろ」
「え? おまえが用意してくれたのか。助かる。この二日ろくに食べていない」
阿修羅は私が見繕っておいた食物を手に取り、よほどお腹が空いていたのかしばらくは物も言わずに食べていた。
二日も飲まず食わずで翔けてきたのだから当たり前か。聞けば白龍を近隣の村に置いてきたという。阿修羅にとって大切な存在である白龍まで置いてきたとは。私は胸に迫るものを感じた。それほどに危険を感じたのか。
確かに……、彼女の本能なのだろうか。それは、正しかった。
「昨日、カピラ城が墜ちた。ダイバダは側近たちと脱出したそうだ」
私の言葉に阿修羅はさすがに一瞬動きを止めた。飲んでいた水をごくりと飲み干す。
「そうなのか……。カピラが落ちたか……。あいつは生き延びたのだな。くると思うか? このようなところ、よほどの執念がなければ届かないと思うが」
残念ながら、ダイバダという男を幼い頃から見知っていた私は、これだけは確信を持って言えた。
「来るな。ここへの道筋を得たのであれば、それは確実に。執念は、あいつの代名詞みたいなものだからな」
阿修羅は目をどこかに泳がせている。何かを考えているようだ。ダイバダの襲来を想定しての作戦を既に練っているのだろうか?
しかし、阿修羅からは朗報も聞くことができた。あのコーサンビ村で、まさかのナダやリュージュ達と再会したという。話によると、連中はとうに軍を脱走し、義勇軍を名乗っているという。なるほど、カピラ軍が脆いわけだ。酷い目にあったようだな。
ダイバダめ。期待にそぐわぬ愚策ばかりしやがる。これも私という存在を忌み嫌うからなのだろうが。なぜそれほどに私を憎むのか、そこのところが理解に苦しむのだが、国政や民達を全く無視した施政。愚かにもほどがある。やはり、こいつだけは生かしておけない。
それはそれとして、リュージュ達がここに来るまで、まだ少し猶予があるだろう。私はその前に、二人だけでここにいる間に、確かめておきたいことがあった。
「では、今しかないな」
ダイバダがこの砂漠を目指したとしても、まだ数日の猶予があるだろう。だが、元部下達が集ってからでは遅い。
「え? 何がだ?」
私はきょとんとする阿修羅の腕を掴むと乱暴に引き寄せた。
「おい! 何をする……!」
そして有無も言わさず口づけた。阿修羅は猫のように両腕を立てて必死の抵抗、私の胸板を押す。
「おまえ、今がどういう時だかわかっているのか? 敵がすぐ来るわけではないとしても……」
だが、こんな抵抗に私は構ってはいられない。
「きゃっ!」
阿修羅をひょいと抱き上げると部屋に連れて行く。軽い彼女の体だが、抱きかかえるまで体力が戻っていてよかった。そしてぽいっと寝床に放ると起き上がる隙をあたえず覆いかぶさった。
「わかっている。だからこそおまえを抱く」
私は阿修羅の頬を両手で包みこむ。きらきらと輝く黒曜石の双眸が私を見つめている。
「時間がないんだ。わかっているだろう?」
阿修羅は私の言葉にわかりやすく反応した。大きな目をさらに大きく見開き、桃色の唇を震わせて、「それは……」と答えた。
私は答えを待たずに再び彼女の唇を塞ぐ。そしてゆっくりと彼女の舌を絡みとる。
「あ……」
首筋に舌を這わせると、阿修羅の声が私の耳に届く。私は勇猛な獣になったように全身に血が滾り、火の中にいるように熱くなった。
私の肩が、腕が、手のひらが、指が、阿修羅のしなやかな肌を貪る。彼女の両手が私の背中を抱え込み爪を立ててくる。私は心地よい痛みと溢れる思いに声を漏らし、彼女の名を呼んだ。
「阿修羅……」
その声に呼応するように、阿修羅は自らの体を引き寄せ……、
「愛している……。会いたかった……、本当に。おまえと離れたくなんてなかったんだ……」
熱に浮かされたようにそう言った。私がずっと聞きたかったことかもしれない。私は何度も頷いた。おまえの心を私はこの瞬間に留めよう。この一瞬は永遠だ。
夜が深まり、小さな馬の嘶きが聞こえるだけの静かな隠れ家。何もかもを忘却の中へと流し込んだ私たちは、愛と熱に身を任せ、ただ飲まれていった。
第二十一章 シッダールタの章7 了 次章に続く。




