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第二十一章 シッダールタの章7 運命(さだめ)

一人隠れ家で待つシッダールタ。


 その夢の中、阿修羅は暗闇の世界にいた。一人きりで。そして何か得体の知れない者を斬り捨てていた。私は慌てて駆け寄って、加勢しようとしたのだ。そうしたら……。


「来るな! ここは私の場所だ! おまえはおまえのすべきことをしろ!」


 私はその声にはっとして目が覚めた。目覚めた視線の先には、狂おしいほど会いたいと願ったおまえが眠っていた。

 

 この話をなぜかおまえにはできなかった。おまえを見つけたと言ったが、見つけたおまえに拒絶された。この暗示めいたおまえの言葉も、私には心に深く刺さった。おまえは、あの暗闇の中で、たった一人で、何をしていたのだ?




 阿修羅がコーサンビ村に向かって屋敷を発ってから、私は自分の体力を回復させるべく動き出した。カピラ城が危なくなっていると聞き、やはり心は動揺している。何もかも捨てて逃げだしたというのに、往生際が悪いとはこのことだろう。


 今や私もカピラを捨てた大罪人だ。国は危機に瀕している。コーサラのヴィルーダガ王が再度カピラを属国にし、カピラの民を苦しめるのであれば、何とかしたいと願う気持ちはある。だが、私の首を差し出すことで民が平和に暮らせるのか? そんな甘い話でもあるまい。


 だから、その甘言を信じたダイバダの手に掛かるのはごめんだ。あいつは王でありながら、国を治めることが出来なかった。もう少しマシな奴だと思っていたのに残念だ。あいつは城が落ちたらどうするのだろう。潔く自害でもするか。それとも逃げ出すのか。


 私はダイバダが私を探していると聞いてから、ずっと嫌な予感がしている。何もかもが裏目に出た時、あの男は本能だけで行動するのではないか。本能。つまり、私への復讐だ。

 昔からダイバダに恨まれているのは知っているが、理由がわからない。わからないことで殺されるのはやはり面白くない。あいつが来るなら、迎え撃ってやる。


 一人でいると、脳裏に色々なことが浮かんでは消えて私を不安にさせる。私は気分転換も兼ねて山の麓にある、例の冷水を取る場所に行ってみた。馬を借り、北に向かって走る。越えられない壁のように立ちはだかる山々の、冷たい空気が肌を刺すようになると景色は一変する。泉は山道から少し離れた、木々に囲まれたなかにひっそりとあった。山の恵みである雪解けの水を滾々(こんこん)と湛えていた。


 私は阿修羅が用意してくれた衣服に、盗賊たちが着けている軽い武具を付けていた。なかなか動きやすくて機能的だ。泉から水をくみ上げ、桶に移す、それを馬に取りつける。単純作業ではあるが、重労働だ。久しぶりに自分の体を酷使すると、なんだか楽しくなってきた。剣を振るったり、単純だが腕立て伏せや腹筋をすることで汗をかくと気持ちが良い。


 私はもう阿修羅と離れたくない。それを邪魔をするものは片っ端から片付けてやる。あいつが帰ってきたらそう言おう。どんな生き方でも構わない。私に大切なのは、おまえと生きることだ。


 二日目の夕方、私はまた水汲みに行く。冷たい水に手がしびれるがこれも気持ちがいい。鼻歌の一つも飛び出しそうに上機嫌でやっていると、不意に誰かに声を掛けられた。


「シッダールタ殿」

「誰だ!」


 文字通り冷や水を浴びたように、私は身構えた。こんなところに追手なのか敵なのか。誰が来たのだ。だが、そこに立っていたのは、どこかで見たことのあるような老いた修行僧だった。


「なんだ、爺さん。私は忙しいし、シッダールタとかいう名前ももう何の意味ももたない」


 私の言葉に修行僧は口元を歪めて笑った。


「あなたは、本当に昔のままだ。私達の言葉には耳を傾けようとしない」


 今度は私が笑う番だった。


「おまえ達の言葉? それは何か、あの、救世主とか仏陀とかそういうのか? それならもうお腹いっぱいだ。間に合っているからさっさと帰られよ。直に暗くなる」


 修行僧はその場を去ろうとせず、なおも私に話しかけてくる。老人に手荒な真似はしたくはないが、折角のいい気分を邪魔されて、不愉快だ。


「それでは新たな預言を残していきましょう。アシタの名のもとに」


 私はその名に反応した。無視するつもりだが、そうもいかないらしい。本気か冗談か知らないが、その名には私なりに思うところがある。


「私の前によく現れたものだな。おまえの世迷言など、もう誰も信じてはおらん。私は国も民も捨てた罪人だ」


 馬に荷を乗せ終わった私は、老人に向き合った。老人は小さな祠の前に杖をついて立っている。山の夕暮れは落ちるのが早い。もう辺りは暗くなってきた。


「そうですね。阿修羅のために全てを捨てなさった。ですが、貴方様と阿修羅は共に生きること、できませぬ」


 聞き捨てならない事を言う。胸の古傷をぐいぐいと抉るような嫌な痛みを伴う。だが、私は吐き出したい気色の悪さに耐えて、平静を装った。


「なんだと。ふん、言うに事欠いて、よくもそんなことが言えたものだ。その嘘しか出て来ない口を閉じろ。滅多なことを言うなら、老人とて容赦はしない」


 こいつの戯言など、誰ももう信じない。だが、それでも言葉にして欲しくないことだ。それだけは絶対に、私の心が受け付けない! それがわかっていて、この男は、『アシタ』は言うのか? たしかにこの男、どこかで会ったことがある。四門出遊の北門で立っていた僧だったか? それとも七歳の誕生日に来ていた僧だったか?


「それが運命(さだめ)です」


 その言葉が発されると同時に、私の中で何かが音をたてて切れた。大げさでも何でもなく派手な音が聞こえた。私はアシタに躊躇なく掴みかかり、喉元を締めた。


「ふざけるな! 私が今までおまえたちのその愚かな『運命』とやらに逆らうため、どれほどの時を費やしたか! 何が救世主だ、何が災いの子だ! 私の人生は私のものだ! 大体おまえ達の大嘘が、私と阿修羅を引き裂いた!」


 そう叫ぶと乱暴に『アシタ』の体を突き離す。老僧はたまらずよろけたが、辛うじて杖を突いて転ぶのを回避した。


「阿修羅は……わかっています」

「な、なんだと? おまえ、まさか阿修羅にも何か言ったのか!? 許さん、許さんぞ! おまえ!」


 アシタと名乗る僧がゲホゲホ咳き込むのも構わず、私は再度その男に詰め寄ると襟首をつかむ。


「あいつに何を言った。阿修羅は何も悪くない。私はあいつをもう離さない。ずっと一緒に生きると決めたのだ。おまえたちに二度と邪魔はさせない!」


 胸のなかがざわついて仕方がない。嫌な予感、不確かな未来、そんな否定的な全ての思惑が私の胸に去来しては体全体を覆っていく。それはどんどんと膨れ上がり、手も付けられないほど重く大きくなって私を潰そうとする。もうご免だ! 私を解放してくれ! 私は何者でもない。一人の女を愛するだけのただの男だ!


「阿修羅を殺すも生かすも貴方次第です。いいでしょう。預言など戯言かもしれない。でも、これだけは覚えておいてください。阿修羅を地獄から救えるのは貴方だけです」


 地獄から、救う? 阿修羅を? 救われているのは私の方だ。ずっとあいつに救われてきたのだ……。


 私は力が抜けるように男から手を放し、その場に膝を折った。アシタと名乗った男は襟元を直し、咳を一つする。


「最後に。これは預言ではなく、情報です。カピラ城が落ちました。ダイバダ王は城を脱出したそうです」


 私は再びその男を見上げる。だが、もう姿はなかった。そこには小石が積まれた祠が湧き出る泉の音を聞いているだけだった。




 翌日、我楽が私に伝えたのは全く同じ話だった。ここにきて、盗賊たちの情報の速さに改めて驚いた。


「いえ、今回はさすがに事が大きい。伝わるのも速かったのだと思います。北印度からの逃げてくる民が増えています。情報は難民からのものです」


「そうか……。」


 昨日の『アシタ』のお陰で、私は鍛錬にも拍車がかかった。屋敷に連なる馬小屋の前で、私は一人剣を素振りしていた。我楽はそこにやってきて、私に情報を聞かせてくれた。私は体を拭きながら、我楽の話に耳をすませる。我楽はそこいらの座りのいい石に腰掛けた。


「ずいぶんと血色がよくなられましたな。ここに来られた時とは見違えるようです」

「いや、此度は本当に世話になった。改めて礼を言う」

 

 私は深々と頭を下げる。ボロ布のような姿でここに辿り着いて、ひと月。虫けら同然の私を彼らはどう思っていたのか。


「礼には及びません。私らは阿修羅王の希望に沿ったまでです」


 我楽は私の目を見てそう答える。私もその目を逸らさずに頷いた。ここでの阿修羅は絶対的な存在だった。王と言う名に恥じない強さと賢さに尊敬を集めている。ここで暮らしてみて初めて、彼女の存在がどれほど稀有なものであるかを感ぜずにおれなかった。もしも、もしも彼女がカピラ城で生を受けていたのなら、まこと『聖王』か『仏陀』かと言われたのは、彼女の方ではなかったかと思うほどだ。


「我楽、盗賊たちの隠れ家は、ここだけだろうか?」


 私はダイバダが城を脱出したと知った時から、ずっと考えていたことを口にした。我楽は右の眉を少し上げた。


「何故、そのようなことを?」

「貴殿の情報にあった、ダイバダという男は私の仇敵だ。あの男は執念の塊のような男でな。そのためにカピラ国も失ったような愚か者だ」


 ダイバダは私に(こだわ)るがために、国の(まつりごと)を過ったのだろう。私はそんな気がしていた。我楽は黙って聞いている。馬小屋では馬たちが、誰かに餌をもらっているようだ。焦るような嘶きが漏れ聞こえてくる。


「そいつはもしかしたら、この砂漠の果てにもたどり着くかもしれない。もし、もしそうなったら、私はもうこの因縁をいい加減断ち切りたい。逃げずに迎え撃ちたいのだ」


「ならば、私達も加勢しましょう」


 まんざら世辞でもない申し出だった。だが、それはできない相談だ。何の因果で全く私的な戦に加勢してもらえようか。


「そんなことをしたら、阿修羅に怒られてしまう。これは本当に私的な怨恨だ。ダイバダもそう味方がいるわけではない。我ら二人で対処しなくてはな」


 その時はまだ、この情報の持つ本当の意味を私は知らなかった。あいつがここに辿り着くというのも、半信半疑であったし。


「我楽達に迷惑を掛けたくない。もし他にも隠れ家があるのなら、しばらくそちらに移っていて欲しいのだ。それほど長くはかからないと思っている」


 我楽は不承不承ながら、頷いてくれた。隠れ家は他に何カ所かあるらしい。さすが『流沙の阿修羅』の盗賊団だ。


「事が済んだら、シッダールタ殿はどうされるのですか? カピラに戻って、お国と民を取り返されるのですか?」


 私はぎくりとした。全ての憂いを除いたら、私はどうするのか。いや、憂いを除くのは次に進みたいからに相違ない。その次とはなにか?


「阿修羅王も……。連れて行かれるのですよね……?」


 私の答えを待たずに我楽が重ねて尋ねた。彼にとっては私の『次』よりも、阿修羅がどうなるかの方がはるかに大事だろう。


「我楽、すまない。何もまだ決まってはいない。だが、私はおまえ達の王を離すつもりはない。どうなろうと、共にいる」


 我楽は小さな息を吐くと、口の端を上げて頷いた。そしてゆっくりと立ち上がり、嘶きが止んで静かになった馬小屋へと歩いて行った。


 目の前には、乾いた土に耐え根を下ろす、木々の葉が風に揺れている。細かい小石と砂が入り混じる荒地に、小さな花をつけた雑草が色を添える。今、ここの季節はいつなのだろう。


 私が捨てたカピラでは、もう花の季節は終わった頃だ。戦に疲れた人々を癒す時が、また訪れることを私は祈った。そんな価値もない存在になったと知りながら。




 その日のうちに、我楽達は『春の館』と彼らが呼ぶ隠れ家に移っていった。我楽は私のために馬を一頭置いていってくれた。私が何度か騎乗した、頭の良い丈夫な馬だ。今や逆立ちしても何も落ちてこない私には過ぎたものだったが、今後どう転んでも必須なもの。有難く頂戴した。


 阿修羅がここを発って三日目。帰りは明日ぐらいだろうと思い、屋敷の炊事場をうろうろしてみる。ここでの食事は異国情緒満載だ。初めて食すものもあったが、どれも味が濃く、美味しかった。体に力が付くのを身に染みて感じたものだ。

 私はそのなかで、阿修羅が好きそうな食べ物を選んで籠に入れ、部屋に運んだ。これであいつが腹をすかして帰ってきても、すぐに食べられる。なんだか所帯じみてるな。そう思うとこんな危機的な場面でありながら、笑みがこぼれてきた。


 夕暮れどきとなり、いくぶん過ごしやすい気温になってきた。私は暗闇が訪れるまえにひと汗流そうと屋敷の外に出る。まだ砂漠の方から吹き込む生暖かい風が健在だが、このくらいなら大丈夫だろう。辺りが闇に包まれるまで、私は懸命に剣を振った。この先に訪れる不確かで不安な道を打ち消すように。





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