第二十章 阿修羅の章5 もう一つの再会
私は白龍と共に山道を急いでいた。コーサンビ村に向かうためだ。シッダールタが元気になったとはいえ、のんびりするわけにはいかない。ヤツの体もそうだが、カピラ国の状況も気になる。情報はどうしても時間差がある。ここで聞いたことは、一週間前の出来事と思わなくてはならない。
最後に聞いたのは、ヴィルーダガの軍がカピラヴァストゥに迫っているという情報とダイバダがシッダールタを探しているという噂。あまり嬉しくないことばかりだ。リュージュやナダはどうしているのだろう? あいつらがいてヴィルーダガが抑えられないとは、もう軍が機能していないということだ。
私は飛ぶように翔ける白龍の背で、一年前にここを泣きながら走ったことを思い出す。向かった先は逆方向だが。まさかあの時は、こんな日を迎えるとは思ってもいなかった。酷く傷つき、生きる屍のようだった。あいつが迎えに来ることをどこかで願っていたとしても、それが叶うとは思っていなかった。
あと一時もすれば村に着く。ほとんど休みなしでここまで来た。そう思った頃だ。それまで快調に走っていた白龍がふいに速度を落とし、脚を止めた。
「どうした? 疲れたのか? ……」
さすがだな。白龍。気が付いたのか。
私達は囲まれていた。姿は隠れているが、隠しようの無い殺気が山道を覆っている。この場所から、私が山道を登ってくるのが見えたのだろう。待ち伏せされたということか。
天の山の山道は大きな木は少ない。この辺りはかなり高度も高いので、大きな木は生えないのだ。頼りない細い白い木々とがけ崩れで落ちてきたような大きな石や岩がゴロゴロしている。
その岩陰や木々の間から、見覚えのある武具を付けた数人の兵士がニヤニヤしながら現れた。山賊かと思ったが、全くあてが外れた。
「何の用だ。私は急いでいる」
なぜここに? 一体なにが起こっている。人数は、六人か。こんな人数で親衛隊がこんなところで何をしているのだ?
「久しぶりに見るな。天の山の印か。貴様ら、ダイバダの手の者か」
馬はどこかに繋いでいるのだろう。確かにこの細くて足場の悪い道では、騎馬戦は得策ではない。さて、この私をたかが六人で取り囲んでいる奴らを、どうしてやるかな。
「おまえは阿修羅だな?」
こいつが隊長か。顔を一見するが見覚えはない。だが、向こうはもちろん私の顔を知っているだろう。毛艶美しい白馬白龍のことも。私は白龍の耳元で囁いた。
「白龍、おまえは先に行け。わかっているだろう?」
白龍が短く嘶く。私はすっと右手を馬の背につき、宙を舞って地上に降りた。途端、白馬は敵兵を蹴散らすように走り抜けていく。いつもながら賢い馬だ。
「カピラ国を陥れた極悪人、阿修羅! 覚悟しろ!」
私は周りを眺める。岩やら木々やらで動きは著しく制限されそうだ。だが、さほど障害にもならないだろう。むしろ久しぶりの戦闘に血が沸き立ってくる。この感じ、ついぞ忘れていた感覚だな。
「極悪人か……。落ちたもんだな」
私は唇の端で笑う。コラ、今決め顔してるのに気の早い奴だな! 私は斬りかかってくる兵士の刃をするりとかわし、足で思い切り蹴飛ばした。
「ギャッ!」
すばやく背中の剣を抜く。取り囲む兵士がそれと感じる間もなく斬り倒す。
山肌や岩を飛び、時には斬り殺した兵士の肩を踏み台にまさに一陣の風のごとく舞う。さあ、次はどいつだ? まるで踊るような高揚感を得て、私は剣を振う。奴らの眼前に現れたと同時に絶命させていった。影すら見えなかったかもな。
「うわ! うわ!」
背後に声がする。腰が引けているのか。哀れだな。必死の形相で私に何かを訴えているが、そんなものは何の役にも立ちはしない。四人目、五人目。おまえも味方の兵士が死にゆくのを見てるばかりでは辛かろう。
私の刃におのれの獲物を叩きつけることすらできない奴ら。六人いようと敵ではない。私は一方的に粉砕していった。
私は隊長らしい男に迫る。既に奴は剣さえ持てないが、息はある。もちろん話を聞くために残しておいたのだ。
「どうしてここにいる。答えなければその首を落とす」
私は剣先をそいつの喉元に突きつける。ダイバダの親衛隊、その一部隊の隊長だろう。腕も大したこともなければ忠心もさほどない。すぐにも口を割ると踏んだ。
「ここへは、王の命令で来ただけだ。まさかおまえに会うとは思いもよらなかった」
「ふん。で、その王の命令とは。まさか山登りをしろと言われたわけでもあるまい」
私は男の肩に深く付けられた傷口をぐいぐいと踏む。
「う、うぎゃ、や、やめろ。花だ。花を取りに来たんだ! この地方に咲く青い花!」
青い花? それは、まさか……。私達の隠れ家の背後にある山にも、高い所に行けばそれは咲いていた。季節は限られているが、暑い地方では育たない。それをわざわざここに採りに来ただと? ダイバダ、貴様、おまえ何を考えている!
「そ、そしたら、面白いことがわかった。ここがおまえの故郷だったと……」
故郷だと? 何を勘違いしているのか! 私は兵士を睨む。だがもう虫の息だ。傷口を再度踏んでも反応がない。こいつからの情報は取れなさそうだった。
「情けだ。受け取れ」
私は剣を奴の胸に突き刺す。兵士はびくんと体を大きく揺らすと息絶えた。
まずい。村はどうなっているのだ! 急がなければ。青い花と言ってもこいつらは持っていない。まだ仲間がいるはずだ。
私は近くに繋がれていた奴らの馬を見つけると、コーサンビ村へと急いだ。
違う馬に乗ると、白龍の凄さを改めて思い知る。あいつは速いだけでない。乗り手に負担をかけない走りをする。ぶれないのだ。軸がぶれずに滑るように走るので、長時間乗っていても疲れない。飛ぶように翔け抜ける。まさに天馬のようだ。
ようやく村が見えてくる。やはり何かあったのだ。漂ってくる煙は煮焚だけではありえない量だ。私はより一層馬を走らせた。
「何?! 嘘!?」
白龍が見えた。私は安堵する。あいつのことだから大丈夫だとは思ったが、言葉が通じるわけではない。ちゃんと伝わっていたことに安心した。しかし、驚いたのはそれではない。白龍とともにいる、あの懐かしい人影は……! 私は馬から飛び降りた。
「阿修羅! 夢じゃないよな!」
ああ! それは私のセリフだ!
「リュージュ! ナダ!」
思わず駆け寄り、そのまま二人にダイブした。ごちゃごちゃの頭の中、なぜここにこいつらがいるのか見当もつかない。だがただただ嬉しい。恰好から察するに、既にカピラ軍の兵士ではないのか?
「どうしてここに?!」
私たちは同時に同じ質問を叫んだ。だが、今はそれを解くよりも優先すべきことがあった。
「話せば長くなる。一体これはどういうことだ?」
私は村を見渡す。良く見れば、煙はくすぶっているものの、火は既に消されている。すぐそこにけが人を手当てするヤーセナの姿が見えた。
「あ、ちょっとすまない。ヤーセナ!」
私は興奮するナダとリュージュをなだめて、ヤーセナのところに向かった。二人も私の後を付いてくる。
「阿修羅殿。白龍の姿が見えたから、来るとは思っておりましたが。こちらのお二人とはお知り合いなのですか?」
「そうだ。ここで会ったのは偶然だ。何がどうなってるのか全くわからない。一体なにが起こったのだ?」
「私の家でお待ちください。ここももう大丈夫。すぐ参りますから」
私たちはヤーセナの診療所で彼を待った。以前に来た時、壁や棚に整然と並べられた薬瓶や道具は無残に割れ、床に転がっている。足の踏み場がないほど中は荒らされていた。
リュージュの話によると、こいつらは軍を脱走して今は義勇軍になっているという。こいつはともかくナダまで、しかも軍の司令とは驚いた。ダイバダ配下になってから、随分と苦渋を舐めたようだ。苦労したのだな。仲間もたくさん戦死したという。
親衛隊を追ったのはカピラ落城も近いというのに、城を出るのが気になり追って来たという。そうか、カピラ城はもう落城が近いのか。と私は別のことが気になっていた。
「青い花を採取しに来ていたようです」
診療所に戻ったヤーセナがぽつぽつ話し出す。かがんで床に散らばるかけらを拾い集めている。
「今の季節、この村のさらに上へと登ったところに群生地があるのです。採取は慣れた登山家でなければ難しいのですが、彼らは大量に採取していました。専門の者がいたのでしょうね」
「青い花というのは、毒花のことですな。確かに王の周辺にはその分野に長けた者がいます。物騒な武器ですから」
ナダが答えた。文字通り青い花を咲かせるこれは、根を中心に花、茎、葉まで毒性を持つ強力な毒花だ。毒性もかなり強い。古来から矢じりや刃に塗って敵を死に至らしめる戦法を取られている。そしてもう一つこれの有効な使い方が暗殺だ。毒殺するのにこれほど有効なものはない。無味無臭で、摂取すればたちどころに息ができなくなり絶命する。私がスッドーダナ王と対峙したとき、思い浮かんだのはこの毒だ。
「ダイバダは一体何に使うつもりだ……」
私は独り言のように呟いた。思いつくことはもちろんあるが、それを言葉にしたくなかった。
「ところが、どこで聞きつけたのか、親衛隊は、ここに阿修羅殿が立ち寄ったことを知って、今どこにいるのか村人たちを襲いだしたのです。途中から、略奪そのものを楽しんでいたようですが」
「そこに俺らが到着したんだよ。もう少し早ければ無傷に済んだろうけど……」
「いえいえ、助かりました。お陰で皆無事でした」
ヤーセナは大方を片付け、自分も椅子に座った。長い白髭を手で梳くように撫ぜると、にこりと笑った。
「心配ないよ。全員俺らが叩き斬ったから。第一ここの人たち、おまえの今の居場所なんて知らないだろう?」
リュージュの言葉に私ははっと息を飲む。
「待て。私はここから馬で一時ほどのところで親衛隊と出くわした。あいつらはどこに行くつもりだったのだ? それに青い花を奴らは持っていなかった。リュージュ、おまえ達が殺った奴らも持っていなかったのだろう?」
「だから! 全員殺してしまうなど!」
ナダが思わず叫ぶのを私が右手で制した。もう済んだことはいい。今、胸に去来する大きな不安が先だ。
「ヤーセナ!?」
私の問いかけにヤーセナは顔色を変えた。
「そう言えば、襲撃されたとき、トリファンの姿が見えなかった。上に登ると言っていた……」
トリファンというのは、私に砂漠への道行きを教えてくれた村人だ。若い頃は天の山から南インド、西の国と世界を歩いて旅したと言う……。
「戻る! 付いてきたいのなら来い。シッダールタもそこにいる」
私はそれだけ言い残すと、白龍のもとへと走った。リュージュとナダの二人が慌てて追ってくる音を背中で聞く。結局目的は全く果たせなかったが、それどころではない。下手をすれば……。
トルファンも私達の隠れ家を知っているわけではない。絶対に明かせない場所だ。私もそれほど愚かではない。だが、目印となる水場までの行き方を教えてもらった。
水場は我々も襲撃の前後に立ち寄ることがある。そのそばには例の物見岩もあるのだ。まさか、こんなところで綻びができるとは。やはり迂闊すぎた。たとえカピラを去ったあの時、自暴自棄になり、もうどうでもいいと思っていたとしても。
ダイバダに知られたかもしれない。奴は来るのか? シッダールタを探して。
リュージュ達の話では、カピラは落城が近いとのことだった。そんな時にのこのこ都を離れられるのだから、義勇軍とは名前だけ、力を持っていないのだと私は思う。そうなればヴィルーダガ率いる旧コーサラ軍の勢いを止めるものは何もない。ダイバダはどうでる?
もしもあの狡猾な王が、一計を講じて自らの命を長らえたら? 得体の知れない男だからこそ、胸騒ぎがする。それだけではない。カピラが落ちてダイバダが殺されても、代わりにヴィルーダカが来るかもしれない。
私はつい今しがた走った道を猛る速さで遡る。白龍は衰えぬ脚力で疾走していた。すぐにも奴らが来るはずないとわかっていても、不安でどうしようもなかった。
とにかく急がなくては。あいつの元気な笑顔を見るまでは、止まることはできない。白龍、疲れているのはわかっている。でも、おまえなら出来るだろう? 頼む、一秒でも早く、私をヤツのところに運んでくれ。
私は夜も徹して白龍を走らせた。しかし、そんな無理がいつまでも続くわけがない。あと半日ほどで屋敷が見える、もうすぐだ。とそう思った時、突如として白龍が脚を止めた。突然一歩も歩けなくなったのだ。私は慌てて飛び降りる。
「白龍、どうしたのだ? もう走れないのか?」
私は持っていた水を白龍に飲ませた。所どころにある水場で汲んでいたものだ。荒い息をしながら白龍は飲み干す。私は彼の首筋をゆっくりと撫ぜる。立っているのが精一杯なのか、四脚は小刻みに震えていた。
「白龍。すまん。おまえにばかり無理をさせているな」
美しい毛並みに頬を寄せると、自然と涙がでてきた。死なないでくれ、白龍。おまえは私のたった一人の家族なのだ。年端もいかぬ頃から、私は白龍とともにいた。生まれて初めて心通わせることのできた相手だったと思う。馬であっても、白龍は私の思っていることや命じたことをちゃんとわかっている。そんなふうに思っていた。
「でも、私はおまえの気持ちをわかってやれなかったかもしれないな」
このままではもう、白龍は走れない。しばらく、少なくとも半日は休ませてやらないと無理だ。本当に死んでしまう。だが……、私は急がなければならない。カピラ国の状況が全くわからない今、一刻の猶予もない。
ふと眼下に目を向けると、小さいが人の住む集落が見えた。コーサンビ村より幾分高度は下がっている。耕された田畑も見えるし、馬小屋もありそうだ。
私はゆっくりと白龍を引く。恐る恐る足を進める白龍。なんとか村まではいけそうだ。
馬小屋に数頭の馬を飼っている村人に声をかけた。訝し気に私を見るその男も、稀に見る美しい白馬の姿には見惚れたようだ。私の申し出を快諾してくれた。
「わかりやした。お預かりします。ただし、一週間経ってもお迎えがこなければ、売りますぜ」
「大丈夫だ。必ず迎えに来る。その時にはこの倍額出すから丁寧に扱ってくれ」
私はヤーセナに渡すつもりだった金銭を村人に渡した。この男には十分な金子だろう。嬉しそうに何度も頷く。
「白龍。ここで脚を休めろ。私は行かなければならない」
寂しげな瞳とともに私に鼻づらをこすって来た。私は白龍の長い顔を両手で包み込むようにして囁く。
――走れるようになったら、私の所に戻ってきてくれ。おまえなら、できるよな?
迎えに来るとは言ったものの、これからの状況によってはそれができるかどうかわからない。白龍ならば、ここから隠れ家まで来るのは難しいことではない。代金の踏み倒しをするわけではないが、売り飛ばされるわけにはいかない。私はそっと繋げた綱に傷をつけておいた。
白龍なら大丈夫だ。そう自分に言い聞かせると、良さそうな馬を一頭買い、またシッダールタの待つ隠れ家へとひた走る。二日目の太陽が落ちていく。辺りは夕暮れだ。はるか向こうには海のように広がる砂漠が見えてきた。
高度がどんどん下がってきて、目に飛び込んでくる色も夕日にあてられオレンジ色へと変わっていく。刺すような冷たい空気もすでにない。もうすぐだ。私達の屋敷を隠すこんもりした木々が遠くぼんやりと視界に入ってくる。
無事でいてくれ、シッダールタ。
阿修羅の章5 了 次章に続く。