第十七章 阿修羅の章4 夢語り
夜になって我楽達が戻って来た。どうやら無事に仕事は済ませたらしい。いつもと勝手の違う狩りだったが、心配していたことはなかったようだ。
私はシッダールタの意識が戻ったことを我楽に告げた。我楽は口元をほころばせ喜んでくれた。
「それではこれを。今日のキャラバン隊に医師がおりましてね。丁度良いので、色々もらってきました」
そう言って、薬草の入った器を手渡してくれた。もらったと言うが、正確には奪った、だ。
「これは?」
「これは東の国で取れる、魔法の薬草ですよ。弱った体を元気にしてくれます。王もお疲れでしょうから、一緒に飲まれたらいい」
「ありがとう。遠慮なく使わせてもらう」
早速これを煎じて飲ませるため、水場に行こうとした私を、我楽が呼び止めた。
「実は、気になる噂を耳にしまして」
「どうした、何かあったのか」
「それが……、コーサラ国の前国王、ヴィルーダカが生きていて、挙兵したと」
誰だ、それ? その名を私が記憶の底から引っ張り出すのに、我楽はしばらく沈黙しなければならかった。
シッダールタが目を覚ましてから、二週間が経った。若い彼は、見る見るうちに回復し、やせ衰えていた体にも少しずつ肉がついてきた。
盗賊は、奪った荷のなかにある珍しい食べ物をそのままここに持ち込んでいた。シッダールタが初めて味わう異国の物も多々あっただろう。カピラで食べていた物より体に良いものだ。干した果物や獣の肉は一度食べたら病みつきになるほどの美味しさだったし、時折オアシスの市で購入してくるパンや米は別物だ。山羊のミルクもヤツの体には合ったよう。
そのおかげか、最近では屋敷の周りを歩くことも造作なくできるようになった。今日は少し思い切って白龍に二人で乗り、物見岩までやってきた。
「外はやはり気持ちがいいなあ」
シッダールタが物見岩の頂上に座り、思い切り伸びをした。朝早い今はまだ空気が冷たい。岩の上もひんやりとして気持ちが良かった。
「数日前はここで死にかけてたんだがな」
肩をすぼめてそう続けた。私は奴の隣に立ち、遠くはるかキャラバンが通る場所を見渡す。今日もそこには影すらない。この時間は、最も往来が多い時間というのに。
「よくもまあ、馬もなしでここまで来たものだな」
私はからかうでもなくそう言うと、シッダールタは私を見上げた。
「何とかの一念、岩をも通すって言うからな。まあ、無謀だったと思うよ」
口の端を片方だけあげると、自嘲的に笑った。砂漠を彷徨って隠れ家に辿り着いたときには、黒髪は艶を失い、髭だか髪だかわからなくなっていた。だが、今はもうその艶を取り戻し、肩に揺蕩っている。
「そう言えば、おまえ出家と偽って城を出てきたのだろう? 頭を丸めなかったのか?」
「あ? だれが髪を剃るか! 冗談じゃない。俺はこの長髪が自慢なんだ」
罰当たりなことを言う奴。こいつは本当に『仏陀』になるのだろうか。あれはやっぱり、ただの夢? 私はシッダールタが目を覚ました時から、ずっと考えていた。私の命と引き換えに、こいつは死の淵から戻ってきたのだろうか? 私の命は担保に入れられたのだろうか。
別に構わない。私はこの期に及んで、生き延びたいと思っていないことに気が付く。こうしてシッダールタが笑顔を私に向けている。紛れもなく生きている。それだけで私は自分が生かされているのを感じる。こいつさえ生きていれば、私が生きてようと死んでいようとあまり意味がないのではないか。『二人で一人』 アシタはそう言っていた。それはこういう感覚なのだろうか。
もちろん、このまま二人で生きていくことが、私にとっても奴にとっても幸せなのは重々承知だ。
「もう自分で馬も乗れそうだな」
シッダールタは嬉しそうに自由に動く手足に眺めている。目覚めたときには、筋力が衰えて、立ち上がるのも苦労していたから。
「馬か。西の異国にはいい馬がいるのだ。盗ってくるか」
私が何気なく放った言葉に、シッダールタはぴくりと反応する。
「いや、まだいいよ」
私ははっとした。戦で敵が持つ良い馬を奪うことなど造作もないことだったが、盗賊として人の財産を奪うのは、やはり抵抗があるのだろう。
改めて私は思う。この先、シッダールタが元通りの健康体に戻ったら、どうしてやったらいいのだろう。まさか盗賊にさせるわけにもいかない。カピラに戻るか? ダイバダがどう出るか知らんが、国のためにはそれが一番良いだろう。
では私はどうする? 一緒に帰るか? 開き直って兄妹として国を統治するとか。
「はは!」
私は思わず声に出して笑ってしまった。
「阿修羅? どうした?」
突然笑い出した私に、シッダールタが怪訝な顔をした。
「いや、何でもない。思い出し笑いだ」
変な奴だなあ。とシッダールタが私の背にある朝日を眩しそうにして微笑した。
滑稽だな。何もかもが。私はカピラには戻るつもりはない。シッダールタが戻りたいのならそうすればいい。恐らくそれが最も現実的だ。コーサラの前国王、ヴィルーダカが反乱を起こしている。それを平定すれば、また国民はこいつを認めるだろう。
「陽が昇って来た。戻ろう、シッダールタ」
「ああ、そうだな」
シッダールタには、既にヴィルーダカのことを話した。完全に私の失敗だ。持って帰った首は替え玉だったのだ。まんまと騙されて、ガキの使いになってしまった。
あの日、籠城したコーサラ、シュラヴァースティの城。リュージュと数十人のわずかな兵とともに玉座の間に行くと、既に斬り落とされた王の首が置かれていた。殺ったのはコーサラの重臣ども。そう思っていたのだが、そうではなかったらしい。私は裏切者の重臣たちを、国から追放したが、命を獲ることはしなかった、恐らくその中に、ヴィルーダカがいたのだろう。
別に温情をかけたつもりはなかったのだが……。文字通りの裸で城から吐き出された奴らが、まさか生き延びるとは思いもしなかった。それを成したということは、相当の恨みや執念があってのことだろう。これは、ダイバダの手に余るな。あの腹に何物もある嫌な野郎ならどうする? もしかすると、シッダールタを探すかも。とすると、ここにいるのは結果的に良かったということか。ここにいる限りは見つかるはずもない。
「そうか。いや、全ての責任は総大将の私にある。しっかり首を確認するべきだったな。勝利に酔ってしまったか」
私の話を聞くと、シッダールタはそう言った。だがその後、一切その話をしなかった。奴は何を思っているのか。思うところがなかったわけではないだろう。旧マガダ国にいるはずのナダやリュージュのことも気になっているはずだ。
二人乗りだし、取り立てて急ぐわけでもないので、私は白龍をあまり速くは走らせなかった。景色を舐めるような速度に退屈したのか、背中でシッダールタが話かけてきた。
「意識を失っている時に。たくさん夢を見たよ」
耳元で囁くように奴は話し始める。低音の落ち着いた声が心をくすぐる。
「あれだけ寝ていたからな。それはたくさん見ただろうよ」
「まあ、ほとんどおまえの夢だったがな」
笑い声とともに息が耳朶にかかる。
「いやらしい奴だな」
「そう言うなよ……。ふふふ」
「何か面白い夢でも見たのか?」
わたしは白龍の速度をさらに落とす。シッダールタの声をもっとはっきり捉えるために。心地よい低音の透る声。ほとんど歩いている速度にまでなった。
「ああ。はっきりと覚えている夢があって……」
シッダールタは私の背中で、楽しそうに見た夢を語りだした。それはとても奇妙な夢で、奴は気が付くと、魚だったそうだ。
――――ある時私は魚となって海を泳いでいた。美しい青の海に、キラキラと太陽の光が微生物を雪のように輝かせていた。私は光を飲み込もうと腹ばいになって泳いでいたよ。
そうかと思うと、今度は真っ暗な土のなかで蠢く虫だった。暗いしジメジメすると思っただろう? それが違うんだ。柔らかくて暖かくて、何故か安心できて。そこでいつまでも眠っていたくなるような、まるで母のお腹の中にいるような穏やかな気持ちだった。
その次は鳥だ。大空をそれは気持ちよく飛んだ。眼下には見たこともないような大きな宮殿が見えた。ラージャグリハよりもっともっと大きかった。大空からみる地表は美しくてなあ。眼下に広がる大地と緑、大河、全てが自分の物になったような錯覚をおぼえた。私はもう、この世にいなくて、何か別の者に転生したのかと思っていた。
「転生? 生まれ変わりか?」
私は顔を半分だけ振り向いて尋ねた。うっすらと汗をかいたシッダールタの顔がすぐそこにあった。私はたじろぎ、慌てて前を向く。
「そうだ。私はいつか、おまえに言ったことがあったな。たとえ何に生まれ変わっても、おまえを見つけると」
シッダールタが懐かしそうに言うと、顎を私の肩にのせてきた。奴の息が私の頬にかかる。腰に回した手もぐいと力が入った。
「おい、やめないか。白龍がヤキモチを妬く」
「ええ? 本当か。それは困ったな」
私の声が聞こえたのか、白龍がいやいやをするように首と体を振った。私達はバランスを崩して、大笑いする。
「それでな……。最後に見たのは、おまえだった」
ひとしきり笑うとシッダールタが夢の話を続けた。私の胸に小さな炎がほわんと灯る。
「見つけてくれたのか?」
私は少し照れながら尋ねた。
「どうかな」
「え? 違うのか?」
「いや、そうだな。見つけたんだよ」
曖昧な言葉でシッダールタはその場を濁そうとする。なんだ、どういうことだ。私は少し不服に思う。見つけると言っていたじゃないか。私が何になっていても、たとえ小さな虫でも見つけると……。
「阿修羅……。後ろを向いて?」
憮然とする私を甘い声で振り向かせようとする。そんな手には乗らない。シッダールタは右手で私の腰をしっかりつかむと、左手で顎を包み込んで来た。
「よせ……」
思わず後ろを振り向くと、そこには奴の顔があって……。
「目が覚めた時、すぐ横におまえが寝息を立てていた。必死で動かぬ手を伸ばした」
「シッダールタ……」
奴の視線が私の唇に落される。柔らかいものが触れる。私は瞼をそっと閉じる。ゆっくりと噛み合ってそれを確かめる。私は半身を捩じってシッダールタの体に両手を回した。
白龍が焦れたように速足になるまで、私達は互いの果てぬ思いを確かめあった。
私はこの機に、再びコーサンビ村、母が最期を迎えた村を訪れようと考えた。理由は二つ。シッダールタに使った鉱石がもうなくなってきた。今後を考えると補充したい。二つ目は放置したままの母の処遇を相談したい。
シッダールタが健康を取り戻すとなると、やはりいつまでも隠れ家にいることはできないだろう。どこに行くとも決めていないが、また砂漠を横断することになる。そのためにも鉱石が必要だった。世話になった我楽達にも餞別代りに置いていきたいのもある。どれほど手にできるかはわからないが。
そして、やはり母のことも気になっていた。病人のため火葬するとヤーセナが言っていた。いくらお願いしてきたとはいえ、このまま知らぬ顔はないだろう。
母、シャリーンの話を聞いたシッダールタは、私に同行を願ったが、さすがにそれは無理というもの。片道でも馬で二日はかかる。
「無理を言うな。もう一人で何でも出来るだろう? 我楽達に迷惑かけるなよ」
と子供に言い聞かせるように言ってやった。シッダールタは少しむっとしていたが、自分の体は自分が一番よくわかっているだろう。奴は無言で頷いた。
第十七章 阿修羅の章4 了 次章に続く。




