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第十七章 阿修羅の章4 明日


 それからシッダールタは混濁する意識のなかを彷徨っていた。時々目を覚まして私と言葉を交わしたが、ほとんどが朦朧としたまま、息をしているのが不思議なほどだった。

 私は我楽に剃刀を借りて、彼の伸び放題の髭を剃った。水を飲ませる時も邪魔だし、なにより不衛生だ。だが本音は、シッダールタの顔が見たかった。


 髭を剃り終えて、シッダールタの頬や口元、輪郭が露わになった。だが、いつもの艶のある美しい肌を見ることは叶わなかった。カサカサの肌には深い皺が刻まれている。私はそっと手を寄せた。


 三日目の夜から、シッダールタは全く目を覚まさない、意識不明の状態に陥った。熱も高く、息も水中に溺れているかのように、吸っても入ってこない空気を求めて苦しそうだ。


 どうすることもできないのか……。おまえがここに辿りついてからはや五日が経とういうのに、私は何もできないのか? おまえは約束された子のはずだ。運命を背負っているはずだ。こんなところで命を閉じるなどあるはずがない! 神でも誰でもいい。どうかシッダールタを助けてくれ! 代わりに私の命をくれてやるから!


 私はおまえにとって、やはり不吉な者だったのか? 出会ってはいけなかったのか? 神の意志に逆らって、この世を血に染めた。これはその報いなのか。もし、そうならば、その報いは私一人で受ける。そのために、私は生まれてきたのだとすら、今は思える。


 私はシッダールタの苦しげな呼吸を見るにつけ、そんな感情が沸き起こった。こうなったのは愚かな望みを持った私のせいなのだ。私はいつしか自分を責め続けていた。




 五日目の朝も、シッダールタは目覚めなかった。寝床の横で私は、今にも止まってしまいそうなシッダールタの息を見つめている。

 ここを離れたくはなかったが、もう冷水を補充しなければならない。仲間は新しい狩場へ仕事に出ていた。


「すぐ帰ってくるから、生きていてくれよ」

 

 私はシッダールタにそう声をかけると、急いで白龍を飛ばす。冷水が湧き出ている場所は隠れ家から馬で一時かかる。天の山はカピラのさらに東の奥から、私達が暮らすこのあたりまで連綿とその山々を連ねさせている。その麓にこんこんと湧き出る泉から、私達は冷水をいただいていた。山の頂が雪に覆われる頃には、氷も張るほどだ。


 山に近づくほど、気温が下がっていく。上着を着てこなかった私は、思わず寒さに震えた。冷たい水を桶に四杯分。白龍に運ばせるのはこれが精一杯だ。荷を取り付けていると、ふと足元にある(ほこら)が目に入った。


 こんなところに、あっただろうか? 私は小さな祠を目の端で捉える。誰かがここで亡くなったのだろうか。小石が無造作に積まれたそこには、山に咲く色鮮やかで可愛らしい花々が供えてある。私はついそこに手を合わせた。信仰など、生まれてこのかた持ち合わせていなかったのに。


 どうか、シッダールタの命を助けて。彼を連れて行かないでくれ。代わりが必要なら私の命をやっても構わない。あいつが苦しんでいるのは、私のせいだ。だから、殺すなら、私を殺して……。


 早く戻らなければ、もしもあの部屋の扉を開けた時、おまえが息をしていなかったら……。私はぶるっと震える。それは寒さのせいではない。ああ、息が白い。母のいた、あのコーサンビ村も、息が白かったな。


 私は白龍を走らせながら、あの村を思い出した。白髭の医者、優しそうな村人……。


「あ!」


 私は唐突に思い出した。なんてことだ! こんな大事なことを忘れているなんて! 私は重い荷を抱えて走っている白龍にさらに鞭を入れる。既に相当の速度で走っているにも関わらず。白龍、急いでくれ! 早く! 早く帰らなければ!


 あの村を去るとき、ヤーセナが持たせてくれた薬の中に、砂漠の熱に役立つものがあったと記憶していた。あの日は色々と考えることが多くて、頭の中は整理されていなかったが。もしかすると、シッダールタの状態を上方に向かわすことができるかもしれない!


 私は隠れ家に着くとすぐ、水桶を持って部屋へ走った。シッダールタは私が出た時と同じ格好で、同じように苦し気に息をしている。よかった。まだ生きていた。私は安堵する間も惜しんで、コーサンビ村から持ち返ったものを取り出す。

 短刀と、乾燥した薬草、それに鉱物だろうか、緑掛かった白っぽい石が入っていた。私はその石を爪の先で削ると舐めてみた。少し塩からい。これは、いけるかもしれない!


 私の胸に希望のあかりが灯った。それを大事に消さないように、私は鉱物を削って水に溶かす。痩せて軽くなってしまったあいつの背を立て、唇に器を押し当てて何とか飲まそうとした。だが、うまく口を開けてくれないし、貴重な鉱物入りの水は上手に入っていかない。

 

 どうしたらいいのだ。私は困惑する。これが飲めなければ、せっかくの薬も役に立たない!

 思いあぐねて考えついたのが、私がこの水を口に含んで奴に直接流し込むことだった。これなら体を抑えながらでもできる。

 私は水を口に含むと飲み込まないように気をつけ、シッダールタの唇を指でこじ開けた。顎を上へむけると自分の唇を押し当て、ゆっくりと水を注ぎこんだ。自分の舌をうまく使って、液体が気管支に入らないように流し込む。すると奴の喉が鳴る音が聞こえた。いいぞ、上手く飲めている!


 私はそれを何回か繰り返した。造った薬水は全部飲ませることができた。もっと早くこの方法を思いつけば、水分を取らせることができたのに。私はいったい五日間も何をしていたのか。

 これで危機が去ったかどうかはわからない。だが、気のせいかもしれないが、あれほど苦しそうだった息が、なんとなく穏やかになっている。気のせいかもしれないが……。


 私はシッダールタの寝床の横でヤツの顔を見る。どうか、帰ってきてくれ。どこにも行くな。もう、私を一人にしないでくれ。そう心の中で何度も繰り返しながら。

 



 ふと気が付くと、私は(ほこら)の前にいた。冷水が沸く泉のほとりにあった祠だ。私はシッダールタのそばにいたはずなのに。そうか、これは夢か。私は夢を見ているのか。私はシッダールタがここに倒れ込んでから、ほとんど眠っていなかった。眠っているうちに、奴が急変することが何よりも怖かった。そして、目が覚めた時、そばにいたかった。


 早く目覚めなければ、シッダールタの様子を見なければ、私は夢の中で葛藤する。だが、そこに私を呼び止める声がした。


『待て、阿修羅。話があるのだ』


 そこには一人の老人が立っていた。腰が少し曲がった、長い白髭を垂らす、見たこともない老人だ。


『貴様は何者だ』


 夢の中なのに、その人物には不思議と現実味があった。リアルにそこに存在しているように感じる。


『わしかね。アシタというものじゃよ』

『アシタだと?!』


 シッダールタがこの世に生を受けたとき、末は仏陀か聖王になると予言した者、アシタ仙人。


『アシタでもあったし、名も知れぬ僧であったこともある。ほれ、あの時、おまえに仏陀を会わせたのもわしじゃ。断っておくが、あの仏陀はわしではなく、本物じゃよ』


 カピラ城で見た夢の話か。夢の中で夢の話とは馬鹿馬鹿しい。


『その変幻自在のアシタが何の用だ!?』


 私はこのまま夢を見るつもりらしい。早く目を覚ましたいのに、体と脳はその思いを封じ込めようとしている。


『おまえは祠で一心に祈っていたね。シッダールタの回復を』


『それは……当たり前だ。そうだ! アシタよ、シッダールタは約束された子だ! こんなところで死ぬわけがないだろう? 命を助けろ! 出来ぬとは言わせぬ!』


『慌てるでない。悪魔の子よ』


『悪魔の子?』


 そう呼ばれるのは初めてではない。ここの盗賊たちにも言われたことはある。戦では私に殺される半数がそう叫ぶ。


『おまえが望んだわけでもないだろがな。なんにせよ。おまえは人を殺し過ぎじゃ』


 何を今更。そう呼ばれることは望んでないが、やらされていることでもない。その姿を見て悪魔と呼ぶなら、それも仕方ないことだろう。

 自称アシタは、よっこらしょと岩に腰掛けた。座ると小さくなる。


『おまえは自らの命を引き換えにしても、シッダールタを助けたいのか』


 何を祈ったのか知っているのか?! いや、待て、これは夢だから当たり前か。夢だと思いながらも、私は素直に返答しなくてはいけないと考える。正直に言わなければと。


『シッダールタが助かるのなら、私の命などいくらでもくれてやる』

『そうか……。じゃがな、そううまくいかんのだよ』


『どういうことだ?!』


 素直に返答したのに、なぜ揚げ足取られなければならないのだ。私はこのじじい、自称アシタに掴みかかりたくなってきた。


『シッダールタは自分が助かっても、おまえが命を落としたら生きていけないじゃろう』


 だがその言葉にはっとした。カピラを去った後、命がけで私を追ってきた。もしまた私がいなくなったら、あいつはどうなってしまうのだろう。そのうえ、私が身代わりになったと知ったら……。


『だが……』


『わしは、おまえたち二人が出会ったら、どうなるかわかっていた。おまえたちは二人で一つじゃ。離れることなどできん。だからスッドーダナ王におまえを殺すよう仕向けた』


『な、なんだと!』


 スッドーダナ王が私に告白したときのことを思い出す。旅の僧は、シッダールタが7歳の誕生日、王に「影の子を殺せ」と注進した。私達親子の下に刺客が来たのはその間もなくのことだった。


『貴様……! まさか貴様が!』


『怒るな、阿修羅。おまえがそんなことで殺されるとは思っておらんかった。この運命を変えることなど無理だと知っておったよ。でも、それでも抗ってみたのさ。仏陀の誕生のために』


『仏陀の誕生? ふん、寝言でも言いに来たか。あいつは私に会うより以前、剣を取ったんだ』


 爺さんは私を上目遣いで見る。正直不気味だ。すると、大げさにため息をついた。


『おまえを引き離したことの報いかな。因果応報とはよく言ったものじゃ。そしてシッダールタは自らの力でおまえを引き寄せた。もう焦らなかったよ。これが運命(さだめ)なら、従うしかないのだろうと』


 確かに……。シッダールタが出家をし、修行に入っていたら。私はあの国に戻ることはなかっただろう。あいつとも会うことなく、退屈な盗賊生活を送っていたかもしれない。あいつが挙兵したからこそ、私はカピラを目指した。


『じゃがな、運命というのは、たまに思いも寄らぬ悪戯をするものじゃ。王子は剣を取り、おまえと出会い、そして結ばれた。本来ならもうこれまで、というところだったんじゃが』


 思わせぶりな区切り方をする。私は気が長いほうではない。さっさと結論を聞きたいのだ。大体、いつまでもこんな夢の中で遊んでいる場合ではなかった。もういいからさっさと目を覚まそう。


『待て。まだ話は終わっておらん』


 私が目を覚まそうとしているのが分かったのか、慌てて爺さんが制した。これは夢なのか? それとも妖しい術にでもかかっているのか?


『おまえが見た仏陀の姿。あれは幻じゃない。私もみることができたのじゃ。いつか、そんな未来もあると』


 何かと思えば。そんな話か。あれは夢じゃないか!


『馬鹿馬鹿しい。そんな夢の話はどうでもいい。シッダールタを助けるにはどうしたらいいのだ! さっさとそれを教えろ! あいつはまだ死ねないはずだ!』


『ただの夢ではない。希望じゃよ』


 焦れる私にこいつはお構いなしだ。そしておもむろに立ち上がると、曲がっていた腰をまっすぐに伸ばしてこう言った。


『シッダールタが仏陀となるにはおまえの力が必要じゃ。いや、おまえと二人でなければ成せないのじゃ』

『なんだと?』

『おまえは本当にシッダールタのためなら現世の命を捨てられるか?』


 再び自称アシタがそう問うた。私はここで、また正直に話さなければと思い立つ。ここはごまかしてはいけないところだ。しっかりと言わないと、叶わぬ望みになってしまう。


『シッダールタが生きるのならば。この命、惜しくはない』

『いいじゃろう』


 爺さんは頷く。白くて長い(ひげ)を手ですきながら、わたしの顔を見た。


『それができるのは、この世でおまえひとりだ。心しておれ。世の人のことなど考えなくてもいい。シッダールタのためだけに命を使え。それはおまえの望みでもあるだろう』


 アシタと名乗った老人は祠の方へと足を向ける。先ほどまで足元が及ばぬようだったのに、確かな足取りで歩いていく。その姿はだんだんと薄くなり、体の向こうに岩肌が見えた。私は消えていく背中に夢中で声をかける。


『待て! どういうことだ! シッダールタは助かるのか?』

『これから起こることを全て受け入れよ』


『おまえは誰だ? アシタ仙人なのか?』


 姿はもう霞みのように消えている。声だけが響いた。


『私は……、明日だ』




 誰かが私の髪に触れている。誰かが咳をしている。私は沼に落ちたような重い体を浮上させようと意識の下でもがいていた。起きなければ、早く。

 ようやく固く閉じられた瞼を開けると、視線のすぐ前に、頭を枕に乗せたままこちらを見ている藍色の瞳があった。


「シッダールタ……」


 シッダールタは私の髪に触れようと一生懸命手を伸ばしていた。私も左手を伸ばすと彼の頬に触れる。そしてその手をゆっくりと滑らして、私の髪を触る右手の甲に乗せた。


「目が、覚めたのだな」


 私は起き上がると、シッダールタの右手を自分の頬に添える。奴の手は、まだ力が入らないのか、私の手の中で大人しくしていた。


「さあ、この水を飲んでくれ」


 私は用意していた鉱石入りの水を口に付けた。シッダールタはまだ起き上がるほどの力はなかったようだが、首を少し起こして美味しそうに水を飲みほした。


「阿修羅、心配かけたようだな」


 絞り出すような声で、シッダールタは私に言った。私は首を大げさに横に振る。


「いや、きっと目覚めると、信じていたから」


 私はそれだけ言うと、慌てて天井を見る。涙が溢れてきたからだ。こんなことをしても、流れ落ちる涙を抑えることなどできやしない。それでも、それでも私は……。


「阿修羅、上を見ないで、私を見てくれ。おまえの顔を見せてくれ」


 シッダールタが這うようにして私に手を伸ばしてくる。私はこらえきれずにシッダールタを見る。だが、涙でぼやけて輪郭を捉えるのがやっとだ。


「シッダールタ! 何故来た! ここはおまえの来るところではないのに!」


 そう叫びながら、伏せている奴の腕の中に飛び込んでしまった。やせ衰えたシッダールタの胸は、まだ私を迎えることなどできなかったのに。それでも奴は仰向けに体を動かすと、私の頭を(かこ)うように抱きしめる。すまない、すまない、と小さな声で詫びながら。





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