第十七章 阿修羅の章4 再会
我楽達の元に戻った阿修羅は何を思う。
私はその日、我楽と共に物見岩にいた。物見岩のてっぺんに左足をかけ、遠く広がる砂の海を見ていた。昇ったばかりの太陽が私の左側を焼いている。このところ、西の国境で頻繁に小競り合いが起きている。そのために大きなキャラバンには滅多にお目にかかれなくなっていた。
私は仲間が飢えないよう、新たな標的を見つけていた。今日はその下調べのためにここまで来たのだ。
私がカピラ城を後にしてから、早くも一年が経っていた。
あの日、涙にくれながら舞い戻ったこの地。盗賊たちは思いのほか私の帰還を歓迎してくれた。特に我楽はボロボロと泣き出し、私を困らせた。しかし、奴は私の顔を見て驚いていたな。それはそうだろう。私は宣言通り、北印度を制圧し、『軍神阿修羅』の名を欲しいままにした。どんな凱旋を期待しただろう。それが戻ってきたら、瞳に力もなく憔悴しきっていたのだ。驚かない道理はない。
「阿修羅王、一体なにが……」
「何も言うな、我楽。いずれ話す時もこよう」
私はとにかく体を休めたかった。我楽は私の部屋をそのままにしていた。全く律義なやつだ。だが心底有難かった。
それから私はぼんやりと日々を過ごした。あいつに会いたい気持ちがなかったと言えば嘘になる。あいつはどうしているか。私がいなくなっておかしくなっていないか。そんなことが気になるばかりだった。
「阿修羅王。少しご相談が」
そんな時だ。我楽が私に話があると言ってきた。私は既にカピラであったことを我楽に伝えていた。私の素性も。
我楽の話はこうだった。私が去ってから、砂漠の隊商は減る一方。これは私達が起こした内乱のせいもあるだろう。盗賊の実入りも減っている。
「なるほどな。私が歓迎されたのはそういうことか」
私はようやく合点がいった。ここで引きこもっている場合ではないらしい。そろそろ潮時だった。私自身も鬱々としているのが嫌になっている。こんな時は体を動かすに限る。
こうして私はまた砂漠を駆ける盗賊となった。白龍がなぜか嬉しそうだったな。
乾いた風。足に纏わりつく熱い砂。肌を刺す陽の光。全てがあの日々のままだ。疲れた私の気持ちを慰めてくれる。あれほど退屈だった日々が、私を慰めてくれるとは思いも寄らなかった。
それからしばらくして、シッダールタが王位に就いたという噂を聞いた。私はとりあえず安心した。あいつも無駄に時を過ごすのを止めたのだと。
安心した……。それは本当だったが、同時にたまらない寂しさも感じていた。胸がキリキリと痛む。私のことなど忘れろと思っていても、忘れられることの寂しさが私の心を刺す。
シッダールタ、おまえはもう、私のことなど忘れてしまったのか?
「阿修羅王、スッドーダナ前王が崩御されたそうですな」
あれからまた月日が過ぎた。私達のところにもスッドーダナ前王崩御の報が伝わってきた。私は無言のまま頷く。我楽の言いたいことはわかっている。曲がりなりにも前王は私の父だ。だが、正直なところ、前王は私の父というより、シッダールタの父という思いしかなかった。
あの日、スッドーダナから自分が父親だと告げられても、それを真実と受け止めるにはあまりにも急だった。しかも、その父に私は命を狙われて、母と二人カピラで息をひそめて生きていたのだ。信じることは父の無情を認めるだけだ。辛過ぎた。
母も既にこの世にない。それを知ったのは、コーサンビの村を後にしてひと月も経っていなかった。
村を去るとき、私は村人の砂漠をよく知る者に、ここまでの帰路を尋ねた。盗賊達の隠れ家を教えることはできないが、物見岩に近い水場は砂漠を旅する者にとって知らなくてはならない場所だ。そこへの道筋を聞いた。
同時に、もし母の身に何かあったら、この場所にそれとわかる物を残して欲しいと頼んでおいた。
私はその場所に週に一度は様子を見に行っていた。四度目だった。そこに母の持ち物が置いてあった。それは、忘れもしない。母が舞台で舞うとき身に着けていた薄い布だった。くるりと振り向くたびに、この薄いストールがふわっと踊る。鋭い動きとふわりとした動きが相反して、幼心に胸が高鳴ったものだ。私はそっとそれを頬に寄せた。
眩い光、揺れ動く影、艶めかしい旋律とリズム。白い肌、栗色の髪、美しい人。涼やかな瞳とたなびくストール。一瞬にして甦った。
私は文字通り天蓋孤独になったらしい。と言っても、今までと何も変わらない。シッダールタはどうしているのだろう。噂によると、あいつはまだ独り身らしい。前王が生きていた頃は意地もあったかもしれないが(あいつはそういうとこあるからな)、もうその必要もなくなった。
早く、妃を娶れ、シッダールタ。
心にもないことかもしれない。でも、真実でもある。あいつが妃を娶り、名実ともに国を治める姿勢を整えてくれれば、私の気持ちも終止符が打てる気がする。もうあいつは、私を忘れているのだと。諦めが付くではないか。諦め? では私はまだ諦めていないのか? 馬鹿な。何を期待しているというのだ。
でも、心が痛いのだ。今でもなお、私の心はおまえを求めて時を彷徨う。
私がカピラ城を出てから、十ヶ月後、さらに驚愕の情報が耳に入った。シッダールタが国を捨て、出家したという話だ。西の異国の脅威に加えて、今年の雨季は度重なる大雨で大河が氾濫し、作物も打撃を受けたらしい。このままでは飢饉もあり得る。私達の稼業もあがったりだ。今こそ治世をしっかりしなければならないところだろうと思う。それなのに、出家なのか? 確かに民が願っているのは心の拠り所かもしれないが。
今一つ腑に落ちない。一体あいつは何を考えているのだ。
「次の王はダイバダというものがなるそうです」
我楽の言葉に私はしばし言葉を失った。私はその名前に聞き覚えがあった。マガダに勝利しカピラへ凱旋した後、国を挙げての宴会真っ只中、その男は私の部屋にやってきた。シッダールタの従弟という話だったが、似ても似つかない慇懃無礼な腹に一物も二物もありそうな野郎だった。良く言えば清廉、悪く言えば単純なシッダールタとはえらい違いだ。
「あれが次の王か。これは、また国が荒れるな」
私は遠い目をして応える。脳裏に霞むはるか彼方カピラ城。城門を一人後にする修行僧の姿がまぶたに浮かぶ。それとともに、胸に去来する嫌な予感がいつまでも残っていた。
あの日の予想通り、北印度からはあまりいい話は流れてこなかった。西の異国もそうだが、ついにこの混乱に乗じてマガダもコーサラも旧勢力が台頭してきていた。旧マガダ領にはナダとリュージュがいるはずだ。奴らは大丈夫だろうか。もしかすると、ダイバダに冷遇されて力を発揮できないのかもしれない。
「阿修羅王。そろそろ帰りましょう。大体のルートはつかみました」
一緒に来ていた我楽がそう声をかけた。次からは襲撃にも若干の遠征が必要になる。しかし、それも仕方ない。この砂漠にはもう、キャラバンが通ることはないかもしれない。
「ん? 何かあったのか?」
私は気配を感じて隠れ家のある方向を見た。すると、遠目にもはっきりと砂を飛ばしてかける馬の姿が見えた。背には仲間が乗っている。
「何事でしょうな。急いでいるようですが?」
「阿修羅王! 我楽!」
馬が前足を上げ、ひと鳴きして止まった。その背には馬同様息を上げた仲間がいた。連中のなかでは若手の部類に入る男だ。
「なんだ。そんなに急いで」
我楽が怪訝な表情でそう言った。若い男はぜえぜえと弾ませた息とともに吐いた。
「それが……、隠れ家の近くに誰か、倒れていて。商人かと思ったら違う。阿修羅王の名前を呼ぶので。どうした、もんかと。王、お心当たりは、ありますかい?」
私は一瞬目の前が真っ白になった。心当たり? そんなもの、一つしかない!
私は一言も発せず、白龍に飛び乗ると、手綱を引いた。私の心が乗り移ったように、爆速の勢いで、白龍は駈け抜けた。
それでも、それでもまだ足りない。急げ! 白龍、急いでくれ! 倒れている? 無事なのか? 生きているのか? 馬で半時も走れば隠れ家に着く。だが、今日はその半時ももどかしく遠くて遠くて。
こんなにも速く走る白龍に乗っていながら、砂に足を取られる様が苦しくて。真正面から受ける風、すり抜けていくいつもの景色がまるで遠い世界の幻のようだ。私は一点だけを見つめている。屋敷が見えてきた。だんだんと大きくなるそれにつれて、私の胸の鼓動も激しくなっていった。
「シッダールタ!?」
私は屋敷の扉に体を預けて開けると、そのまま転がるように入った。囲んでいた盗賊たちがその勢いに驚いて道を開ける。私の目に飛び込んできたのは。
「シッダールタ! おまえ、なんてことを……」
そこには変わり果てた、ぼろ屑のようなシッダールタがいた。髪は砂のまみれ、伸びた髭で人相もすぐに彼とは判別できないほどだ。私は慌てて駆け寄る。声をかけ体を揺すってみても反応はない。だがまだ息はあった。生きている!
「熱い……。誰か! 冷水を持ってきてくれ!」
シッダールタの体は燃えるように熱かった。砂漠では油断するとすぐにこの病に罹る。それにしても、これは酷い。
いつの間に戻ってきていたのか、我楽が水の入った桶を持ってやってきた。屋敷裏に置いてある冷水だ。
「王、そこをどいて!」
言うが早いか、我楽はシッダールタに水をぶちかけた。砂漠の熱に侵された時は、とにかく体温を下げるのが一番だ。砂漠で暮らしているものにとっては常識。仲間が濡らした布を大量に持ってきてくれた。なおも水をかけ続ける。しかし、シッダールタはぴくりともしなかった。
私はシッダールタの衣服を剥いだ。一国の王であった男とは思えないそまつな衣服。こんな格好でこいつは砂漠を越えたのか……。それに、腕も胸も、あれほど逞しかったのに、やせ衰えて骨が触れるではないか! 腹が立つのか嬉しいのか苦しいのか、私の感情は揺れに揺れた。いつしか涙が迸る。
「シッダールタ! しっかりしろ!」
私は水でぬらした布でシッダールタの顔、首、体を拭いた。だが、冷たい布は一瞬にして、熱を帯びる。
「水を飲め、飲んでくれ」
無理やり口をこじ開け、私は水分をたっぷり含んだ布をシッダールタの唇に押し込む。だが、水は唇から漏れてしたたりおちていく。
「王、とにかく続けて。少しでも水分をとらせないと」
我楽が私の背中で言った。
「わかっている!」
しばらく格闘したが、事態が好転することはなかった。私はシッダールタを私室へ運ばせ、肢体の付け根に冷水をしっかり吸わせた布を捲いた。かつてここに運び込まれた幼い私も我楽に寄って施されたやり方だ。砂漠で倒れた者にはこの方法が最も有効のはず。だが……。
「阿修羅王。まだ息はありますが……」
年長の盗賊がシッダールタの脈をとりつつ私に言いかけた。私はその後の言葉を右手で制した。それ以上、聞きたくない。
「何も言うな。私が何としてでも助ける」
必ず。おまえを助けてやるからな。こんな所まで、死の砂漠を越えてきた、愚かなおまえを一人で死なせはしない。
「我楽、悪いが冷水の補充を頼む。おまえたちも手間をかけてすまない。どうか気のすむようにさせてくれ」
私の勝手な我儘に付き合わされる連中はたまったもんじゃないだろう。だが、どういうわけか皆は神妙な顔をして頷いている。長くはないとでも思ったのかもしれないが、今の私にはそれにすがるしかない。
「阿修羅王、大丈夫です。冷水の補充、しっかりやりますから」
我楽の言葉が心底有難かった。
夜も深まったころ、私は何度目かの腕や足に巻いた布の取り換えをする。触れた感じでは、随分冷えたように思う。だが、まだ水分を十分にとれていない。私はやつの唇にまた水を含ませようと布を口に当てた。とにかく少しでも飲んでくれ。すると、ヤツの瞼がぴくぴくと反応した。
「うぐ、阿修羅……、阿修羅か?」
私の心の叫びが聞こえたのか、消え入りそうな声で、シッダールタが唇を動かした。まぶたを上下させ、眩しそうにしている。
「シッダールタ、気がついたのか?」
「夢じゃないな……。私はもう何度もおまえに会う夢を見ていたんだ」
かすれ声は喘ぐような息とともにどうにか吐きだされている。威厳のある太い声とはまるで別人だ。慌てて私は水の入った器を手に取り、奴の口に運んだ。
「その度に裏切られて……。胸が張り裂けそうに苦しかった。……今度は、夢じゃないな」
私は寝床に膝を乗せシッダールタの間近に顔を寄せる。そしてしっかりとその目を見た。
「夢なんかじゃない。シッダールタ、私だ。よくこんな所まで……。さあ、水だ。飲むんだ」
シッダールタは咳き込みながらも水を飲みだした。慌て飲み込もうとするので、半分ほど口から零れ落ちてしまう。あげくに気管に入ってしまったようだ。
「慌てるな。水はたっぷりある」
私は背中をさすってやる。涙が流れてしかたがない。会いたかったとかそんなことより、こんなにまでなってここに来たこいつの気持ちを思うと、どうしたらいいのかわからないくらい、胸が熱くなった。こみあげてくるものが全て涙になって流れ落ちていくようだ。
私はシッダールタの体を少し起こしてやった。ようやく咳がとまる。再び水を飲んだ。今度はゆっくり飲む。
「ああ、うまい……。そうか、ようやく……着いたんだな……。おまえのところへ……」
「出家、したのではなかったのか」
こんな姿をさらすヤツを前にこの台詞か……。我ながら何を言っているのかと思う。始めから、わかっていたではないか。こうなることは。
「出家……。いや、それは違う……。私は国も、兵も捨てて……おまえの後を追った……。それだけだ」
「シッダールタ……」
何度も息を継ぎながら、必死に言葉を紡いでいく。どうしても伝えたい、瑕があるのか、涙でいっぱいのヤツの瞳はそう訴えていた。
「父から、話を聞いた……時……、私は、自分で……自分の首を、絞めた……よ」
シッダールタの顔からは、あの生気溢れる若々しさが失われていた。最後の夜からまだ一年しか経っていないというのに、そのやつれぶりには目を覆うものがある。どうしておまえが、私を忘れたと思ったのだろう。
「父から、おまえが、私のために……去ったのだと聞いて……。一時は、王位に……就いた。それが……おまえの望みかと、思って」
「もういい。話はあとだ」
声にならない声を出して、話し続けるシッダールタ。私がいくら制してもヒューヒューという苦し気な息と共にヤツは言葉を繋いだ。
「だが、阿修羅、たとえ……、おまえと私が、血の繋がった……兄妹であろうと、私は……おまえ、を愛している。その気持ちに……嘘はつけん……。だから、だから……こうして、ここまで来たのだ」
私の腕をつかみ、かっと両目を開け、縋るように言う。直後、激しく咳き込みだした。
「シッダールタ、もう黙っていろ。わかっている。私も、私も同じだ。さあ、水を」
再び水を飲みほすおまえを私は見つめる。そうか……。逃げ出した私をおまえは追って来たのだな。何もかも捨てて。私の気持ちも知らないで。いや、そうじゃない。私は心のどこかでこうなることを望んでいたのではないか? 私はこの日を待っていたのではないか?
私の子だとスッドーダナ王から言われても、この愛を貫きたかったのは私だ。だからこそ、あの日城を出たのだ。この日が来るのを、心のどこかで願って。
「シッダールタ、私もおまえに会いたかった。本当に……」
「阿修羅」
私はシッダールタの手を握った。奴も握り返してきたが、その力は言うまでもなく弱々しかった。胸にとげが刺さったような痛みが走る。
「とにかく今は休め。話はそれからだ。ずっと、傍にいるから」
シッダールタは安心したように頷くと、寝床に深く身を沈め、瞼を閉じた。