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第十六章 シッダールタの章6  放浪

阿修羅を追うことを決意したシッダールタは……。


 見知らぬ小屋が見える。

 

 私はもう随分と砂の海を彷徨っている。水もない。馬も逃げた。拠るべく道しるべもなく、ただ当て所なく砂に埋もれる足を運ぶだけだった。衣服はとうにボロ衣にかわり、顔を覆う髭には汗と砂がこびりついている。

 

 小屋だ。あそこにもしかしたら阿修羅がいるのかもしれない。

 

 私は最後の力を振り絞って小屋に辿り着く。逸る心を抑えきれず、扉を開けた。


「阿修羅、会いたかった!」


 そこにはあの日のままのあいつがいた。黒曜石のように輝く明眸(めいぼう)を私に向け、桃のような唇を動かし、何かを言っている。


「何しに来たんだ。シッダールタ、私はおまえの父に殺されたのだ」


 そう言うと、私の首に手をかける。ぐっと両指に力をかけられ、私は息ができなくなる。


「あ…‥‥しゅ……!」


 はっと目を開ける。砂漠の裸の太陽が、私の体を焼き付けていた。灼熱から逃れるように岩陰で息をひそめていたのだが、いつの間にか太陽が移動していた。


「また夢か……」


 城から出てひと月。私は毎日のように阿修羅に会う夢を見ていた。最初の内は、涙涙の再会で、それが夢と知れると激しく落ち込んでいた。が、今は再会そのものも胸の傷を抉りだされるような苦痛を伴う。だが、それでも会えぬよりどれほどいいか。おまえに会ってすぐ殺されたとしても、私は構わない。





 阿修羅がカピラ城を去った日。父上から恐ろしい話を聞いた。私は父上が彼女と引き離したくて、ついにこんな荒唐無稽な作り話を準備したのかと思った。だが、作り話にしてはあまりにも度が過ぎている。そして同時に、思い当たる節がいくつも思い浮かんだ。


 やはり、幼い阿修羅の命を狙ったのは父上だった。あいつがルンピニーで見せた動揺。カピラヴァストゥに着いてから憂鬱そうだったのも全てが合点がいく。父上の憔悴(しょうすい)ぶりも阿修羅が原因だったわけだ。いや、自分の過ちを責めていたのか? 私は七歳の誕生日を思い出す。父が兵に命じていたのは、阿修羅の暗殺だったのだ。

 散らばったパズルのピースが組み合わされていく。出来上がった図は、恐ろしい真実だった。


 私と阿修羅、母は違えど、血のつながった兄妹。


 だがあの日、私はそんなパズルより、阿修羅を追いかけなければ、追いかけて連れ戻さなければ。その一心しかなかった。父上の話も聞く気にならなかった。調印式の後に重要な会議や晩さん会が予定されていたが、そんなもの知ったことではない。私はすぐにも城を出ようとした。


 阿修羅、おまえはここを去る必要などないのだ。兄妹だからとそれが何だと言うんだ。今更そんなことで私たちの関係を無しにすることなどできないじゃないか。おまえは昨夜どんな思いで私に抱かれていたのだ。阿修羅、私はおまえを失いたくない! 断じてそんなことはさせない!



 しかし、父上はそれを許さなかった。私を自らの親衛隊に抑えさせ、こともあろうに薬を盛った。私は扉の前で力尽き、彼女を追うこと叶わなかった。多くの兵士や侍従たちのまえで私は醜態の限りを尽くした。ダイバダもいた気がする。それでも私は一向に構わなかった。あの分厚い鉄の扉を開けて、阿修羅を追うことができたなら。



 阿修羅の母、舞姫シャリーンは、父上の愛人だった。私はシャリーンを当然見知っていない。物心ついたときには、父は義母マーハラと仲睦まじい夫婦であった。そんな恥ずべく過去があるとは知る由もない。だが、阿修羅の母上が、別れの際に私の名を残した理由もこれでわかってしまった。彼女は私をどうしたかったのだ。娘に復讐をさせたかったのだろうか。


 阿修羅は自分の意志で出て行った。私のためを思って身を引いたのだと、何度も父上から聞かされた。私の心と体から、それは徐々に生気を奪っていった。日に日に生きる意味を失っていき、廃人のように虚ろな目で部屋に閉じこもっていた。


 しばらくは父もそれを許したが、王子がそれで務まるわけもない。大きな事業である、統一印度を成し遂げたのだ。有能な部下たちが回していてくれたが、いつまでもそれに甘えるわけにもいかないだろう。

 業を煮やした父上が、あの手この手で私を奮い立たせようとしてくる。だが、私は父を冷ややかな目で見ることしかできなかった。

 身勝手に好きになった女に子供を産ませて、あげくに邪魔になったから殺そうとした、薄汚いヤツ。だが、それも私のためか。そう思うと、自分も汚れて感じた。


 父上が遠慮がちに私の婚姻を勧めてきたが、私はそれを鼻で笑って拒否した。貴方が何を思ってそれを口にするか。恥を知れと。

 月日が無情に過ぎ、阿修羅は戻らぬものと半ばあきらめがついたときも、断じて妃は娶らないと言い張った。これは私の意地だった。


 こうして私は数カ月、鬱々と過ごしたが、このままでは阿修羅が去った意味がないと思い始めた。父上もいよいよ床に臥すことが多く、さすがに国力の低下を肌に感じる。私は不本意ではあったが、カピラの国王、すなわち、統一印度国の国王に就任した。

 派手なお祝いをしようという向きもあったが、父の病状が思わしくないことと、私自身がそんな気分でなかったこともあり、簡単な儀式だけにとどめた。

 その時に会った、懐かしい面々、ナダ達の顔を見られたのは正直嬉しかった。


 それからわずか二ヶ月後、父上が崩御なされた。

 悲しくなかったと言えば嘘になる。ずっと過保護でありながら、私の成長を見守ってくれた人だ。だが、最も私の気持ちを如実に言い表すなら、虚しかった。

 父上は私に最後まで何度も詫びていた。私は、詫びる相手が違う、とそれをずっと受け入れなかった。そして、本当に詫びなければいけないのは、私なのだろうとも思っていた。私の存在が、全ての発端だからだ。


 なにが救世主だ。何が聖王だ。そんな途方もない預言が、全ての人を狂わせた。


 父上が亡くなってしばらくしてから、思いも寄らない人物が私にすり寄って来た。ダイバダだ。こいつは今になって何をしたり顔で私に囁くのか。

 だが、それは私にとって蜜のような甘言だった。


 父上が崩御された今なら、阿修羅を追うことは可能ではないか。出家することにして、城を出るという方法もある。

 

 奴は私の弱っている心に付け込んで、今更に従弟面して接近してきた。地方に有能な部下を送っていたので、私の周りにいる信頼できる部下は、モッガラーヤくらいしかいなかった。ダイバダを全く信用していなかった私だが、何となく耳を傾けるようになっていった。


 そうだ、行くなら今しかない。甘言を繰り返し聞くうちに、そんな風に思えてきた。あれから九ヶ月が過ぎてしまった。阿修羅は砂漠に帰ったに違いない。

 

 コーサラ国の西側では、異国との小競り合いが続いていた。あいつと約束していたのに。次は西を攻めると。今こそもう一度、あの頃に戻りたい。いや、そんなことはもうどうでもいい。おまえに会いたいのだ!


 そう思い始めると、私は自分を止められなくなった。いくつもの懸念することはあった。西の異国もそうだが、何よりも私の後を継ぐだろうダイバダ自身が頭痛の種だ。あいつに公平な政治ができるだろうか? モッガラーヤやナダ達の処遇は大丈夫だろうか。


 しかし、結局私はそんな憂いを捨て去った。自分の想いに正直に従うことにした。ダイバダにはいくつかの条件を出したが、あいつがそれを正直に遂行するとは思えなかった。それでも私は全てを無視した。全てを放り投げて、城を出た。


 阿修羅が城を去って、十カ月が過ぎようとしていた。私は誰の見送りも許さず、ただ一人、馬だけ連れて城を出た。表向きは出家だ。迎えの僧侶が門の前で待っていたが、私は丁重にお引き取り願った。


 さあ、行こう。私はわたしのままに生きる。預言も王子ももうおしまいだ。私はただ、愛する女に会いに行く。阿修羅を見つけて抱きしめる。それだけだ。それだけのために生きてやる。




 そして今、私は砂に埋もれている。喉はカラカラで頭は朦朧としている。馬は砂漠に入って三日も経たないうちに逃げ出した。無理もない。私が無謀過ぎたのだ。


 最初のオアシスで入手した水はとうにない。そこで情報を仕入れようとしたのだが、盗賊の居場所など誰も知らない。当たり前の話だ。


 私は砂漠を行くキャラバンと行動を共にすれば、盗賊に会えるかもしれないと考えた。だが、それも甘かった。近頃は西の国の周辺が物騒で、滅多に行き来がないという。自業自得とはこのことか。治世をほったらかしていたツケがこんなところで回って来た。それでも私は逸る気持ちを抑えられず、何の当てもないまま一人砂漠に出てしまった。


 カピラ城を出て、はやくもふた月が過ぎていた。あいつが城を出てから丁度一年だ。阿修羅はどうしているだろう? 一年も経ったのだ。私のことなど、もう忘れてしまったかもしれない。いい男ができたかもしれない。嫌だ。おまえを誰かに取られるなんて、我慢できない。そんな愚かな嫉妬も生きるか死ぬかでは大切なバネになる。


 私はよろよろと立ち上がる。陽はまだ高い。どこかこの熱を遮るところはないか。辺りを見回す。砂が太陽の光を受けてキラキラと輝いている。それがもう美しいとは思えない。残酷な光だ。どこにも何も見えない。仕方なく私は最後の力を振り絞って穴を掘る。汗が容赦なく噴き出る。思わず舐めると塩辛いばかり。まだ私の体から水分が出るのが滑稽だった。


 夜になった。なんとか今日も生き延びたらしい。陽が昇るまでに歩かなければ。方角は月と星のおかげでわかる。たまには雨でも降らないかと願うが、そんな寝言は寝てから言えと言わんばかりの晴天が続いていた。


 深夜にもなると、砂漠は急速に気温を下げる。昼間は重いだけの上着、今やただのボロ布だが、それを肩からかける。ブルブルと体が震える。もう私の体もこの布と同じようだ。あとどれくらいもつだろう。明日、陽が昇る前に水を得られなければ……。

 私の脳内には常に阿修羅がいた。その面影に向かって私は歩んでいた。水分を取らなくなってもう何日も経っていたが、それでも私が足を動かせたのは、あいつに会いたいというもはや狂信的な思いだけだ。既に私は狂っていた。だからこそ、この状況でも生きていられたのだ。だが、それももう限界に来ていた。


 どのくらい歩いただろう。変わった岩があった。人の背よりも高く、大きな岩だ。これなら日陰をたくさん作る。月明かりを頼りに見てみると、人の足跡らしきものがある。もしかしたら、と私は思う。

 その大きな岩を境に、景色が変わった。砂の原しかなかった眼前に大小の岩がごろごろし、その岩陰には小さな植物が生えていた。もしかするとここは砂漠の終点なのか? 私は歩を進めたかったが、疲労を極めていた私の足は思うように動いてくれなかった。ぜえぜえと息を垂らしながら、這うように進む。暗いうちに距離を稼ぎたい一心だった。


 無情にもまた新しい朝がくる。辺りが明るくなったとき、私は眼前に広がる景色に驚きを隠せなかった。砂漠を彷徨っていた頃、それはうっすらと影絵のように見えていた。だが今は、はっきりと私の目を捉える。

 天の山だ。カピラで見る天の山とは違う。カピラでのそれは、まさしく天を突く頂きが幾重にも重なり、来るものを拒む厳しさ、険しさを放っていた。だが、ここから見る山々は随分低く感じられ、優しく景色に溶け込んでいた。恐らく連なる天の山々の西の果てなのだろう。


 残酷な朝日が私の右側を焼くころ、こんもりとした緑が見えてきた。緑があるということは水があるということだ。私は荷物をかなぐり捨てる。頭に巻いた布だけが私の持ち物になってしまった。だがもう賭けるしかない。たとえここに阿修羅がいなくても、私が生きるか死ぬかはこの緑の向こうにある。生き延びることさえできれば、再びあいつを探しに行ける。

 

 私はこの期に及んで少しも諦めていなかった。阿修羅と再び会うことを。それだけが私の生きる意味だったからだ。


 私の目のまえに立派な屋敷が見えてきた。木々のなかにひっそりと建っている。人の気配がある。助かる。助かるぞ。あと少し、あと何歩? 扉が見えてきた。心躍る。砂地が薄くなっているのか心無し足も軽い。

 だが、安心したのだろうか。あと数歩というところで突然目の前が真っ暗になった。唐突に地面が眼前に迫る。そのまま意識が飛んでしまった。




挿絵(By みてみん)

第十六章 シッダールタの章6  了   次章に続く。

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